7-①

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 一週間も経たずして、僕の欲望は限界に達していた。無理もないと言えば無理もない。初めて名前で呼び合うような間柄が生まれ、初めて示し合いが成せる共通のバックボーンを持ち、初めて、他にその悦楽を匂わせられる武器を手に入れた。しかもその相手は、須藤のような不満にまみれた男なら誰しもが想像を働かせるような、皮と膜の申し子である。

 そんな少女の中の少女を前に、もはや節制などどうでもよくなっていた。朝が来れば太陽の訪れと共に花音の風情を思い出し、昼が来れば日常生活と共に花音の制服を思い出し、夜が来れば暗闇の掌握と共に、風情と制服に包まれた花音の真の肉体を心に留める。それだけで既に、僕の精魂は絶倫に達している。OLだの人妻だの、そんなものはどうせ僕の世界には存在しないのだ。僕の前には花音がいる。十年前は共に入浴し、同じ部屋で床に就き、その上小水まで目に焼き付けた相手が、何を隠そうこの上ない少女の姿で戻ってきた。「隆也くん」の記憶を保存したまま、自らの意志で「花音」を取り戻した。

 しかし、果たして花音は僕と同じように、僕の存在で皮と膜を傷つける想像を巡らせているだろうか。僕の世界には花音しかいないが、花音の世界にはいくらでも蜜蜂がいる。その香りを少しでも振り撒けば、狼の手を借りることなく、皮と膜を捨てる手引きを施してくれるだろう。既に何度も述べてきたが、摂理とはそういうものだ。花と動物は均衡していない。咲いて間もない花は、動物の目には一層はかなげに映る。その散り際を、自らの手で犯したくなる。自分が同じ生まれたての頃には気付かなかった昔日せきじつの尊い間違いを、失ってから二度と巡らないことだと悟り、本当の間違いに囚われてしまう。そのようにして、青春の持ち腐れは欲望だけを獣と化し、動物たちの繁栄した草原から追いやっていく。

 今までの僕は、そうした迫害を免れるために、桃源郷に救いを求めた。同じように経験の乏しい若い男を支配することに駆られた魔女に傾倒し、それが潜在的に世の中をかたどっていると誤信し、見込みのない切望、つまり山岸さんとの何かを期待し続けていた。今までは直接意識しないようにしていたが、花音と再会した今、山岸さんに対するそれは明らかに変わった。花音の存在が、高嶺でも谷底でもない、野原に豊饒ほうじょうと咲く花音の中庸が、僕を在るべき姿に押し戻した。

 そんな花音を両手で添えるために、僕の思想を獣へといざなった契機に応えるために、僕は初めて自分に向き合った。もうこの職場を通じて、花音に教えられることはほとんどない。細かいミスの尻拭いはあったとしても、彼女の手を取り足を取る時間は残されていないだろう。だからこそ、「隆也くん」としての自分に慣れ、「隆也くん」としての時間を過ごすしか道はない。それは店長にも須藤にもできず、山岸さんも触れられない、僕と花音だけの軌跡なのだ。


「最近、何か変わったことでもあった?」

「え?」

 店内が閑散としてくる木曜日の午前十時、変わらない日常をはぐくんでいる山岸さんが、一人の女子高生に煩悩を躍らせる僕の傍らにそっと忍び寄ってきた。

「橋内くんって、前までそうやって考え込むことなんてなかったから」

 そんなことはなかったが、そう思われても仕方はない。今までの僕は、この職場に思案を持ち込むようなことはなかった。ただ一人、目の前の人妻を除いては。

「山岸さんには、僕が何か、悩んでるように見えます?」

「え?」

 その反応が意外だった。何が彼女の虚をいたのか、僕には見当がつかない。

「あ、うん、ごめんね。うーん、悩んでるというより、なんていうのかな、迷ってる、って感じ?」

 内心、少しホッとした。もしここで山岸さんが「思いもよらないようなことが起きて、それをどうすればいいか、持て余してるって感じ?」などと言い放ったら、僕は身動きが取れなくなっていただろう。

「うーん、それじゃ一緒だよね。あーもう、私ってほんと馬鹿」

 彼女の言動は、いつ如何いかなるときも、僕に自由を与えてくれる。

「山岸さんの言ってること、充分的を射てますよ。実際僕、悩んでますし、迷ってるんですから」

 それだけは、一人の女子高生にもどうすることもできない聖域なのだ。

「そっか。でもそれなら、私に相談してくれたっていいんだよ? 一応これでも、十年は長く生きてるんだし」

 山岸さんが僕より十五年長く生きている三十四歳なのは通暁つうぎょうしていたが、えて口に出すようなことはしなかった。いくら一年という月日が与えられても、僕たちはまだ、そのような関係性ではない。

「でもまあ、ホントにしょうもないことなんで大丈夫です。一晩経てばもう忘れてるようなことですから」

「えー、そんなこと言われたら逆に気になるよー」

 それが故に、今まではあまり立ち入った話はしてこなかった山岸さんだったが、心なしか、ここ最近の彼女はその殻にケリを付けている。

「あ、わかった! この前のあののことでしょ!?」

 もちろんそれは、僕にも当てまることであるが。

「まあ、それは否めないですね」

「嘘おっしゃい。ホントはそれが全部でしょ? ま、私も人のことは言えないけどね」

 いつもの山岸さんとは違う、深く、優しい顔を見せた。その面持ちは、どんな動物にも母性を思い出させる情愛に溢れている。

「私も大好きよ、あの娘。素直だし、しっかりしてるし、何より健気よね。愛嬌振り撒いてるって感じじゃないのに、自然と夢中になっちゃうの。孫とかできたら、あんな感じで取り込まれちゃうのかなあ」

 そう言って、自分のお腹をさすった。そこにはまだ、生命の宿る余地と、引き金を受け入れる肉慾が潜んでいるのだろうか。

「平日の夕勤とか、日曜のシフトもこれからずっと入ってくれるって言ってたし、私的にもホント大助かり……、って、いけないいけない。あんまりあの娘のこと褒めたら、また橋内くんがサボり出しちゃうね」

「いやサボってない……、とも言い切れないですね」

 両手を後ろに回して髪の毛をいながら、山岸さんは笑顔を浮かべた。それを横目に受けながら、客足の乏しい店舗であることを資本主義に感謝する。

「橋内くんはあの娘のこと、どう思う?」

 両手が一段落し、余った視線が僕に直撃する。なんとか花音の姿を思い浮かべながら、情愛の強襲を受け流す。

「関根さんのことですか?」

「うん。あ、そういえば名前、ちゃんと憶えたんだね」

「いやいや、いつまで引きってるんですか。あのときも別に……」

 そこまで言って、口をつぐんだ。別に勘違いされても困るような事柄じゃない。

「そっか、それもそうだよね。だって橋内くんにとっては……」

 むしろ、勘違いされた方が好都合だったのだ。

「ううん、なんでもない! さ、そろそろ店長来るかもしれないから、ちゃんとやんないとね!」

 二つの世界が厳格に対を成し、バランスを保ち続けるためには。


「じゃあ、まあ大丈夫だと思うけど、後は二人に任せていい?」

「はい、大丈夫です。お疲れ様でした」

 夕方の一波が落ち着いた金曜日の午後六時三十四分、店に十九歳と十六歳を残し、店長は帰路に就いた。

「じゃあ後はよろしくね、関根さん」

「あ、はい! お疲れ様でした!」

 廃棄品のチェックをしていた花音にも同じような言葉を残して、店長は店を出た。僕と彼女の間に、扱いの差はそこまで見られない。

「店長ってもうお帰りですか?」

「うん、そうみたいだね」

「これから会議とかならまだしも、平日のこの時間に帰られるなんて珍しいですよね?」

「なんか、本社に許可取って特別に帰らせてもらったらしいよ。子供の誕生日とかで」

「あ、そうだったんですか! ……でも結局この時間になっちゃうなんて、それはそれで大変ですね」

「確かになー」

 花音が回収した廃棄食品をレジまで持っていき、廃棄の登録を済ませる。須藤とのシフトだとここからパーティー状態になるのだが、花音にそれを仕込む図太さは僕にはない。

「それにしても、まだ来て二週間くらいなのに随分ここの事情詳しいんだな」

「えっとそれは、水曜日で一緒のシフトの方が、色々教えてくれて……」

 そう言いながら花音は、登録を済ませた廃棄食品を入れている透明の袋を見ていた。

「……須藤さんか。確かに、俺もだいぶあの人から色んなこと教わったからな」

「はい。まだ二回くらいですけど、色々と、教えてくれました」

 あからさまに見ることはやめたが、その意識の先に食糧の山が転がっていることは、花音の目を見なくてもわかる。「色々」の中身に、僕と同じ内容が含まれていることも。

「……これ、捨てに行っていい?」

「……え? あ、はい! お願いします!」

 ようやく我を取り戻した花音の意識を尻目に、廃棄食品の入った袋を持って店を出る。そのままその他のまとめられたゴミが置いてある、店の裏まで足を運ぶ。

 花音はまず間違いなく、店長の目下では決して許されない、廃棄食品の窃取を須藤から教唆されている。もしかしたら僕が伝授されてきたその他の悪事も、先輩という冠の名の下に魅力的に映ってしまったかもしれない。

 しかし、どんなに彼女が須藤の毒牙にかかろうとも、僕の過去の行ないが善の心持を妨げても、彼女にそうしたことを、須藤と同じやり方で取り入ってはならない。逆に言えば、そのやり方ではあの男に勝つことは不可能なのだ。

「ありがとうございましたー!」

 店に戻ると、右手にメビウスの10mgボックスだけを持った僕と同い年くらいの茶髪の男性客が、すれ違い様に出ていった。僕が店内にいたときはいなかったので、大方タバコだけを買って足早に用を済ませた客であろう。注文の際に変ないざこざが発生しなければ、そういう客が一番手っ取り早く、接客もこなしやすい。

「タバコ、だいぶ覚えてきた?」

「うーん、まだまだです。今のお客さんも番号で言ってくれましたから」

 その客が元々そういう心掛けだったのか、それとも花音を認知してから慈愛に切り替えたのか、それを今さら量ることは徒事あだごとである。ただ花音のような店員相手ならば、善良な男性諸君の大半は接客を受けるだけである程度納得し、特に粗を探すようなこともなく、五分後には忘れてそうな満足感に浸りながら店を後にするだろう。これが箔付きの佳人かじん相手に置き換わると、途端に印象が強く先行し、ただの何でもない業務上の手続きに意味を見出したくなる。何度でも納得以上の成功体験を求め、一時間経っても消えない満足感にひた走り、やがては唾を吐きかけ、隔絶した対人関係に没頭しようとする。花音なら、花音だから、別にこの店ではなくても、二、三店に一人はいそうな女性店員だからこそ、何のわだかまりもなく、人々は寄せては返す対人関係の波に従事できる。逆に言えば、僕のような男性店員もその一端を担ってはいるが、人々の血潮の絶え間にこびりつく、欲にも成り切れないかすかな念が、花音の営みによって円滑に流れ出ていく。

「お客さん、来ませんね」

「ああ、来ないな」

 二つのレジにそれぞれ立ちながら、ただ流れていく時間を呼吸で確かめる。真横には、その呼吸音すらいつくしい、十六の夜がたたずんでいる。

「普段も、こんなに暇なんですか?」

「いや、ここまでなのは珍しいな。金曜は飲み会終わりの人も結構来るし」

 店長がいるうちにレジ以外の雑用はほとんど済ませ、揚げ物を作り足す十九時になるまでは、花音との時間が生まれた。久しぶりに、いや、初めて、花音を隣でじっくりと感じることができた。

「ねえ……、隆也くん」

 急に「隆也くん」として呼ばれ、時計の針は止まった。

「……どうした? 花音」

 今、店内には誰もいない。客はおろか、店長も山岸さんもいない。もし誰かが急に入ってきても、身体同士の接触さえなければ大して不審がられないだろう。ただこうやってお互いの名前を呼び合い、もう一つ先に進もうとしているだけなら、僕たちが十年ぶりに再会した兄妹同然の兄妹ではない男女だと、誰が想像できよう。

「ここで他の人が誰もいなくなるなんて、初めてだよね」

「まあ、そうだな」

 僕が今、花音の存在だけを生きがいにしていると、誰が想像できよう。

「こうやって二人でのんびり話すのも、もしかしたら、初めてかな?」

「……そうかもな。なんだかんだ、落ち着いて話す機会なんてなかったからな」

 僕が今、花音の滑らかな両手を取り、花音の小さな肩を抱き、花音の繊細な唇を奪い、花音のささやかで平坦な胸に触れ、そして、花音を護るその制服を引き剥がし、破り捨て、悦びの証を刻む衝動に囚われていることを、誰が、想像できよう。

「この後バイト終わってさ、もし、隆也くんが嫌じゃなかったら……」

 僕がそれ以前に、愛について盲目であることを、花音は、想像できるだろうか。

「一緒に帰ろう? 今度は、もっとゆっくり話したいんだ」

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