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 それから月日は流れ出し、週二日、花音と労働を共にし、帰り道に足を揃える日々が続いた。時に昔を懐かしみ、時に今を慰め合い、つがいのようなお互いの人生を、重ね合わせることが歓びになった。

 どうやら花音は、高校一年生のときまでは吹奏楽部に所属していたそうだが、今年度に入ってからは部活を辞め、アルバイトに専念するようになったそうだ。といっても花音のシフトは、僕との二日と須藤との一日の週三日であり、もちろん高校生としての日中のせわしなさは大学生の僕とは比べ物にならないが、比較的自由な時間は確保できるという。その時間は、特に勉学に励んでいるらしい。理由は単純で、花音もまた兄と同じように、国立大学入学を目指している。花音の高校は都立の中でも上位に位置する進学校であり、最上位校と比べれば隔たりは否めないが、それらの学校法人でさえも入学を祝福するような全国屈指の名門大学にも、安定的な人数を輩出しているレベルを誇っている。そのような学び舎に入学を認められた花音ならば、兄の通う地方トップの国立大学はおろか、都内近郊への挑戦も現実的なのだ。十年前はトイレすら一人で行けなかったひなのような幼子が、今では外見の引力に負けない壮麗な内面を併せ持っている。

 そんな花音の隣を歩くのは、花音の高校より二回りも三回りもレベルの落ちる中堅都立高校が精一杯で、そこで何をやったわけでもなく、ただなんとなく過ごし、ただなんとなく成績を取り、その成績の推薦でなんとなく、世間でなんとか名前が浸透している二流若しくは三流私立大学に滑り込んだ、名実共に凡庸な只者である。幼い頃の縁で秀才兄妹にまとわりつき、その恩恵に今でもすがり付いている、生き甲斐の寄生者である。拠り所の便乗者である。遠い九州の地で、自分たちを女手一つで育ててくれた母親を喜ばせるために、自分を慕う従順な妹の模範となるために、日夜修道に腐心する修一が今、その勉励の源に近づく寄生虫の存在を知ったら、混沌の少年少女時代のよしみにケジメをつけ、僕を駆除してくれるだろうか。お前は花音に近付くべき人間ではないと、はっきり判を押してくれるだろうか。

「じゃあ、また明後日ね」

「ああ、また明後日」

 それでも、花音は僕の隣に居る。もう二年も経てば俗の塊のような下等な男だったと気付く相手に、大切な青春の一欠片かけらを贈っている。

「明日の朝さ、寝坊してサークル遅刻しないように電話してあげようか?」

「サークルやってねえって言ってんだろ」

 二十二時を過ぎた都邑とゆうの一画を、アルバイト先で出会った大学生の異性と並んで歩く。文字だけ見たら、なんと乙女心をくすぐりそうな恍惚こうこつ御伽おとぎ話だろうか。将来著しい聡明な少女が時間を無駄にしてしまうのも頷ける。

「逆に花音は明日何やってんだよ」

「秘密。だからって、勉強の邪魔したりしたら承知しないから」

「勉強するのね」

 隣に居るその男が、腐れ縁以外も釣り合う男であれば。

「またね、隆也くん!」

 そうして金曜日の夜、花音は真っ暗な家の中に消えていく。

 その背中を追いかけたいと思ったことも、なかったわけではない。むしろ今になって、初めて一緒に帰宅したあの金曜日の夜、もし花音の提案に冗談で対抗していなかったらどうなっていたのだろうかと、思い悩むこともある。お互いが忍ばせる思春への憧憬が、濃艶のうえんな幽暗によって高鳴りを引き起こし、二人揃って情緒の至りに足を踏み入ることができたのではないかと、過ぎた日に虚栄心を働かせることもある。

 だがとある日曜日を境に、焦りと後悔は一旦収束した。日曜日もまた僕と花音はシフトが同じで、九時から十七時のシフトを終えると帰り道を共にするのだが、初めて一緒に帰った金曜日の二日後の日曜日、同じように花音を家まで送っていくと、たまたま玄関先の手入れをしていた休日の彼ら兄妹のシングルマザーと出くわし、そのまま十年ぶりに彼らの家に上がり、旧懐と恵愛を共有しながら一服を満喫した。花音の母親は記憶よりも随分年を食った印象を持ったが、僕に対する懇意は当時のそれ以上に感じられた。そのときの話だと、僕との再会はまだ修一には伝えていないが、今度帰ってきたときのサプライズとして二人して企んでいるようだった。

 それ以来、この家の前まで来ると、花音への熱情は抑制が利いた。何しろ花音は、母親ですら僕のことをこれだけ歓迎してくれる親友の妹なのだ。この家には数え切れないほど訪れた。この家で数え切れないほど花音と共に過ごした。そんな場所で、現実では不始末なの隙をつき、一時の高鳴りに欲を掻くことは、僕を取り巻く全てのものへの裏切りだと悟った。花音に関しても、彼女の高潔さには相応しくないだとわきまえた。彼女が出会うべき「初めて」は、心の底から渇望し、心の底から湧き起こる快楽に溺れるくらいのものでないと、楽園から送り出した神が納得しない気がした。

 それだけ花音という存在は、名前に相応しい感性の泉の精霊だった。


 花音が僕のアルバイト先にやって来てから、そろそろ一ヵ月が経とうとしている。改めて感じるのは、花音という存在は僕にとって、今まで敵とさえ思えた愛という概念を、日常という踊り場を、うつつのものとした呼び水だということだ。

 花音と出会ってから、花音と話すようになってから、少しずつではあるが、僕は大学に居心地を覚えるようになった。今まで出席のためだけに赴き、右から左へと情報が流れ出るだけだった語学などの授業も、最低限のレジュメだけ取得し、何を題材にした内容かもわからなかった大教室での講義も、少しずつ、本分が実になり始めた。

 それもこれも、花音に先輩風を吹かせられる数少ない話題の補充場所だったことが、僕の耳をそばだてさせる一番の要因だったことに他ならない。花音は、僕の話を聞いてくれた。風采だけで充分なのに、存在だけで超越なのに、花音は、僕の持ってくる何でもない話を、まるでそれを売りにしている共感力の申し子のように、優しく包み込み、丁寧に色を付け、二人の秘境にしてくれた。誰にも立ち入ることのできない二人だけの空間を、たった一度でもやっこの手に触れれば粉々に割れてしまう琥珀こはくの結晶を、花音の普遍性が創り出した。

 それでは花音という少女は、何を基に僕を導き、何を基に僕を切りひらき、何を基に、僕の隣に居てくれるのだろうか。僕は、花音にはなれない。花音の隣に居ることはできても、──今は到底考えられないが、花音の身体に触れることはできても、花音が僕に、その心中の全てを打ち明けてくれたとしても、たぶん、僕には理解できないだろう。一般的な少年諸君がやけに眼が大きく描かれがちな少女漫画に惹かれないように、逆にターゲットの彼女らが自殺連鎖を引き起こす効果を真に受けないように、若き花音の悩み、いや心模様は、僕に扱い切れるものではない。

 一方の花音も、たぶん、僕の告白を理解できはしないだろう。花音の吐く息の二酸化炭素の一粒でさえ、花音の発する音吐の一声でさえ、花音が喜び、花音が悲しみ、花音が生き抜いた日常の一コマでさえ、僕にとっては一回のアルバイト代を返上してもいいほど、共有する価値のあるものだ。だが花音にとっては、それはありふれた永久機関に過ぎない。自分の触れたものが、自分の感じたことが、相手を癒し、相手を悦ばせ、また、自分に返ってくる。この循環の中に、花音の価値観は必要ない。相手である僕だけが、花音という価値を解っていればいい。そうして花音が永久機関を供給し続けてくれるのなら、僕は僕で花音の求める「何か」を差し出せばいい。それが何なのか、その「何か」にどんな価値があるのかは、僕が理解する必要はない。その二人の溝こそが、対になるべき世界のことわりを象徴しているのだ。

 では、なぜこのような溝が必要なのか。なぜ我々は、その溝を避けては通れないのか。それは我ら人類が、何かを欲し、満たし、また何かを欲するという根源的行動によって智慧ちえを獲得し、文明を発展させ続けた歴史があるからだ。だが義務教育で施された世界史や日本史を振り返ったとき、それを喜劇であざけった一部の例外もいただろうが、大抵の社会科教師は、歴史は悲劇の繰り返しだと表現しただろう。そう、歴史は悲劇なのだ。人が何かを欲することで悲劇の幕が開き、その一つ一つが智慧によって解決し文明が進歩することで、物語は局面を越えていく。そうやって人は神に近付こうとして、まず分断が起きた。分断が起きたことで、領地に取りかれるようになった。領地に取り憑かれたことで、勝ち負けの意味を知った。その最果てが言わずもがな、この茶番劇の終止符だろう。

 この仮説も一部思想に取り憑かれた茶番に過ぎないのだが、他方でこの溝の有無は、人間界に介在し続けた。そしてこの溝は、貨幣などの具現化をもって、その役割の大端を引き渡した。誰もが理解し、共有できるフィクションの真骨頂は、人々の生活を豊かにした。衣食住の開発から始まり、その隙間を埋めるように娯楽が生まれ、やがてそれらが結びつき、今ではそれぞれが独立しているように見えて、一つの大きな体系の中に収まっている。

 しかしこの世紀の発明は、溝を埋めるどころか、余計に深く大きくなりつつあるのが現実である。貨幣がなかった時代の方がよかったなどとは口が裂けても言えない。前にも述べたように、僕はこの時代、或いはこの環境以外で生きていける自信はない。歴史上の偉人たちが遺していった功績に、全体重をかけてぶら下がっている人間の筆頭格はまさしく僕だ。ただ、人間の欲望が造り上げた一つの大きな体系が、それよりも大きくなった溝に段々と沈んでいることは、やはり逃れられない現実になっている。そのような有様を作り出したのも、歴史という悲劇の主人公たちが、本来併呑へいどんしてはならない二つの世界を、目先の欲望に駆られて重ね合わせてしまったのが原因である。元々は二つのつかで支え合っていたバランスが、それが不必要と判断され利便性が優先されたために、穴に引っ掛ける突起部分が無くなった。それでも溝はどんどんと大きさを増していき、欲望は重さだけが増していく。もはや眺めることだけが許された我々一般庶民は、地球そのものが太陽に飲み込まれる瞬間のように、主人公たちの食べ残しを持て余すことしかできないのだろうか。

 その中で一つだけ、人類がもぬけの殻になったとしても、衰えない価値観がある。それはまさに、僕が花音に抱いている感情だ。花音の一息を、花音の一声を、花音の鮮やかな心の叫びを、僕は大層ありがたがっている。なぜなら、僕は花音ではないからだ。花音ではないから、その一息を吐けない。その一声を発せない。その一感情を、僕は持ってない。持ってないものを欲しくなる、または足りないものを補いたいというのは、欲求、それから経済の本質であるが、その隔たりが最も顕著な概念こそ、性という溝ではないだろうか。

 もちろん、今の時代は例外という言葉では片付けられない背理の可能性も含んでいるが、人間がおのれとの差異を感じる最も身近なもの、それは性別と年齢である。特に前者は、その訪れは平等ではない。持ってないものを得られる者、足りないものを補える、或いは満たせる者は、そこにいるだけの人間には当てまらない。当て嵌まらない人間は、異性の持つそれぞれの部位、それぞれの快感を、自分の部位、快感に落とし込むことはできない。これが食事と睡眠という生命維持機能と並び催されるのだから、落とし込むことができなければ、僕が夜な夜なしていたような代替行為でその場をしのぐか、経済を回すことで、その溝を埋めるしかない。

 だからこそ、性の持ち得る価値は高騰していく。ここには、究極の需要と供給の可能性が眠っている。僕はたまたま花音という奇跡と巡り会えたが、もし僕が同じような経験を別の少女でしようとした場合、その価値は一回のアルバイト代では済まされないだろう。その一息も、その一声も、僕には大きな溝の向こう側だった。高額な対価を払わなければ、日常の一端にすら触れさせてはもらえなかった。今でも、桃源郷が僕の唯一の相手だった。

 即ち、人間に与えられたこの性という溝は、最も大衆に近い大衆が向き合わざるを得ない、マルクスの集大成に匹敵する経済的悲劇の本質を秘めている。原油価格や為替レートで資本主義を解き明かそうとするより、中年男性が若年女性に高額報酬を支払おうとする行動原理、またそれが世間で煙たがられる心理作用に焦点を当てた方が、思春期の少年少女たちの胸には真っ直ぐに落ちていき、万華鏡のようなビジネスチャンスが花開いていくだろう。それが倫理的にかなったものに収束していくのかは定かではないが、いつの世もこの原始的取引は、名称や形を順応させて市場の裏側に君臨している。世界共通の持続可能ビジネスとして、単純明快なメカニズムが確立されている。現代社会の教科書は、意外と身近に転がっているものなのだ。

 その垂訓が、もはや本質を見失ったものだと誰も気付かぬまま。

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