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 一週間という白昼夢は、時に兎の尻尾に包まっているかのように早く感じるが、時に亀の甲羅にまたがっているかのように遅く感じる。いつか逆転した夢から覚めたとしても、真夏の夜には再び人々を惑わし、それを眺める人々を快く喜ばせ、再び白昼夢へと案内する。現実か幻想か、円満に終わるか不和に沈むかは創り手の物差し次第だが、ともかく僕にとってのこの一週間は、終局に控える祭日の為だけに捧げていたと言っても過言ではない。

「おはようございます」

「あ、おはよう、橋内くん」

 バックヤードのドアを開けると、最初に聞こえてきたのは山岸さんの声だった。

 前に述べたように、日曜日のシフトは店長と山岸さんが隔週で代わっているため、今週は山岸さんの週だった。今週の日曜日が特段に神聖化したことに、彼女の存在を除けることはできない。

「おはようございます! 橋内さん!」

 その次に聞こえてきたのは、花音の声だった。

「おはようございます、山岸さん。あと、ええっと、……関根さん」

 僕の精一杯の捻り出しを聞くと、山岸さんはあどけない笑みを浮かべた。

「なになにー? もしかして橋内くん、まだ関根さんの名前憶えてないのー?」

「い、いや、そういうわけじゃ……」

 花音の方を盗み見ると、花音も山岸さんに負けじと、あどけない笑みを浮かべていた。

「ひどいわねー、まったく。こんなに可愛い娘無下にするなんて」

「はい! ひどいです! 私は橋内さんの下の名前だって憶えてるのに! あ、もちろん山岸さんもです!」

「ウソー!? ちょっと、関根さん凄すぎ! ホント、橋内くんも見習ってほしいわー。もう一年も一緒にやってるのに、まだ憶えてくれないんだから」

 来たときもそうだったが、なぜか山岸さんと花音は既に通じ合っており、僕はその生贄にされたようだ。

「いやいや、僕だって山岸さんのは憶えてますよ」

「ホントー? じゃあその証拠に、今、呼んでみてくれる?」

「え? ここで、ですか?」

 二人のあどけない笑みは、まるで粉雪のように瑞々みずみずしさと繊細さを含みながら、通謀した悪戯っぽいものへと変わった。

「もちろん。だって私の名前、言えるんでしょ?」

「いや、もちろん言えますけど……」

「もしかして恥ずかしいんですかー?」

 完全にもてあそばれているなと自覚しつつも、態勢を整えるどころか、花音の追撃も相まってすっかり身動きが取れなくなった。こういうところにも、至極短期間で山岸さんの懐に入り込んだ花音の天賦てんぷうかがえる。

「文子さん、ですよね?」

 山岸さんはそのまま綻んだ表情を崩さなかったが、花音は少しだけ、歪むように目元が硬くなった。

「ふーん、よくできたじゃない。偉い偉い」

 二人の笑みは、彼女らの生きてきた年数を証明するように、それぞれの帰結点に光を差している。

「ご褒美に関根さんにレジ教える権利、橋内くんに譲ってあげる」

「え? レジ?」

 仕事用に長い髪を後ろで結ぶ山岸さんの手付きは、花音の放つ魅力を物ともしていない。

「うん。店長から頼まれててね、ホントは私が教えるつもりだったんだけど、二人ともその方が楽しいでしょ?」

 その上で、花音の放つ魅力を、花音だけが輝かせられるうららかさを、存分に引き立たせている。

「雑務とか面倒くさい仕事は全部おばさんに押し付けていいから、若者は若者の時間を楽しんでね」

 ここに、彼女の生きてきた証がある。彼女もまた、暴風雨から亡骸となって還ってきた夫を想い、カワセミとなって夫といつまでも翼を重ね合う風の神の娘のように、深い愛が身体の中に染み付いている。

 しかし、彼女には彼女だけの世界がある。お返しをするなら今しかない。

「ありがとうございます、文子さん」

 そのとき、永遠と思われた彼女の手が止まった。そのまま何事もなかったように更衣室に入ってカーテンを閉め切り、揺れる思いを目に見えるように閉じ込めてみせた。

 彼女の世界にくすぶり続ける、蒼い焔をあぶり出すことで。


「ありがとうございました!」

 レジに立った花音はあっという間に接客に慣れ、公共料金や宅配便などの少々込み入ったもの以外の接客は、開始一時間も経たないうちに一人で任せられるようになった。

「お次の方どうぞ!」

 そんな花音にレジを任せながら他の仕事をしていると、なんだかもったいない気もした。思えば花音の初勤務の日、即ち店長の指導を受けている日は、最後の一時間以外はほとんど付きっ切りだった気がする。あのような強引さも、年月が経てば体のどこかに染み付くものなのだろうか。

「あ、橋内さーん」

 声がしたレジの方を見てみると、商品を置く台の上には公共料金支払いの用紙が置かれていた。次にそのような客が来たときに、実際にやって見せながら教えると彼女と約束したものだ。

「三つのこの場所に判子押して、一番右を切り取ってお客様控えとして渡して──」

「なるほどなるほど」

 一度目にすればだいたい覚えられる簡単な作業をしっかりと見届け、花音との時間はまた減っていった。

「ありがとうございましたー」

 公共料金を払いに来た客が何事もなく帰っていき、束の間の空白ができる。

「あの、橋内さん」

 すると、花音が話しかけてきた。ちょうどレジから真正面の列の商品棚で補充作業をしている山岸さんの様子をうかがいながら、あくまでも、この場所に相応しい立ち振舞いで。

「どうしたの? ……関根さん」

 しかし僕には、彼女の分別がもどかしかった。もう一度、花音と隆也くんとして、十年の星霜を隔てた男女として、二人の時を遊山したかった。

「これってもし、違うものをお客さんに渡しちゃった場合ってどうすれば──」

「橋内くん、関根さん」

 不意に山岸さんの声が聞こえ、二人は同じように不意を突かれる反応をする。

「あ、ごめんね、取り込み中だったのね」

「いえ、どうしました?」

「トイレ掃除してきちゃって大丈夫?」

 内心、山岸さんのくれた機会に小躍りし、同時に怖気を覚えた。

「あ、はい、お願いします」

「うん。何かトラブル起きたら遠慮なく呼んでね」

 そのまま特に冷やかしも置いていかず、山岸さんはトイレへと歩いていった。与えてくれたフィールドは、真っ白で最適な環境と言える。

「山岸さんって、本当に優しい方ですよね」

 花音がその言葉を口にする。またその眼差しも、どことなく憧憬しょうけいの成りがあった。

「来たとき随分楽しそうに喋ってたけど、会うの今日初めてだよね?」

「いえ。今日で二度目です」

「あ、そうなの?」

 ここでの彼女との距離感も段々と掴めてきたが、まだまだ一線を越えられる根性はなく、無難な世間話が精一杯に終始している。

「はい。私、水曜日の夕勤も入ることになって、そのときに入れ替わりだったんですけど、山岸さんと初めて会ったんです」

 水曜日。確かその日は木曜日同様、山岸さんが午前から夕方まで入っている。

「それでその日、店長が会議で十八時くらいまでいなかったんですけど、それまで山岸さんが残ってくれたんです」

 そして、夕勤のパートナーは──

「このお店のこととか、橋内さんのこととかも教えてくれて──」

 須藤だ。

「そのときに店長から、今度の日曜日に山岸さんからレジを教わるよう言われたんです」

 間違いない。山岸さんが再び自分の時間を押し殺して一時間近く残ったのも、店長が会議のある日、普段自分がシフトに入っていないときは二十時近くまで戻ってこないこともあるにもかかわらず最速で戻ってきたことも、須藤と花音の二人きりという状況に、何かしらの黄色信号を察知したのだろう。

「……夕勤のパートナーの人は、どんな人だった?」

「え? うーん、別に普通の方でしたけど……」

 いや、勘違いするな。花音はまだまだ二人でのシフトが任せられない状況であり、そのことでの須藤への負担を回避するために、店長が戻ってくるまでの一時間を山岸さんに頼み込んだという可能性が一番妥当ではないか。単純に僕のときのように、レジを任せる人間と花音を指南する人間が必要であり、その人間を絶やさなかったというのが、このイレギュラーのタネなのではないか。

 そもそもあの男が花音に対して下心を蓄えていたとしても、夜な夜な花音を人知れずはずかしめていても、僕にはどうすることもできない。花音を護ろうなどというのは自惚れに過ぎない。なにせ僕も、元をただせば彼の思想と大した違いはない。仮に店長と山岸さんの目的が花音の為だとして、その日の須藤の立場が僕と置き換わったとしたら、同じような処遇がなされるに違いない。

「……なあ、花音」

 しかし、僕には彼女の名前を呼ぶ権利がある。十年という星霜が与えた精神と身体を持つ男女として、やり直す資格がある。二人の間にだけ芽生え得る、特別な意識の根源を知っている。

「……なに? 隆也くん」

 突然名前で呼ばれた花音は随分動揺していたが、何とか正気を保ち、分別の殻を打ち破った。

「平日でさ、他に入れる曜日ない? 例えば木……、金曜とか」

 僕は花音を護ることはできない。須藤の男としてのうごめきを妨げることはできない。この男はこれから、「普通の方」の仮面をまとい、店長たちの追っ手を振り払った後、様々な手段で花音に近付こうとするだろう。もしかしたら隙間を見つけ、そこに付け込んで花音の青春に唾が付けられることも否定できない。なにせ彼女は正真正銘、鷹揚おうような快感と一縷いちるの恥じらいを未来に据える、薄紅色の火の粉の化身なのだ。

 それならその火の粉を、自分の元にも降りかかるように計らえばいいだけだ。

「ええっと、そうだなあ……」

「全然無理しなくてもいいんだ。ただ、店長がシフト埋めるの大変そうだから、その辺に入ってもらえると助かるだろうな、って」

 木曜の名を出しかけたことを牽制するために、店長の名を借りる。確かに木曜は僕のシフトの日だが、花音が平日に入るであろう夕勤にはまたもや須藤が待ち構えている。彼をこれ以上火遊びに案内するのは、いくら僕にアドバンテージがあり、そのアドバンテージが引き剥がされ、花音が僕の手から零れ落ちるスリルを味わえるといっても、あまりにもリスクが大きすぎる。

「一応金曜は、俺も夕勤なんだ」

 しかし結局は、この本懐を水に流すための誤魔化しに過ぎない。誰もがその魂胆に勘付く幼稚な工作であるが、えてこのわかりやすい魂胆をチラつかせたのは、相手が特別な意識の根源を持ち合わせる人物だったことに他ならない。

「金曜なら入りたいな」

「お、ホント?」

 たとえ彼女が孤城に咲く、五行を司る相生と相剋そうこくだったとしても。

「うん! 金曜はお母さんが夜勤で帰ってこないから、家に居ても寂しいだけだし」

「そうなんだ。お母さん、大変だね」

「うん。だから私が頑張って、お母さん楽させてあげたいんだ」

 彼女の純粋な信念と笑顔が、全てを打ち消す。日々の鬱屈な生活も、須藤との無益で低劣ないさかいも、十年の並行がもたらした、俗男と才女の線を引く社会の歯車までも。

「……そういう隆也くんも、随分と仲良さそうだよね」

「え?」

 だがすぐに、俯きが笑顔をさらった。

「ううん、なんでもない」

 甘美な無花果いちじくの成熟が、僕の中の蠢きを貶めていく。

「なあ花音、お前、もしかして──」

「いらっしゃいませー!」

 十年を取り戻そうとした僕の心臓を跳ね上がらせたのは、入り口で鳴る客の来店の合図音ではなく、それに反応した真面目な花音の所作でもなく、どこからともなく聞こえた、第三の店員の掛け声だった。

「……ちょっと、バックヤード行ってくる」

「……はい、わかりました」

 花音をレジに残し、その声の発信源を確認しに行く。するとトイレ掃除を終えた山岸さんが、今度は在庫品のチェックのために、僕たちの様子を捉えられるレジから真正面の商品棚の位置に身を置いていた。ただ、バックヤードに向かう道中の僕を怪しむ気配はなく、自らの作業にある程度没頭しているようだった。

「ねえ、橋内くん」

「……え?」

 しかし、彼女の不意は鋭かった。

「あ、うん、別にどうでもいいことなんだけどね、」

 その経験豊かな不意の奥行に、十年前の精神は益々追い込まれていく。

「君たちって、元々知り合いだった?」

 そこに、夕陽の回想を携えて。

「すいませーん、橋内さーん!」

 花音の呼ぶ声が聞こえレジの方を見てみると、先ほど入店してきた客が、宅配便の荷物を持って待機していた。

「変なこと訊いちゃってごめんね」

「あ、いえ、……失礼します」

 レジに向かい、花音に教えながら宅配便の処理をしていたが、浮かされた情緒は不安定に双方間を飛来している。それでも花音は一回で要領を掴み、もはや僕が彼女に近付いていい所以ゆえんはなくなった。

 そうして僕の花音に対する使命は終わり、その後はどちらかと言えば山岸さんの指示を仰ぎながら、花音は一員に同化していった。今朝のような三人での団欒だんらんもなく、先週のような二人での神妙もなく、ただただ日曜日が終わり、次の五行と日月の訪れに耐えられなかった生命が果てていく夕暮れを迎えた。

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