10-②

10-②


 午前中、長閑のどかな陽気に伴われて、たくさんの家族連れ客が店を訪れた。

 おそらくはその大半がこれから向かう行楽地への買い出しであったろうが、中には単純にこの店での買い物を楽しんでいる者たちもいた。この店は比較的敷地面積が小さく、その分落ち着いている部類に入るが、何度かヘルプで入ったここよりも大きい敷地面積を持つ店舗では、休日は一種のテーマパークかと思うくらいの賑やかさが浸透していた。そのときを思い返すほど、今日この頃は休日のおもむきが室内を律している。店長からしたら笑いが止まらないだろうが、その店長も本来いるべき場所で休日を送り、笑顔を分かち合っているのだとしたら、僕たちが身を粉にして休日を捧げているのも無駄ではなかったと思う。少しだけ、心が穏やかになる実感が湧く。それもこれも、隣に花音という存在があったから、素直になれたのだろうが。

「花音、そろそろ休憩行ったら?」

「え? でも、まだ忙しくなりそうじゃないですか?」

「うーん、まあでもレジ以外の仕事はほとんど終わったし大丈夫でしょ」

 時刻はもうすぐ正午を回り、行楽地までの寄り道客はだいぶ落ち着いてきた。

「じゃあいつも通り、とりあえず三十分だけ行ってきますね」

「オッケー。もしヤバそうになったら呼ぶよ」

「わかりました」

 与えられた四十五分の休憩時間のうちの三分の二をこの時間に充てることに、僕たちは同意した。それが終わったら僕が三十分の休憩に入り、残り時間は午後の落ち着いたときに好きなタイミングで取り終えるのが僕たちの暗黙の了解になっている。

「失礼します」

「はいよー」

 バックヤードに向かう花音の後ろ姿を眺める。

 僕は結局、今日も花音と向き合えなかった。修一という後ろ盾を得て、その上で花音は真正面から思いをぶつけてきたのに、僕はまた、知らない摂理を知る勇気が出なかった。花音と一線を越えることが、僕の想像の域を超えていた。器から溢れ出す慕情と色欲が、人格をも飲み込んでしまうと恐れおののいていた。

 店から人気ひとけがなくなる。休日から零れ落ちたほんの束の間が、奥のドアの向こうにいる一人の少女に突き刺さる。花音はもう、僕にとってただの一人の少女ではない。日常の象徴であり、生きがいの象徴であり、そして、見たことも聞いたこともない愛の象徴だった。あと一歩踏み出せば、あと一言言葉にすれば、僕らの溝は埋まる。僕たちはきっと、ロミオとジュリエットのように想い合える。未熟すぎる情でも、痛々しすぎる愛でも、僕たちはきっと、二人だけの世界を創り出せる。

 しかしまだ、僕には、何かが足りていなかった。

「一番乗りー!」

 突然、一人の男児が自動ドアを潜り抜けて店内に入ってきた。

「ゆうくんズルいよー」

 それから一秒も経たないうちに、男児よりも少し年上の女児が同様に、元気よく店に入ってきた。

「あ! このお兄ちゃん知ってる!」

 女児が年相応の無邪気さを向けた相手は、紛れもなく僕だった。

「あ、もしかして……」

 僕も、この女の子を知っていた。

明奈あきなちゃん、だよね?」

「うん!」

 女の子の浮かべた笑顔は、ともしびのように温かかった。

「こらー二人とも、危ないでしょー?」

 三秒後、二人の子供の母親が満を持して現れた。

「山岸さん……、いらっしゃいませ」

「ふふっ。びっくりした?」

 間違いない。僕の目の前には、二人の子供の母親がいる。

 二人の子供の母親であるが故の、山岸さんがいる。

「今、他にお客さんいる?」

「いえ! 山岸さんたちだけです!」

「そう。それは、ちょうどよかった」

 レジで話す僕たちを余所に店内に興味津々な子供たちから、山岸さんは手を放した。

「商品には触っちゃダメだからねー?」

「はーい」

 自由になった子供たちは、早速店内を駆け回った。一方で山岸さんは、僕の前から動こうとしない。

「どうされたんですか……? 家族で来られるなんて、今までなかったから……」

「そうね。ここにみんなで来たのは初めてかも」

 するともう一度自動ドアが開き、三十代後半くらいの男性が入店してきた。

「あれ? 二人は?」

「たぶん、あそこら辺かな」

「あ、いた。大丈夫かな、あんなに走り回って」

「他のお客さんいないみたいだから、大丈夫よ」

「そっか。なら大丈夫かな」

 男性は山岸さんの横にたたずむと、子供たちの様子を気にしながらも、しっかりと僕に自らの存在をあらわした。

「いつも妻がお世話になっております。山岸裕和ひろかずと申します。橋内さんですよね? 話は妻からいつも伺っております」

「ちょっとー、挨拶するにしても堅すぎよー。橋内くん緊張してるじゃない」

「え? それは申し訳ない」

「あ、いえ、そんなこと……」

 なんとなくだが、僕はこの男性に好感を抱いた。

「橋内隆也です。山岸さんにはいつも大変お世話になっていて……」

「もう、橋内くんまでそんなにかしこまらなくていいのよ。ほら、あなたが変な挨拶するから」

「ま、まあ、それは否めないな……」

 おそらく山岸さんよりも年上のはずなのに、山岸さんは遠慮など一切せずに面と向き合っている。世界で唯一彼女が身も心も預けられる男性に、僕は親しみを感じた。

「今日ね、本当はみんなで遊園地行くはずだったの。なのにこの人が寝坊しちゃって、全部パアよ。それで代わりにここに来させてもらったの」

「おいおい、寝坊したのはお互い様だろう? それに遊園地って、まさかさっき俺が『遊園地日和だなー』って言ったの悪用したな?」

「悪用ってなによ。そんなことばっか言ってると、私、橋内くんのところに行っちゃうかもよ?」

「おいおい、どんな脅し文句だよ……。橋内くんだって、こんなおばさんに家入れてくれなんて言われたら困るだろ」

「わ、ひどーい。ねえ、今聞いた? さすがにひどいよね?」

 真相はわからなかったが、二人の関係がこの上なく微笑ましいことは極めてわかった。

「もういいわ。あなたは子供たち見てきて」

「はいはい」

 特に不満気の様子もなく、彼は素直に子供たちの追いかけっこに合流した。

「いつも、こんな感じなんですか?」

「……恥ずかしいとこ見せちゃったね」

 その顔は、僕の知っている山岸さんだった。

 控えめで奥ゆかしく、それでいて他人のことを自分以上に理解している、海のような母親の顔と、粉雪のような女性の顔だった。

「本当はね、最初から来るつもりだったの。あなたたちの、様子が見たかったから」

 少しだけ、背筋が伸びる。

 山岸さんはやはり、僕たちのことを気にかけていた。僕たちのために、休日の代名詞のような晴れ晴れとした一日をこの小さなコンビニの一室に捧げていた。

「……そうですか。わざわざありがとうございます」

「ううん。あの人と子供たちにもここのこと知ってもらえたし、私的には一石二鳥よ。それで、花音ちゃんは休憩中?」

「はい。呼んできましょうか?」

「大丈夫大丈夫! そんな、色々邪魔しちゃ悪いし──」

 すると、バックヤードのドアが勢いよく開いた。

「あ、やっぱり文子さんだ!」

 花音の声が、既に騒がしい店内に響き渡る。

「あ、花音ちゃん! わざわざ出てきてくれたの?」

「もちろん! それよりもしかして、あの子たち、文子さんのご家族ですか!?」

「ええ、そうよ」

「うわー! 一度お会いしたかったんです!」

 そうして花音は一目散に、二人の子供と夫の元へ向かった。

「初めまして! 私、いつも文子さんにとってもお世話になってます関根花音です! よろしくお願いします!」

「あ、君が関根さんか。文子から話はたくさん聞いてるよ。噂通り、本当にいい子だね」

「本当ですか!? 嬉しいです!」

 それから花音は子供たちとも挨拶を交わし、すぐに意気投合した彼らは、瞳がとろけ落ちそうになるくらいのたわむれを始めた。

「名前、なんていうの?」

「わたしが明奈で、こっちがゆうくん!」

「明奈ちゃんと、ゆうくん、これからよろしくね!」

「うん!」

 手を繋ぎ合わせる三人は、どこからどう見ても、天寿を全うした者を向かうべきところへいざなう使いにしか見えない。

「お姉ちゃん、それ、痛くないの?」

「うーん、じゃあね、ゆうくんに痛いの痛いの飛んでけしてほしいなー」

 三歳児の小さな手が、花音の左頬と重なる。

「じゃあ、明奈ちゃんにもやってもらっちゃおうかなー?」

 七歳児の小さな腕が、花音の全身を包み込む。

「痛いの痛いのー、飛んでけー!」

 地上のあらゆる瑞々みずみずしさを掻き集めても、この三人の雪白せっぱくに勝るものはないだろう。

「本当にいい子よね、あの娘」

「ええ。僕も本当に尊敬してます」

 外の穏やかな小春日和が澄み渡ったように、店内は喜色に溢れていた。純情の化身のような少女が、純真の擬人化である子供たちを包み込んでいる。

「あの娘と一緒に居ると、自然と周りも幸せになる」

 だが山岸さんの瞳には、どこか寂しさが浮かんでいた。

「僕も、そう思います」

 その瞬間、山岸さんの手が、僕の肩に届いた。

「だったら、今のままじゃダメよね?」

 初めてだった。彼女の柔らかな手が、僕の身体に触れるのは。

「あなたが持つべき感情は、尊敬じゃないわよね?」

 初めてだった。人の手が、こんなに温かいことを知ったのは。

「この光景を、私たちを、よく、目に焼き付けて」

 そう言い残して、山岸さんは僕から離れた。そのまま夫の傍らに寄り添い、子供たちと花音を優しく見守る。

 まるで身体を一つにするように身を寄せ合う、仲むつまじい夫婦。そんな二人に見守られる、花音と子供たち。

 その上空から海へと羽ばたく二羽のカワセミと、悠然な大地にそびえ立つ美しい月桂樹。

 それは、まさに──

 比翼連理。

 目と翼を一つずつにして、常に一体となって飛ぶ鳥のように、根元は別々でも、枝を途中でくっつかせて木理を連ならせる木のように、彼らは、自らの持つ全ての愛を分かち合っていた。この世に生を受けた歓びを、惜しげもなく放っていた。時計の針が彼らのために摂理から背いたように、僕が目に焼き付けた光景は、全身に流れる一切の血潮を、天地を彷徨さまよう万物の行き先を、光のまばゆく道へと導いていた。それが、山岸さんの答えだった。

「山岸さん」

 おそらく、今までで一番はっきりした声で、彼女を呼んだ。

 一番真っ直ぐな目で、彼女を見つめた。

「ちょっと行ってくるね」

「ああ」

 躊躇ためらいを一切見せず、僕の元に歩み寄ってくれる。

 それもまた、僕が知っている彼女の全てだった。

「僕、決めました」

 花音と子供たちは、今も戯れに夢中になっている。彼女の夫も、その一時に釘付けになっている。

 今、僕を見てくれている人は、彼女しかいない。

「花音に、全てを伝えます」

 僕は、答えを出した。比翼連理が、僕たちの溝に埋まった。

「やっと、彼女と向き合えたのね」

 そっと、彼女の柔らかなてのひらが僕の背中に触れた。

 そのときほど、温もりの存在を身体に宿した刹那せつなはなかった。

「私、本当に嬉しい」

 一度だけさすった掌が、そっと、僕の背中から離れていく。

 そのときほど、わびしさを覚えた刹那もなかった。

「全部、文子さんのお陰です」

 自然と口から漏れた言葉が、彼女に届いたかはわからない。ちょうどそのタイミングで、他の客の来店を知らせる合図音が鳴ったからだ。

 それでも、もう一度だけ、僕の背中に掌が触れた。

 心の中に灯り続ける、あおほのおを包み込むように。


「お待たせ、花音」

「うん。じゃあ帰ろっか、隆也くん」

 夕勤でやって来た須藤に変な好奇心を向けられないために別々で店を出た僕らは、いつもの待ち合わせ場所で合流した。

「今日さ、ちょっとゆっくり歩かない?」

「うん、いいよ」

 僕の提案を、花音は何の疑いもなく受け入れる。むしろ、それを待っていたようにも思える。

「今日、いつもより忙しかったね」

「ああ。先週の倍は忙しかった」

 何でもない会話で、帰り道の幕が開く。僕たちの、いつもの習慣だ。

「でもお客さん、みんないい人だったね」

「家族連れ、本当に多かったよな」

 わざわざ言わなくても、歩くスピードは緩やかになっていたはずだ。

 そんな日和だから、今日という日が生まれた。

「どの家族も、みんな優しかったね」

「優しかったし、楽しそうだった」

 僕たちは、同じ光景を見ていた。同じ眼で、比翼連理を見ていた。

「だけど間違いなく、文子さんの家族が、一番、幸せそうだった」

 だからこそ、感じたことはきっと同じだ。得たものも決めたことも、きっと同じだ。

「ああ、そうだな」

 あと一つ、僕たちに足りない何かがあるとすれば、

「私もいつか、あんな風になりたいな」

 翼を一つにして飛び立ち、同じ枝で自然を感じられる、世界にたった一人の相手だけ。

「私たちもいつか、あんな風に──」

「花音」

 いつもの大通りの交差点で、少し前を歩いていた花音を止めた。歩行者用の信号は青だったが、花音は迷いなく足を止める。

「俺は、ずっと嘘つきだった」

 青信号が点滅する。

 しかし、花音の行動を急かすには及ばない。

「大学に友達がいる、あれは嘘だ。俺に友達なんかいない。大学行ったって、俺はずっと一人ぼっちだ」

 涼しい風が吹き、花音の半袖のシャツと長い髪がさらさらと揺れる。

 しかし、僕の目が移ろうことはない。

「修一と少しだけ話した、これも全部じゃないけど嘘だ。修一とは話したけど、少しだけじゃない。たくさん話した。二時間は話した。その話の中で、花音のことも話した」

 少しずつ、花音は震え始める。自分をとどめる宿命を自覚し、その天秤を推し量ろうとしている。

 しかし、花音が振り返ることはない。

「その上この前、俺は、花音を見捨てようとした。花音が酔っ払いに絡まれてるのに、俺は、助けに行けなかった。ずっと、その様子を聞いてるだけだった。それなのに、なんでもない風に後から登場して、同情するフリだけして後は突き放した」

 信号が、赤に変わった。車道の往来は形を持たず、容赦なく僕たちの間に襲い掛かる。

 しかし、僕たちはもう、騒音になど惑わされない確固たる翼と枝を手にしている。

「俺は最低だ。花音が幼馴染じゃなかったら、花音が声をかけてくれなかったら、年下の女子高生に自分からは何もできない臆病者だ。小さな器に溢れ返る欲望だけ流し込んで、夜な夜な妄想だけにふけってる、そんな人間だ」

 ようやく、本当の仮面に手が掛かった。

「そして、俺には他に誰もいないのに、花音だけが、俺の日常だってわかってるのに、花音がいたから、こんなつまらない人生でも幸せな時間があったのに、ずっと、目を背けてた。花音がいつか、全部やってくれるって自惚れてた。その分、花音を傷つけた」

 今まで生きてきた分の固さで貼り付いた仮面に、今まで生きてきた全ての力を込める。

「だから俺は、こんなことする前に、花音にしなきゃいけないことがたくさんある。謝ることも、身体を張って償うこともたくさんある。花音のこと何も考えないで、自分だけ想いをぶちまけるなんて、それこそ許されない大罪なのかもしれない」

 最初はビクともしなかった。自分の顔を潰すくらいの力を込めても、仮面は仮面のままだった。

「それでも、俺は──」

 それでも、今は──

「花音が好きだ」

 僕の手に、花音の情愛が乗っている。

「……あの日、本当はすごく怖かった」

 いつの間にか、花音は僕の方を振り返っていた。

「本当は、隆也くんに助けてほしかった。隆也くんのこと、ずっと待ってた」

 ずっとぼやけていた、花音の相貌が鮮明に映る。

「あの日の夜、私、死のうと思ってた。もうどうでもよくなって、一晩中死ぬことばっか考えてた。だけど、朝はやって来た」

 ずっと通り過ぎるだけだった、花音の声音が響き渡る。

「それで思った。もう一日耐えれば、隆也くんと会える。あと一日我慢すれば、隆也くんとまた、一緒に帰れる。今度は、何の気兼ねもいらない日曜日に、一緒に帰れるって」

 そこにいたのは、どこにでもいる何でもない少女などではない。

 コンビニにもスーパーにもいない、街中にも電車にもいない、中学校にも高校にもいない、どこを歩き回ったって探し回ったって見つかるはずがない、ただ、僕の目の前だけに居る、関根花音だった。

「ずっと、待っててよかったよ……!」

 そのとき、仮面は完全に剥がれ落ちた。

 やっと、花音の全てと、僕の全てが向かい合った。

「これからも、よろしくお願いします!!」

 そうして、花音は左頬の絆創膏を取った。

 隠されていたあざは、ちょうど僕たちのために変わった信号のように、青白く光っていた。

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