9-①

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「あ、じゃあ山岸さん、もう上がってもらって──」

「ううん、今日は大丈夫」

 それからまた一ヵ月近くが経った六月最終週の木曜日、恒例の山岸さんとの一日シフトが今日も終わろうとしていた。

「夫が有休取ってて家にいるから、急いで帰らなくていいんだ。だから逆に先上がる?」

「いえいえ。僕が早く帰ったって何もやることないですから」

「じゃあ、二人でさっさと片付けちゃって、二人でさっさと上がろっか」

「そうですね」

 実際に夕勤への引継ぎを普段よりも早い時間に終わらせると、珍しく須藤が時間通りに出勤してきたこともあり、十七時ピッタリには二人揃ってバックヤードに退いていた。普段ならこの空間には店長がほぼ欠かさず陣取っているのだが、またも珍しく表のレジが混雑しており、店長は本来の職務を果たさざるを得なくなっていた。

「今日もお疲れ様」

「お疲れ様です」

 したがって、この空間には今、僕と山岸さんだけの時間が流れている。

「そういえばさ、前に言ってた悩みって、解決した?」

「悩み?」

 僕と山岸さんだけの、会話が流れている。

「ひどいなー。ホントに私との会話なんて、すぐ忘れちゃうんだから」

「あ、思い出しました!」

 両手で長い髪を結い直す彼女に許しを請うように、頭の中で幾月か前の会話を思い浮かべた。

「たぶん解決した、……って言っていいのかはわからないですけど」

「へー、じゃあ上手くいってるんだ」

「え?」

 結い終えると顔を左右に振り、垂れ下がった髪が波のように揺れた。

「あのとのことでしょ? 前のときも普通にそう言ってたわよ」

 もう一度、頭の中を回転させる。そういえばあのとき、僕は彼女と花音について話し、花音についての問いただしを、それとなく回避した。

「そうでしたね。山岸さんとは、関根さんとのことは話してましたね」

「私の前では、繕わなくたっていいよ」

 言葉の意味が解らない。

 山岸さんが辿り着いた確信に、僕は足を踏み入ることができない。

「……どういうことですか?」

「だって橋内くんにとっては、関根さんじゃなくて、『花音』、でしょ?」

 彼女の口から零れるように出た響きによって、漸く、その真意に気付いた。僕は彼女の目の前で一度、花音に花音として振舞ったことがあった。

「……山岸さんは気付いてたんですね。僕と花音が、その、元々知り合いだったことに」

「……ごめんね。こんな、カマかけるような訊き出し方しちゃって」

 一瞬だったが、先ほどまで泰然な態度を見せていた山岸さんが、潮の流れにその身を隠した。

「気付いたのって、やっぱり初めて三人でシフト入った日ですか?」

「うん。その日だったかな」

「それで、僕が山岸さんの前で花音って──」

「少しだけ違う」

 山岸さんは僕の話を遮った。

 まるでそれが、引くに引けない決意を表しているかのように。

「名前は名前だけど、最初に三人で話してたときに詰まったことが最初だった。橋内くんは憶えてないんじゃなくて、普段と呼び方が違うから言いにくかったんじゃないかって」

 百点満点の回答が、彼女の口からあふれ出る。

「そこから色々仕掛けてみたら、案の定二人とも面白い反応するもんだから、もう笑いこらえるの大変だったのよ」

 百点満点の懐柔が、彼女のてのひらの上に宿る。

「なるほど……。完全にもてあそばれたってわけですか」

「やっぱり橋内くん、私のことは知らなかったようね」

「ええ。完全に一本取られましたよ」

 彼女から降り注ぐ粉雪は、またたく間にきめ細やかな肌の隙間に溶け落ちながら、血の巡りに温もりを与える。

「それで、二人はどういう関係なの?」

 店内の監視カメラの映像を見ながら、彼女はそう訊ねた。僕も覗き込んでみると、店長も須藤もまだ、客の応対をしている。

「えっと、一言で言えば幼馴染って感じですかね」

「ふーん。でも、あの娘まだ高校生でしょ? てことは、親同士が元々仲良かったとか?」

「いえ。友人の妹です」

「友人の妹?」

 山岸さんの顔は要領を得ていない。それもそうだ。僕と花音の関係は、一般的な友人の弟や妹の域を超えている。普通では幼馴染に含まれない世間体の相手でも、それらを凌駕する日々を送ってきた因縁なのだ。

「はい。小学校のときにいつも二人で遊んでた友人がいて、そのときにまだ小さかったから、面倒見るついでによく一緒に遊んでたんです」

「あ、なるほどー」

 だいぶ端折はしょって説明したが、どうやら大枠は掴んでもらえたようだ。

「その後は会う機会が無くなって、面接で来たときに十年ぶりくらいに再会したんですけど、最初は全然気付きませんでした」

「あらあら。無下にしてるのはあながち外れじゃなかったのね」

 完全に的を射抜かれる。しかし、それに心地良さを覚えている自分もいる。

「それで、橋内くんが働いてるからここに来たってこと?」

「いえ、それは偶然だったみたいです」

「え!? そうなの!?」

 監視カメラの映像に注がれていた視線は、勢いよく僕の方へと反転した。

 そのときに浮かべていた驚いた顔は、直撃する視線と共に、僕の感情を渦巻かせた。

「はい。だからまさか新人の女の子が花音だなんて、なおさら思わなくて……」

 驚いた顔からすぐに潮が引く。今、彼女の中に如何いかなる感情が渦巻いているのか、僕には見当がつかない。

「……そっか。それじゃ、二人は運命の相手ってことね」

 僕から目を逸らしその言葉を放った山岸さんは、僕の知っている山岸さんだった。

「運命ってそんな……。花音はただの友人の妹ですし、それに、まだ高校生ですから……」

「あなただってまだ二十歳にもなってないじゃない……!」

 目を合わせてくれぬまま、山岸さんは語気に力を込めた。

「私から見たらあなたたちなんか、同い年みたいなものなのよ。そんな二人が惹かれ合うなんて、自然以外になんて言い表せばいいの?」

 彼女を取り巻くびたちが、理性の内に躍り上がる。

「少なくとも関根さん……、花音ちゃんは、あなたとちゃんと向き合ってる」

 その言葉を放ち、山岸さんは更衣室へと入っていった。

 呆然と立ち尽くす僕は、カーテンの向こうにいる彼女のシルエットを思い描くので精一杯だった。

「……ねえ、橋内くん」

 カーテンの向こうから、その声が聞こえる。

「仮にね、花音ちゃんの目の前で、私とあなたが仲良さそうにしていたら、花音ちゃん、きっと嫌な気分になると思うの」

 心臓が上下した。

 今のこの光景を見たら、花音は何を感じるだろう。

「……ごめん、それは思い上がりだったね。じゃあ例えば、あなたが大学の女の子と仲良くしてるところを花音ちゃんが見たら、きっと花音ちゃんは、その人に嫉妬する」

 そして痛感した。

 僕が仲良くできるような女の子は、花音しかいない。

「あなたは違う? 花音ちゃんが他の男の人と仲良くしてたり、例えば、お客さんなんかに口説かれたりしてたら、きっと、あなたも嫌な気分になる」

 そうだ。僕には花音しかいない。

 この世の中で人並みに生きるために、この世の中で、人並みの愛と幸せを知るためには、花音だけが、僕の蜘蛛くもの糸だった。

「ふー、やっとレジ落ち着いたよー」

 最悪なタイミングで、店長が店内から戻ってきた。

「橋内くん、明日なんだけどさ、」

「……え? ああ、なんですか?」

 ただ、外から見た光景だけを考えれば、むしろ好都合な状況だった。

 僕と山岸さんの間にほとばしった情念は、物理的なカーテンで隔てられ、店長が明日の頼み事をするには充分な成り行きだった。

「……お疲れ様です。お先に失礼します」

「あ、お疲れー」

 僕が店長に些事さじを押し付けられている間に、山岸さんはカーテンを一息に開け、僕の背中をすり抜けていった。その一瞬間は、挨拶を返す隙すら与えてくれなかった。

「どうしたんだろ、山岸さん。何か怒らせるようなことした?」

 店長の言葉は最初、単なる見当違いだと片付けていた。しかし店を出る頃になって、重みとなってし掛かった。

 山岸さんは怒っていた。僕の行動の短小さと意志の弱さに、呆れを通り越して怒りをにじませていた。あの山岸さんを、僕は、遂に裏切ってしまった。

 その信頼を取り戻すために、やるべきことは一つしかない。


 花音と向き合う、それが、僕に欠けていた最大のいしずえだった。

 僕は今まで、何度となく花音に馴れ合いを持ちかけた。どんなに単調な話にも、どんなに見え透いた問答にも、花音は惜しげもなく青春を捧げる一方で、僕が花音に押し付けてきたものは、ずっと、自己肯定の代替行為だった。花音を喜ばせようとか、花音を楽しませようとか、花音を、理解しようとか、そういったものが僕には一切なかった。ただ花音の傍らに迎合しながら、そのしなやかな制服の下に思いを募らせ、そうして最低限の自制心が働くたびに、花音への視線は下へ下へと堕ちてゆく。花音の心ではなく、花音の身体へと意識は移ってゆく。そのことを、山岸さんは完全に見抜いていた。

 山岸さんは言った。僕が他の女性と、例えば山岸さんと仲良くしている所を目の当たりにしたら、花音は嫌な気分になる。初めて三人で会ったあの日曜日、僕は花音の目の前で、山岸さんの名前を呼んだ。文子さんと、それも不可抗力ではない、自分の意思での懇意をかこつけた。あのとき、花音は嫌な気分になっただろうか。自分以外が名前で呼ばれている事実を突き付けられ、優越感がさいなまれたと内心雲を背負っただろうか。

 そんなことはないと、相変わらず卑小な僕の器は訴えている。花音が僕の行動に目くじらを立てるわけがない。たかが他の女性を名前で呼んだくらいで、十六歳の快晴な精神に雲をかけられるほど、花音が僕に傾倒しているわけがない。ましてやあのときの花音にとっての僕は、再会してまだ間もなかった、たかが近所のお兄ちゃんだ。随分距離が詰まった今ですら花音の内心は解き明かせないのに、当時の僕が花音を左右するなど、見当するだけで違いも甚だしい。

 いや、それもまた違う。花音の内心を解き明かせないのは、花音の内心を解き明かそうとしていないからだ。花音と、向き合っていないからだ。あの当時はそれでよかったのかもしれないが、今は違う。花音は、僕と向き合っている。それでも未だに僕が逃げ続けているのだから、あの山岸さんを怒らせるのも当然の結果だろう。

 そんなことはすぐ理解できるのに、やるべきことは見つかっているのに、僕はまだ、片足が地についていない。前に出すか踏み止まるか、それとも半円を描くのか、その答えが夕闇の空に吸い込まれる。花音と一線を越えたい自分は確かにいる。花音とこのままでいいと思っている自分もどこかにいる。花音との関係を踏み台にして、底知れぬ陰をあぶり出す欲も、まだ眠っている。

 その晩、久しぶりに三十代の女性に陶酔して、夜をやり過ごした。

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