9-②

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 翌日の金曜日、花音とのシフトは何事もなく始まったが、遂には両足とも地につかなくなった。接客の際に何度か小さなミスを重ね、仕事中の花音とのやり取りも反応が遅れることがしばしばあった。その上、店長からの頼まれ事をすっかり忘れていた。

 レジ周りを花音一人に任せ、二十一時頃に漸く頼まれ事だった商品の在庫確認作業に取り掛かり始めると、唐突に山岸さんの姿が頭に浮かんだ。あの三人でシフトに入った日、山岸さんは今の僕と同じような状況で、レジに立つ僕と花音の様相を眺めていた。そのときはほぼ初対面の二人が謙遜し合いながら若い時間を共有することを、母親の本能で微笑ましく見ていたことだろう。しかし同時に、この二人のうやうやしさには他人以上の何かがあると直感が働いたことも避けられない事実であり、極め付きは、僕がトイレ掃除から戻っていた山岸さんに気付かずに、花音の名前を彼女の目と鼻の先で呼んだことだった。

 たった二文字の言の葉は、物質と情報の濁流に朽ち果てることなく、彼女の内に留まり続けた。直前に名前で呼ばれたことで広がった優しさと、花音と接する僕を見ることで降ってきたあどけなさは、それまで目を逸らし、くすぶらせていた意識を眠りから覚まし、今や失ったと錯覚していた何かをよみがえらせつつあった。その沸き上がる感情によって、彼女の感受性は研ぎ澄まされ、僕たちの一瞬の隙は、正解に辿り着くための駒と化していった。

 だからこそ山岸さんは、僕を気にかけてくれるのだろうか。自らの奥ゆかしい精神を踏みにじった、責任を取らせるために。

「ありがとうございました!」

「なあ、姉ちゃんいくつ?」

「え?」

 レジの方で聞き慣れない客の問い合わせが聞こえた。

「年訊いてんだよ。姉ちゃんいくつなの?」

「えっと……、十六ですけど……」

「十六!? ってことはJKか!」

 客の大きな声は僕らとその客しかいない店内中に鳴り響き、僕の耳にも充分聞こえてきた。

 同時に、別の客が入店してきた音も店内に鳴り響いた。

「いいなあJK。じゃあなに、制服でそのままここ来ちゃったりしてんの?」

「まあ、そうですね」

「ええー! めっちゃいいじゃん! じゃあ制服でそのまま帰るんだ?」

「……そうなりますね」

 様子をうかがいに行くと、花音に絡んでいた客は四十代くらいの作業着姿の男で、明らかに酔っぱらっていた。

「そんな恰好で夜道歩いてたら危ないよー? なんだったらさ、俺と一緒に帰る?」

「え……?」

 そのとき、僕の足は止まった。レジからは死角になる位置にたたずみ、そのまま動けなくなった。

「ついでにいいとこ連れてってあげるよ。明日学校休みでしょ?」

「い、いや……、それはちょっと……」

「あ、でも学校によっては土曜日も授業あるのか」

「そういう意味じゃなくて……」

 花音の声がどんどん小さくなる。そんなときに限って僕の聴覚は冴え渡り、花音の乱れた息遣いすら聞き逃さなかった。

「仕方ねえから送るだけにしといてやるか。何時に仕事終わるの? 高校生だから十時くらいか」

「えっと……、困ります……」

「はあ? なんで? 送るだけなんだから別にいいだろ?」

「い、いや……」

 もうダメだ。いくら何でもこれは僕の責任だ。そういう適性が無くたって、僕は花音の前に立ち塞がらなくてはならない。花音の代わりに、男の高揚をしずめなくてはならない。

 しかし、足が動かない。思考が働かない。これは成功が保証された千載一遇の悪運なのに、肝心の心身が、悪魔の言うことを聞かない。

 いや、言い訳を並べている場合じゃない。単純に、花音がピンチなのだ。今行かなければ、花音は、花音と僕は──

「なあおっさん、いい加減にしろよ」

「あ?」

 花音に迫る男を止めたのは、違う男の声だった。

「あんた、自分のやってることわかってんのか?」

「は? なんだお前。何様だガキが」

 その声が、堂々と男の言動にメスを入れる。

「何が言いてえんだ? なんか文句あんのか?」

「いいからさ、取り返しつかなくなる前にさっさと帰れよ」

 その後、数秒の沈黙が流れた。

「ケッ。けったくそわりい。こんな店二度と来るか」

 沈黙に自らの行動をさとされた男は、おそらく代名詞なのであろう捨て台詞をしっかり残し、店を去っていった。

「あの……」

「ん?」

 花音の声が、花音を救った客の男の耳に届く。

「ありがとう、ございました」

 花音の誠意が、花音とはほぼ面識がないと思われる客の男の胸を撫で下ろす。

「ああ。まあ、ああいう連中ってホントに絶えないですからね」

 男の声は、とても優しかった。言い方や声色ではなく、遊牧民を救うオアシスのように、ただそこにあるだけで、人類は生を感じることができた。

「だけど君も、簡単にああいうのに自分のこと話しちゃダメだよ?」

「はい。これからは気を付けます」

 その上で、とても誠実だった。この世の真理は全てこの男から生まれるかのように、一つ一つの言葉が、僕にも突き刺さった。

「八十七番一つ貰えます?」

「あ、はい! メビウスの10mgボックスですね!」

 花音の声が、元に戻った。いつも僕にかけるような溌剌はつらつとした声が、初めて、僕の心を通り過ぎた。

「いつも、ありがとうございます」

「こちらこそ、いつもありがとうございます」

 どうか他の客が来ないでくれ。どうか地震などのアクシデントが起きないでくれ。

 僕が正気を保つには、この逆の発想を圧し進める本心を抑えるために、ひたすら自己暗示をかけ続けるしかなかった。

「大変だと思うけど、頑張ってくださいね」

 そう言って、男は立ち去っていった。

 見たくはなかった男の正体を後ろ姿で確認すると、やはりいつか僕の横を通り過ぎていった、同い年くらいの茶髪の男性客だった。その右手に、しっかりとメビウスの10mgボックスだけを握り締めて。

 同時に僕は次の瞬間、足音を立てずにバックヤードの方へと向かった。そうしてドアを開閉する音だけ立てて、レジへと歩を進める。

「なあ花音、なんかあった?」

 自然に聞こえただろうか。あたかもバックヤードで作業していて、表の様子がおかしいからとわざわざ駆け付けてきた先輩に映っただろうか。

 嵐が鎮まったとても都合のいいタイミングで、その戦禍を回避するように戻ってきたと怪しまれないだろうか。

「う、うん……、その、ちょっとあったけど……、でも大丈夫!」

 今、僕はどのような心持に身を任せればいい?

 自分の卑小さを改めて痛感した呵責かしゃくか、その上に卑怯を塗りたくった行動への制裁か、それとも、山岸さんの言ったような、名も知れぬ第三者への猜疑さいぎか。

 ただ一つの事実は、間違いなく、花音は僕の三つの事実を知る由はない。

「……そうか。でもなんかあったら……」

 そのとき、悪魔の幻影をはっきりと捉えた。

「……いや、ごめん、なんでもない」

 僕は、花音に先輩の面を見せようとした。今度何かあったらすぐに頼ってくれと、仮面で本性をひた隠し、名も知れぬ第三者に対抗しようとした。

「すぐに駆け付けられなくてごめん」

 だが、それはできなかった。ギリギリのところでともしびが、まずは自分と向き合うことを思い出させてくれた。

「……うん、大丈夫。私、大丈夫だから」

 なのに僕は、やはり、花音とは向き合えなかった。花音と向き合う前に、越えなければならない垣根がまだたくさんあった。

「少し、裏で休みな? 今は一人で大丈夫だから」

「え……?」

 僕の胸中を察してくれないかと、強く願った。明らかに花音の身に起きた出来事を知っている口振りに違和感を抱くことを、強く望んだ。

 そうして今、僕が犯した愚かな行為が白昼の下にさらされることを、強く求めた。

「……ありがと。じゃあ、ほんのちょっとだけ、いい……?」

 しかし、その祈りが叶うことはなかった。

「……ああ。早く、お客さん来ないうちに……」

 できるだけ優しい表現を避けながら、笑顔を必死に作り浮かべる花音をせめて突き放そうとする。

「隆也くん、本当に、ありがとう」

 その目論見も通じない。花音は結局、僕を誤解したまま、深淵な背中でバックヤードへと歩いていく。

 傍らで、一粒だけ、花音の瞳から水滴が零れ落ちた。水滴は店の床に静かに溶け込み、一部を白から透明に変えていく。それから再び白へと舞い戻り、僕の行ないは、白昼の事実から除外された。

 まるで、羅生門の生霊が、最後の人間に定めを与えたように。


 その夜、僕は眠りに就くことができなかった。花音との帰り道もどこかたどたどしく、というより、花音が珍しくほうけ気味であり、あれ以来別々で帰っていた金曜日の夜にもかかわらず、花音を家まで送り届けても何も言われなかった。少し様子を見てから我が家に帰ろうとも思ったが、明かりが点いた花音の家は、僕の存在など必要ないと訴えていた。後は花音の帰りを待ち受けているこの家の者が、花音の微妙な心の傷に気付き、誰にはばかられることなく癒すことが摂理であると、僅かに開いているカーテンの隙間から漏れた眼光が伝えていた。

 うだる掛け布団の中で、様々な掛け合いと思惑が交差する。昨日、僕は山岸さんを怒らせた。理由は解っている。僕は、きっかけにあえいでいた。

 すると、現実にそのきっかけが訪れた。山岸さんが言った通り、花音は客に口説かれ、その上で、助けられた男性に自分の素顔を見せた。

 僕は、ちゃんと山岸さんの指示に従えただろうか。仮に僕の過失が胸の中からも消え去ったら、ちゃんと嫉妬できただろうか。僕よりも遥かに人生と縁のありそうな若い男が、僕よりも遥かに男らしい器で危機を救い、花音と優しさを恵み合う。そうして生まれた温かな感性は、到底僕の手に届くものではない。幼馴染という反則級のアドバンテージにいつまでも足踏みしている僕の、遥か上空で翼を広げている。同じく飛び立つ素質と資格を兼ね備える花音を、過去のしがらみから解き放とうとしている。

 それでも、花音が口説かれていることが、花音が僕以外の男と仲良くしていることが、頭の中にこびりつくことはなかった。それを凌駕する自分の愚かさに、ひたすら打ちひしがれていた。嫉妬云々ではない。僕は、最低なことをしたのだ。この一、二ヵ月足らずで初めて会った店員と客という希薄な関係性の発展に文句をつけられないほど、ましてや、酔いの勢いにかまけて親子ほどの年齢が離れた女子高生に手を出そうとする中年男を咎められないほど、僕は、花音を傷つけかけた。

 しかし、花音の真実の眼は見て見ぬフリをした。それがあるがままだったのか、或いは僕と向き合っているという証明だったのか、僕にはわからない。ただそこには、人生初の経験をした花音がいた。涙を浮かべるほど恐ろしい狼の牙を見てしまった、一人の赤い少女がいた。あの後も、僕たちは何事もなかったように帰り道を共にした。花音はいつもの待ち合わせ場所で僕を待ち、実際の雰囲気はいつもと違ったけれども、制服を着た花音は、僕の隣を歩き続けた。

 よい嬰鱗えいりんが、揺れる鼓動を刺激する。いつまで経っても収まらぬ星月夜の赫灼かくしゃくが、今でも地球の至る所に太陽が昇っていることを忘れさせる。あと数時間で朝陽が訪れ、人々から安息の義務を取り払うことを、何者かが創り出した天文の法則に従って、同じく兄弟のように生まれた時刻と共に、夙夜しゅくやの導きが運命付けている。

 花音は、どんな夜を過ごしているのだろう。花音の寝息は、どんな調べと韓紅からくれないに溢れているのだろう。今ここに花音がいたら、隣で花音の寝息に耳を澄ませられたら、僕の宵は、無事に次の空へと移ることができるだろうか。

 太陽が昇ると、強い眠気に襲われた。月の輝きが人間の目に映らなくなるように、僕の覚醒は闇莫あんばくで役目を終える。朝の陽ざしが、僕を日の領域から覆い隠す。

 そうやって僕は、これからも夜をやり過ごす。

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