7-➁

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「ごめん、お待たせ」

「ううん! 全然大丈夫!」

 高校生の花音は二十二時に余裕を持って上がったため、店から程近い場所で後から上がった僕を待ち受ける形になった。

「大変じゃない? 学校からそのままバイトなんて」

「うーん、でもまあ部活と同じような感じかな」

 学校帰りの平日の花音は、高校の制服で夜風を縷々るるに浴びていた。高原にそびえ立つ孤高の風車のように、生きている意味を、傍らで留まる一介の人間に思い出させてくれる。

「時間的にも余裕あるし、そこまでバタバタはしないよ」

「花音の高校ってどの辺なの?」

「ここからだと電車でだいたい十五分くらい」

 濃紺のスクールバッグを重そうに持ちながら百合ゆりの花のように歩く花音は、立っても座っても芍薬しゃくやく牡丹ぼたんのようにはならない。歩いているときだけ、百合の花のおもむきが宿る。

「それだったら一回帰れるんじゃない?」

 制服姿で出勤してきた花音を見たときは、一瞬脳天にかすみがかかるほど、その光景に吸い込まれていった。

「水曜日はそうしてる。だけど金曜日は、そのまま来てるんだ」

 その言葉に、再び脳天は撃ち抜かれる。高揚感は神経へと染み渡り、目に見えない水曜日の幻影に止めを刺す。

「どうして金曜だけ?」

 それを聞くと、花音は足を止めた。

「早く隆也くんに会いたいから……、なんてね」

 そうしてまた、足を先に進めた。しかしその歩幅は、さっきよりも小さくなっている。

「さっきから隆也くんばっかり質問してズルいよ。私だって訊きたいこと、たくさんあるのに」

 違かった。花音は僕に早く会いたいから、学校から直接来ているのではない。僕に制服姿を見せたいから、他の好奇に耐えているのではない。

「例えばどんなこと?」

「あ、また質問した」

 本当はそうなのだとしても、それを受け入れる器はない。

「ごめんごめん。次はちゃんと聞くから」

 制服のYシャツが、街の灯に照らされて蛍火のようにまたたいている。紺色のスカートも、暗色に一筋の明を与えられた意味に報いるように、僕の目にしるされている。

「大学って、楽しい?」

 ちょうど、二週間前に花音とした交差点に差し掛かった。赤信号が表示された横断歩道の前に立ち止まり、二人並んで夜のちまたを吹きすさぶ。

「……楽しくないな」

 自然と、仮面が剥がれた。

「どうして?」

 一番取り繕わなくてはいけない相手に、一番格好良く見せたかった相手に、自然と、本心が出た。

「花音みたいに、話す人なんていないから。今の方がよっぽど楽しい」

 信号が青に変わる。しかし、二人の足は早まらない。

「それじゃ、私と一緒だね」

 雲に覆われた真っ黒な空を見つめながら、花音の言霊ことだまはコンクリートの地面に落ちていった。

「私も学校なんかより、今が一番楽しい」

 涼風が花音の髪をなびかせる。肩にかかった繊微な毛が、にび色の空気の上を舞っている。

「俺と花音は違うよ。俺は何も持ってないけど、花音はいろんなものを持ってる。俺じゃ到底持つことなんて許されない、この世界で求められてるものを」

「……そんなのいらないよ」

 青信号が点滅し始める。すると花音はようやく、その足を前に進めた。

「私の持ってるものなんて、隆也くんと話せる時間で充分だよ。後はもう、何もいらない」

 真ん中まで渡ったところで、赤信号の表示に変わった。しかし、二人の足は止まらない。

「隆也くんは、目に見えないものって信じる?」

「え?」

 歩きながら、花音はおもむろにそう問い掛けてきた。

「霊とかそういうのじゃなくて、なんていうのかな、友情とか、愛情とか、人の心が震える瞬間とか。そういうのって、この世に存在してると思う?」

 僕たちが渡り終わると、背後で車が行き交う音がし始めた。

「存在は、もちろんしてると思う。だけど俺は、どうしても事実の方に目が行っちゃうかもしれない」

 歩道に乗り上げたところで、再び花音の足が止まった。

「今俺が楽しいのも、心が温かくなってるのも、こうやって花音と話せたからだから。花音の隣に居られるから、日常なんかよりも楽しいんだと思う」

 止まった足が、少しずつきざはしを昇り、人の上にも下にも立つことなく、真っ白な智慧ちえを実らせた。

「……そうだね。こうやってまた会えたことも、紛れもない事実だもんね」

 そうしてまた、足を先に進めた。その歩幅は、さっきよりも大きくなっている。

「修一、元気かなあ」

「隆也くんからも言っといてよ、もっと頻繁に帰って来いって」

「ははっ、あいつもあいつで忙しいんだから許してやれ」

 冗談で返したつもりだったが、花音はあまり笑わなかった。

「隆也くんの家、もうすぐ着くね」

 花音の言った通り、大通りから小路へと入った僕たちの視界には、我が家の面影が漂っていた。

「いいよ、花音の家まで送っていくから」

「え、それじゃ遠回りだし大丈夫だよ」

 僕の浅はかな遠回りは、いつか花音という目的地に辿り着けるだろうか。

「逆にここで一人で帰したら、俺が色んな人から怒られるんだよ」

「そんな人いないくせに」

 少しだけ、花音は喜色を浮かべた。暗闇に紛れていても、花音の笑顔は知覚を貫通した。

「じゃあ、改めてお願いするから」

 僕の遠回りをあやすように、花音は目の前に情を据えた。

「私が安心して帰れるように、家まで一緒についてきてください」

 いや、あやしではない。これは祈りだ。

 花音は心の底から、もう少しだけ、僕と共に居られる夜の巷を祈っている。

「なあ、花音」

「なに、隆也くん」

 段々と、我が家の面影が薄くなっていく。その代わりに、鮮やかになっていくものが心の中に芽生えた。

「俺、今すごく楽しいよ」

 それもまた、日常なのかもしれない。

「私もだよ」

 だからこそ、痛みや苦しみばかり目に付いてしまう僕のような人間でも、こうして生きていけるのかもしれない。

「久しぶりだなー、この家」

 僕の家の周りから五分ほど歩いたところで、花音の家の前に到着した。先の情報通り、花音の母親はおそらく夜勤に出掛けているため、家の中は暗澹あんたんに包まれていた。

「最後に来たときから何か変わった?」

「全然変わってない。ってことは、修一と上下の二段ベッドはまだ健在?」

「……しょうもないことはしっかり憶えてるんだね」

 花音は小さな門を開けてドアの前まで行くと、門の外にいる僕の方を振り返った。

「どうする? 一人で帰るの怖いなら、朝までウチで待つ?」

「それは小一の頃の花音だろ」

「……やっぱりそんなことばっか憶えてる。微妙に改竄かいざんしてるし」

 鍵を開ける音が、気持ちのいい沈黙の上に木霊こだました。

 暗闇に紛れた表情はよく見えなかったが、きっと僕たちは、同じ喜色を浮かべている。

「またな、花音」

「またね、隆也くん」

 僕はやっと、信じられるものが見つけられたかもしれない。

 愛していいものが、見つけられたかもしれない。

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