8-➁

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 これから梅雨の季節だと宣告するような雨模様の五月下旬の木曜日、普段なら自転車で通うところを仕方がないので徒歩に切り替え、朝のコンビニに赴いた。ちなみに木曜日や月曜日は通常自転車で通っているが、金曜日や日曜日は初めから徒歩で通っている。理由はもはや説明不要だろう。

「おはようございます」

「あ、おはよう」

「おはよー」

 勤務開始十分前にバックヤードに着くと、珍しく店長が既に出勤しており、パソコンの画面を山岸さんに見せながら何かを話していた。特に真剣な話というわけではなさそうだったが、普段の木曜日ならありえない光景に、何かしらのイレギュラーの気配を感じる。

「ごめん橋内くん、もうちょっとかかりそうだから先に行っててもらえる?」

「あ、わかりました」

「ありがとう。ごめんね」

 別に謝らなくてもいいのにと思いながら、山岸さんの指示に従い売り場に一人で向かった。朝の忙しい時間が過ぎ去ったレジでは、これから交代する夜勤から朝の時間帯までを兼務していた中年男性がのんびりとした様子で待ち構えていた。

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ」

 軽く労いの言葉を交わし、レジカウンターの表と裏を入れ替わる。この男性とは同じシフトに入ったことはないためそこまで深い関係性ではないが、今日や夕勤の日は入れ替わりで会うことも多く、それが一年も続けば自然とお互い打ち解けてくる。夜勤の相方はあまり意思疎通の取れない東南アジア系の男性で、朝の相方は折り合いの悪い五十代の女性なのもあって、今日に限らず十時間以上に及ぶ人恋しさはしばしば僕で発散された。

「店長から聞いた? 明日の朝にまた新商品入荷するみたいよ」

「へえ、そうなんですか。ってことは今日の夜に置き場所作るんすか?」

「そ。一応昼から準備はしてくれるみたいだけど、飾り付けとか面倒なことは全部夜勤に押し付けるつもりだろうよ。そのくせ自分は被害者面してるし。ホント、資本主義って押し付け合いの上に成り立つ仕組みだよなあ」

 言っていることは的を射ているのかもしれないが、そんなことを自分の子供くらいの年齢の他人に愚痴るその心構えが押し付け合いの最底辺に至らしめているのではないかと、朝の爽快な知覚が問い掛けている。こんなやり取りは特に取り上げることもない日常茶飯事である一方、不思議と僕は、須藤と違ってこの人にそこまで不快感を抱いていない。この人もこの人で、僕に全てをさらけ出すほど心を開いているようでもある。

「まあ、最悪須藤くんにやらせればいいかなあ」

「あれ? 須藤さんって夜勤でしたっけ?」

「ああ、最近夕勤の後そのまま二時まで残ってくれてるんだよ。店長が頼んだら意外にOKしたらしい」

 意外な話だった。須藤は身分上時間に融通が利くと思われているため、普段からよく店長に夜勤に入れないかと打診されていたが、その度に断っていた。理由を訊くと、どうやら深夜は別の仕事をしているらしく、よって夕勤以外は入れないと多忙を匂わせていた。

「よかったですね。木曜の夜勤って、元々確かワンオペでしたよね?」

「そうなんだよ。だからだいぶ楽になったなー」

「なんででしょうね。今まであんなに頑なに断ってたのに」

「なんか別でやってる仕事が好調らしくて、深夜の方はやらなくてよくなったみたいよ」

「え? 須藤さんって深夜のやつ以外に別の仕事もやってたんですか?」

「みたいだね。そっちはどうも怪しい感じだけど」

 するとそのタイミングで、山岸さんがバックヤードから出てきた。もう一人の朝の勤務の女性は、特に挨拶もなく既にバックヤードに下がっている。

「じゃあ、そろそろ上がろうかな」

「はい、お疲れ様でした」

 すれ違う山岸さんとも挨拶と共に軽く世間話を交わし、中年男性は一晩と朝方を捧げてきた労働から解放された。

「おはよう橋内くん。お待たせしてごめんなさい」

「いえいえ。さっき店長としてた話って、新商品の話ですか?」

「そうそう、よくわかったね。置き場所は夜勤の人が作ってくれるみたいだから、ポップとか作ってほしいって頼まれたんだ。さっきはそのデザイン見せてもらってて」

 商品の宣伝に使うポップは印刷された形式的なものが基本だが、その中に手書きで色鮮やかなものを混ぜ込むと、確かに僕でもわかるくらい見栄えは良くなる。その分だけ手間を代償にしていることは、頼まれることなど一生ないであろう僕でもわかる。

「……店長、山岸さんには本当に遠慮なく色々頼みますね。ポップ作りなんて、一番面倒な作業じゃないですか」

「ううん、いいの。そういう作業、私嫌いじゃないから。それより、そっちに集中してて橋内くんに迷惑かけるんじゃないかって……」

 こんな山岸さんは、見たいようで見たくはなかった。

 花音と一緒になって僕を揶揄からかっているとき、花音の話に夢中になり、彼女の中の何かがあぶり出されたとき、そんな彼女の新たな一面を、僕はいつまでも見ていたかった。

「山岸さん、何か困ったことあったら、遠慮なく言ってくださいね。この前のお返しです」

 そのときに浮かべた驚きの表情も、僕が見たかった山岸さんの素顔だった。

「ふふっ。ありがと、橋内くん。やっぱり、あの娘が来てから変わったなあ」

 僕にとっての二人の彼女、それは本来の在るべき世界を象徴するように、厳格に対を成し、決して相容れ、重なり合うことはない。

「じゃあ、今日も一日頑張ろうか!」

 花音が泉の精霊ならば、山岸さんは灯台を守る人間の鏡だ。

「はい! お願いします!」

 住む世界は違っても、二人の目に見えないものは、人々のための光を創り出している。


「じゃあもう時間なんで、いつも通り先上がっちゃってください」

「いつもいつもありがとね! いつかそのうちでっかい恩返ししなきゃだなー」

 勤務終了の五分前になって、いつも通り山岸さんに先に上がってもらう手筈を整えていた。一方で山岸さんは、そのままあっさりバックヤードに向かうことを名残惜しそうにしている。

「何かない? 私にできることだったらなんでもするよ?」

「ええ……、じゃあそうですね、明奈あきなちゃんたちによろしく伝えといてください」

「もちろん! 明奈も橋内くんにすっごく会いたがってるから!」

 十七時までにしっかり山岸さんをバックヤードに送り届け、二、三人の接客をしていると須藤がやって来た。いつも通りの軽い挨拶を交わし、特段取り上げる会話もなく、お互い次の目的に取り掛かった。

「お疲れ! 今日も一日ありがと!」

「あ、お疲れ様でした!」

 バックヤードに入る直前に山岸さんが出てきて、すれ違い様の情を込めた挨拶と共に、今日の別れを受け入れた。

「お疲れ様です」

「あ、お疲れー」

 続いて店長に挨拶しながらバックヤードに入ると、机の上に置いてあった見事な出来栄えのポップが目に入った。

「……店長、ちょっと山岸さんに負担掛け過ぎじゃないですか?」

 思わず、第一印象が口から零れ出た。

「うーん、やっぱりそうだよねー」

 意外にも、店長の反応は素直なものだった。

「僕もそろそろ抑えなきゃとは思ってたんだけど……。でも、そうだよな。さすがに橋内くんに言われたんじゃ、これからは気を付けるようにするよ」

 店長も店長で、山岸さんには大いに感謝している分、言葉では表現し切れない負い目があるのだろう。それは僕も同じことだから、胸中は痛いほど解る。

「そういえば、須藤さんって夜勤やってくれることになったんですか?」

 鈍痛を紛らわせるために、毒にも薬にもならなそうな話題を呈した。

「そうなんだよー。僕も意外だったけど、なんか最近別の仕事が上手くいってるみたいでさ。訊きもしてないのに嬉しそうに話してきたよ」

「へえ。ちなみに何の仕事なんですか?」

「うーん、そこら辺はあんまりちゃんと聞いてなかったんだけど、」

 正直、別に何でもよかった。須藤がどんな仕事をしていようが、店長がそれを憶えていようがいまいが、おそらく僕の人生には関係のない話に違いなかった。

「なんて言ってたかなー、確か何かの斡旋あっせんだったような気がする」

「はあ、須藤さんって結構器用なんですね」

「まあ、頭が回転するタイプではあるよね。それが悪い方に転ぶと怖いけど──」

 すると突然、店長は話を遮った。

「……いや、いくら一緒に出てきたところを見たからって、さすがに考えすぎか……」

 珍しく、神妙な面持ちが相貌を支配している。本社から来た上司に詰められているとき以外、店長が柔らかな表情を崩すことは滅多になかった。

「橋内くんはさ、ご両親と仲良い?」

「え?」

 そんな表情に加えてこんな質問をぶつけられ、僕の動揺もかなり宙に浮いていただろう。

「まあ、悪くはないですけど、良くもないですね。大学生になってからは特に関わることも少なくなりましたし」

「そっか」

 そのとき、あることを直感した。

 店長は僕の答えについて、全くと言っていいほど期待していない。それは興味がないだとか僕の味気の問題ではなく、僕を踏み台にして何かを訊き出そうとしている。

「じゃあ、関根さんはきっと、ご両親と仲良いんだろうね」

 そう言って、店長は椅子から立ち上がった。そのまま僕の横を通り過ぎ、ドアの前で立ちすくんでいる。

「えっと、確か彼女の父親は──」

「それ以上は言わなくていい」

 声と共に、店長の身体は小刻みに震えていた。その手でドアをゆっくりと開け、僕の方に意識だけを向けた。

「……変なこと訊いてごめん。今の話は忘れてほしい」

 バックヤードから出ていった店長は、初めて店長らしく見えた。それがなぜなのかは、僕にはわからない。店長が何を勘付いたのかも、皆目見当がつかない。

 ただ、その事実がやはり僕の人生とは関係のない話であることは、余った直感が教えてくれた。


「違うよ、絶対そんなことしてないって」

「いいや、間違いないね。なにせこの脳みそがしっかり記憶してるからな」

 翌日の金曜日、いつものように僕たちは夜道を共にしていた。午前中は昨日から降り続いていた雨天が大きな顔をしていたが、勤務に入る夕方頃には止み始め、今では上弦の月が主人公に成り代わるほど、空模様はせわしなかった。

「私が一人でトイレ行くの怖いから一緒に居てもらったって、そんなことあるわけなくない? ていうかそもそも、本当についてくるのもありえなくない?」

「俺もそう思ったよ。だけど、あんまりにも必死で頼まれたからさ」

 花音との会話はだいたい、現状の世間話が50%、思い出話が40%、後は修一に対する愚痴やその他様々な戯言ざれごとが10%を補っていた。

「でも何が一番ありえないって、そんな話をこの年頃の女子相手に今さらほじくり返す隆也くんの感覚だよね」

「ちょ……、ちょっと待てって! さすがにそれは誘導尋問すぎる! この話始めたの花音の方だろ!?」

「あれ? バレた?」

 その日は雨上がりの爽快な気分に惹かれてか、花音の提案もあり、いつもとは違うルートを歩いていた。道中に小さな公園の前を通りかかると、公園内の公衆トイレを見て花音が「なんか私、ここの男子トイレ入った記憶あるんだよね」と言い出したのが発端だった。

「ごめんごめん、それは認めます。でも否定するときの隆也くん、必死だったなあ。そんなに変態扱いされるの嫌だった?」

「お前……、覚えとけよ?」

 くだらない話は涼しい空気に割り込みながら、二人の間を闊歩かっぽしている。なんだかんだ、花音との関係は一定の距離感に落ち着いてきた。

「あ、ここの交差点懐かしいなー」

 花音がとぼけるように話題に挙げたのは、ちょうど僕たちが今差し掛かっているT字路の交差点だった。そこは僕たちが子供の頃、先の公園やどこか外へ出掛けた帰り、いつもそれぞれの家に帰る分かれ道になっていた。Tの縦になっている棒の下の部分から来て、僕は左に、修一と花音は右に行く。そんな風にして数え切れぬほど手を振り合ったこの交差点は、確かに僕たちの思い出の場所だった。

「いや、別にいつも歩いてるじゃん」

 僕の言った通り、この交差点は普段の僕たちの帰宅ルートであり、毎週のように通っている場所であった。

「そうだけど、でもこっちから来るのは本当に久しぶりでしょ?」

「まあ、そうだけど」

 確かに僕の家から花音の家に向かう道すがらでは、自然とただ一本道のようにTの左から右に向かうだけなので、あまり関心には及ばなかったのかもしれない。真っ直ぐ進んでいたら横に道が出てくるのと、目の前は行き止まりで左右に道が分かれる末路、どちらがより交差点を意識するかといえば、間違いなく後者だ。

 しかし、花音の不意打ちは、ただの思い出話とは思えなかった。

「じゃあ、またね、隆也くん」

 それが、このお話の違和感のタネだった。

「え? いつものように送ってくよ?」

「ううん、いいの」

 二つの棒が重なり合う点で、僕たちは足を止めた。

「これから金曜日は、こうやって、別々で帰りたいんだ」

 花音の表情は街灯の光から外れ、はっきりとは見えなかった。それでも沈黙に吹いた一陣の柔らかな風が、制服のスカートをなびかせたのはわかった。

「でも勘違いしてほしくないのは、これは隆也くんの問題じゃないの。隆也くんと話す時間を少なくしたいとか、早く家に帰りたいとか、そんなことじゃ絶対ない。本当は私だって、隆也くんと、もっと一緒に帰りたかった。もっと話したかった。だけど金曜日だけは、一人で帰らせてほしい」

 言葉を失った僕を見兼ねて、花音は優しい風を送った。頭の中に蔓延はびこっていた違和感が、少しずつ消失していく。

「これからもまだ、隆也くんと、一緒に居たいんだ」

 背後から来た自転車のライトが、花音の表情を映し出す。

 そうしてやっと、この交差点に来た意味が解った。

「……わかった。その代わり、絶対に気を付けろよ?」

 自転車は過ぎ去ったが、花音が笑顔を浮かべていることはなんとなくわかった。

「なにそれ。お兄ちゃんみたいなこと言っちゃって」

 そう言いながら振り返り、僕に背中を向けた。

「でも、ありがとう。私、……行ってくるね」

 小さな声だった。それ以外に物音があれば、たぶん聞き取れなかった。

 だが花音は、ちゃんと僕に聴こえるように言ってくれた。

「バイバイ隆也くん! また明後日!」

 もう一度振り向き、大きく手を振った。歩いていく制服の背中には、十六歳の奥行と貫禄が乗っかっている。

 しかし、その背中が二度と、僕の目に映ることはなかった。

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