10-①

10-①


 スマートフォンの着信音が、僕を昼の世界に巻き戻した。

 最初は企業から来る広告系のメールくらいだと思っていたが、それが約半年ぶりに聞いた電話の着信音だと気付いたのは、その音が鳴り始めてから約一分後だった。

「……はい」

 相手の名前も番号も確認せずに、最低限の微睡まどろみで応える。

「よお隆也、久しぶり」

 その声の主は、半年ぶりどころではなかった。

「……修一か?」

「そりゃそうだろ。なんだ隆也、お前、俺の番号消したのか?」

「あ、いや、そうじゃないけど、」

 別に慌てて言い訳を模索するような相手ではないが、ご無沙汰というものは、目覚めの錯乱以上に知覚を混沌に陥れる。

「わりい、ずっと寝ててこの電話で起きたんだ」

「寝てたって、もう正午だけど……、まあでもそんなもんか」

「ははっ、察してくれ」

 いや、実際は今年の二月に数週間だけ帰省した修一とは会っており、この会話が自然に流れたのも不自然ではなかった。

 ではなぜ半年もの期間が空白になったと錯覚したか、それはその空白に埋まった一人の少女の存在以外には語り得ないだろう。

「どう最近、相変わらず勉強漬け?」

「ボチボチだよ。隆也で暇つぶしするくらいには息抜きしてる」

「言うね」

 四十代や五十代が好むようなキャッチボールと距離感を保っているのが僕らの特徴であり、僕らのプライドだった。

「そっちはどうよ。親に隠れてゲーム実況とか始めたんじゃねえの?」

「するわけないだろ」

 実際はそんな時期もあったのだから、それだけ僕と彼の関係性は浸透している。

「やっぱ久しぶりでも、お前と話すのは楽しいな」

 だが、空白があったからこそ、その関係性は続くと思っていた。

「なんだいきなり。彼女にでもフラれたんか?」

「ちげえよ、親戚のおじさんみたいなこと言いやがって」

 間に何もないからこそ、僕と修一はそのままでいられた。

「……でも実際、一人暮らしってさみしいもんだぜ」

 お互い、何でも言い合える間柄だった。

「なら今から大学辞めるから、そっちで家政夫として雇ってくれよ」

「何言ってんだお前、気持ちわりいな」

 そうして今この瞬間のように、いつまでも笑い合えるはずだった。

「今日隆也に突然電話したのはさ、そっちでそのまま頑張っていてほしいからなんだよ」

 急にトーンに真剣味が加わる。

「え? どういうこと?」

「まあ、大した話じゃないんだけど、」

 しかし、僕は彼のことをよく知っている。

 腹を割って話すと決めたときの彼の声は、仙人に安らぎを与える翠嵐すいらんのように、柔らかさの内に固い意志が潜んでいた。

「隆也、最近花音と会ってるだろ?」

 その固さだけが、僕の混沌とした意志の中枢に立ち込める。

「……ああ、会ってる」

 それ以上、何も言えない。それ以上、何も言えることがない。花音と僕は十年ぶりに再会し、そして僕は、十年ぶりの花音に夢中になった。

 そんなこと、言えるわけがない。それが、僕たちの空白に落ちた溝だった。

「そうか。ならやっぱり、俺がわざわざ帰ってくる必要はなさそうだな」

 いつの間にか、修一の声は元の空白を取り戻していた。

「確か、花音が始めたバイト先にたまたま隆也がいたんだっけ?」

「あ、ああ。一応それで久しぶりに会った」

「そうか。それは、本当に幸運だった」

 幸運の意味が解らない。僕がすがり付いているものの他に、どんな幸運が生まれたというのだろう。

「……なあ、さっきからどういう……」

「ああ、悪かったな。ちょっと遠回しに訊きすぎた」

 遠回しの意味も解らなかった。僕と花音が会っているという事実以上に、彼は何を知りたかったのだろう。

「これからもさ、花音と仲良くしてやってくれないか?」

「え……?」

 空白に少しずつ色が付き、持て余した三次元をどこからかやって来た優曇華うどんげの花が埋める。

「なんだ? 花音、久しぶりに会ったら前よりわがまま酷くなってたか?」

「い、いや、そういうわけじゃないけど……」

 そういうわけだったら、どれだけ僕は楽になれただろうか。

 楽になれなかった理由を悟られてしまったら、僕はもう、修一とは親友でいられない。

「ははっ、揶揄からかってごめんな。でも、隆也の言いたいこともなんとなくわかるよ」

 僕と修一は親友で、修一と花音は兄妹で、僕と花音は、友人の妹以上、男女未満。それだけだったから、三人の間には空白が敷かれ、僕たちは自分に素直でいられた。

 しかし今、僕たちはお互いに、併立する二つの世界を営んでいる。互いに干渉することは許されない、独り立ちというきざはしを昇っている。

「でもな、たぶん隆也が思ってる以上に、花音は隆也を必要としてるんだよ」

 そこに生まれたものが欲求だったなら、僕たちはもう、元の三人には戻れない。

「俺を、必要としてる……?」

「ああ。言葉通りの意味……、って言われてもわかりにくいかもしれないけど、花音は俺と同じくらい、いやそれ以上に、隆也のことを慕ってる」

 僕は花音を求め、花音も僕を求めている。

「だから隆也さえよければ、花音のこと、任せてもいいか?」

 それでも、修一は親友でいてくれた。

 兄妹という鳥籠とりかごも、友情という良心も、修一が全て、僕たちの間にできた溝に埋めてくれた。

 三千年に一度咲く、浩然な花と共に。

「できる限り、頑張ってみるよ」

 電話の向こうで、修一は笑っている。

 目に視えなくても、耳で聴こえなくても、修一はきっと、笑顔を浮かべている。

「ありがとう、隆也。やっぱり、持つべきものは親友だな」

 日頃何の感情も持たずに放っていた言葉が、ずっしりと心の奥底に染み込んでいく。

 これこそが白昼なのだと、閉ざされた神経にも共鳴が行き渡った。

「花音はああ見えて、俺には想像もつかないような苦悩や傷を、一人で抱えてる」

 結局、修一の言っていた「幸運」や「遠回し」の意味は解らないままだった。

「それを、忘れさせてやってほしいんだ」

 それがもしかしたら、僕たちの想像の限界なのかもしれない。


 翌日、もう七月は目の前だというのに、快晴の空模様と合わさったのは、小春日和を思い起こさせる快適この上ない空気だった。気温も紫外線も、今日という日に限って、全てが整った最適な具合に落ち着いている。街を彩るあおいたちが、少し寒そうにしながら道行く人々の直感に語りかけている。

 そんな芝蘭しらんな一日にもお構いなしに、僕の日曜日は今日も室内での労働に拘束されていた。

「お、おはよう」

「あ、おはようございます!」

 外の清澄な風情に触れることはできないが、ここにもれっきとした彩色日和があることを、僕は知っている。

「あの……、一昨日はすみませんでした」

 バックヤードで挨拶を交わして早々、花音は僕に思い当たる節のない謝罪を申し出た。

「いや、謝るのは俺の方……」

「いえ、違うんです! それはもう、本当に大丈夫です!」

 そうなると、余計に思い当たる節がなくなった。それと同時に、花音の左頬辺りに絆創膏が貼られていることに気が付いた。

「たぶん私、一昨日の帰り道にすごい失礼なことしちゃったんじゃないかって……」

「失礼なこと?」

 一昨日の帰り道を思い返す。確か花音が珍しくボーっとしており、そのままいつもの金曜の習慣を破り、僕を家の前まで連れていった夜のことだ。

「私、あのときに話したこと全然憶えてなくて……。だからたぶん、隆也くんの話、全然聞いてなかったのかなー、って……」

 俯き気味になりながら、右手の人差し指で絆創膏に触れている。痛そうというよりは、それを隠そうとしている様相だった。

「そんなこと、気にしてたのか?」

 何でもない風に更衣室に入ろうとしたが、その人差し指を見て思い止まった。

 指先が震え、徐々に左頬から下へ落ちてゆく。左手と組み合わさり、脚の前で一つの拳を形成させる。

 そうして目に映った花音は、まさしく、生きとし生ける花と音だった。

「だって──」

 だがそのとき、花音が見えなくなった。

「隆也くんとの帰り道は、いつも、本当に楽しいから」

 見えなくなった残像に、一つの影が浮かぶ。

「私、今まで話したことは全部憶えてるんだ。この前隆也くんが友達の出席取るために渋々講義に出たことも、そのくせ楽しそうに講義内容の話ばっかりしてたことも、ちゃんと憶えてる。途中から私がついていけなくなったからって、余計に楽しそうだったのもちゃんと憶えてるんだよ」

 影は、僕を見ていた。僕だけを見ていた。僕のことを、真正面から見据えていた。

「でもね、こんなに私と話してくれる人って、隆也くんしかいない。こんなに、私のためだけに話してくれる人は、この世界で、隆也くんだけなんだ。だから──」

 そして、返事を待っていた。

「今日も、一緒に帰ろう……?」

 少しずつ、影に光が宿る。視線が逸れるにつれて、目に映る姿形は花音にかなっていった。

「そうだな。この前、話せなかったこともあるし」

 それが、未だに僕の答えだった。

 修一との溝は埋まっても、花音との間には、今でも何かが足りなかった。花音はこんなにも僕を見続けてくれているのに、今でも僕は、長年の自問自答に打ちてずにいた。

「……そっか、そうだよね」

 店内の監視カメラの映像に目を落とした花音を、僕ははっきりと見つめていた。

「でも、意地悪な隆也くんも、嫌いじゃないよ」

 その口元に、微笑みはない。その唇に、悦びは芽生えない。

「それだって、隆也くんだもんね」

 勤務時間まで三分を切り、花音は最後の準備にかかっていた。一方僕は更衣室に入り、急いで着替えを済まそうとしていた。

「ねえ隆也くん、一つだけ訊いてもいい?」

 カーテン越しに花音の声が聞こえる。最初は動き続けていた手が、徐々に聴覚にさえぎられていく。

「昨日、お兄ちゃんから電話来たりした……?」

 手から完全に動力が抜け落ちる。それと同じくらい、花音の声も痩せ細っていた。

「ああ、来たよ」

 カーテンの向こうからため息が聞こえる。

 それが自然に漏れたものか、はたまた聞こえさせるためのものだったのかは、デルポイへ伺いに行ってもわからなかっただろう。

「……でも別に、大した要件じゃなかったよ。十分くらいしか話さなかったし、内容も、俺たちのことだけで──」

「……お母さん、やっぱり気付いちゃったのかな」

 左頬が、軽くうずいた。人差し指で押したように、何かに詰め寄られる感覚が全身を駆け巡る。

「私、先に行ってるね。交代の人には、隆也くんは今裏で作業してるって伝えておくから」

 バックヤードから花音が出ていく音がしても、しばらくの間は動けなかった。交代の人がバックヤードに戻り、タイムカードを打つ音が聞こえて、ようやく思考が元に戻った。

 そうしてまた、僕と花音の間には、深い溝が華燭かしょくのように眼を輝かせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る