5-➁

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「え……? ど、どういうこと……?」

 彼女は、僕の名前を呼んだ。

 知らないはずの僕の名前を。名乗ってないはずの僕の名前を。一週間前に初めて出会い、今日もほとんど話すことはなく、挙句の果てに話しかけることはおろか、存在そのものを否定したはずの相手の名前を。

 それも、親しみを込めた敬称を添えて。

「あの……、私のこと、憶えてませんか……?」

 彼女はそう言った。初めて会ったあの日よりもおごそかに、それでいて、歓びを忍ばせる希望の兆しを伏し目に光らせ、僕の記憶を刺激している。

 しかし、そんな可憐な少女の面影に、果たして本当に身に憶えがあるのだろうか。

「それなら……、私の兄のことは、忘れて、ませんよね……?」

「兄……?」

 その瞬間、記憶の回廊が底をついた。

 奥の部屋まで辿り着き、その襖を開け、中にいるひとえの子女に星霜を巡らせる。

「もしかして、花音かのん……?」

 彼女は、確かにそこにいた。

 朝の陽ざしが照らし出す千紫万紅と高山流水は、確かに彼女の司る陰と陽だった。

「……はい! 私、関根花音です!」

 ただ、なんてことはない。

「そうか、花音だったのか……。本当に……、久しぶりだな」

「はい! 本当に、久しぶりです、隆也くん……!」

 彼女は、小中学校で一番仲の良かった友人の妹というだけだ。

「修一、元気?」

「うーん、今は一緒に住んでないのでわからないですけど、」

「あ、そうだったね」

 その友人は関根修一といい、既に述べた通り、彼とは将来を誓い合うほどの間柄だった。といっても、中学卒業の高揚にたたられた青臭い真似事に過ぎなかったが、それでも当時は本気で心を躍らせ合うほど、何もかもさらけ出せる唯一の相手だった。

 修一とは小学三年生のときに同じクラスになったことで知り合い、家が比較的近所というのもあって、帰り道はいつも一緒だった。修一が一年生の頃から通っていたサッカークラブに誘われ、汗を流し、無数の傷痕を作り、同じ青空の下に生きている証を刻み付けた仲でもある。そのまま中学でも共にサッカー部に所属し、その先も同じ時間を過ごせるかと思っていたが、受動的に誘われ途中参加した僕と、能動的に憧れその輪の中心に居続けた修一とでは、実力の差は歴然だった。高校で進路が別れた後も修一はサッカーを続けていたが、僕はきっぱりやめて、今日の生活の土台作りに突入した。ただ関係が悪くなったことは一切なく、修一とは今でも定期的に連絡を取り続けており、その過程もあって、今では九州の国立大学に進学し、その地で一人暮らしをしていることは知っていた。弁護士になることを志しており、熱心に勉励していることも心得ていた。

 そして花音は、正真正銘唯一の朋友である修一の妹だった。ここまでの関係性を述べれば、お互いの家を行き来していた日々も容易に想像できよう。その上、彼らの一家は母子家庭であり、三つ下の妹は目が離せない存在であったと同時に、僕にとっても一般的な友人の妹以上の関係であり、感情だった。基本的に友人を家に呼ぶことができなかった修一だったが、僕一人の場合は別であり、修一の母の許可を得て、しばしば通い詰めていた。その際は毎回のように花音を交えて遊び、逆に僕の家に招く際も、ほぼ必ず花音はついてきた。いつも花音は三人の内で誰よりもはしゃぎ、誰よりも騒ぎ、誰よりもその一時を楽しんでいた。そういった僕たちの幼き日の情景は、彼ら兄妹にとっては貴重な遊び相手との思い出であり、僕にとってもそれは同様であると共に、一人っ子だった僕は、花音の創り出す兄妹愛と異性愛に並々ならぬ思いを馳せていた。

 小学四年生までの二年間は本当の三人兄妹のように過ごし、修一に外せない用事があるときなどは、僕が代わりに花音のお迎えを代わったりもしていた。花音は修一に対しては強がる一面を見せていたが、僕に対してはその穴埋めを求めるように、甘えたり困らせたりすることが多かった。それもまた花音に特別な感情を抱いていた要因であったが、何よりも花音は一時期、修一のことを修一と呼び、僕のことをお兄ちゃんと呼んでいた。本人たちがそのことを憶えているかはわからないが、小学三年生の二月から小学四年生の六月までの四ヵ月間、彼女が母親に注意されるまで、僕は本当の「お兄ちゃん」だった。花音の「お兄ちゃん」に成り切れていた。その四ヵ月が、僕の人生の栄華だった。

 それから小学五年生になると、僕と修一はサッカー以外の習い事も始めるようになり、花音も最低限の自立をわきまえる時期に差し掛かり、自然と三人の時間は減っていった。そうして中学生になると、僕と修一の関係は相変わらずだったが、花音との関係はほぼ完全に断たれていった。もうその頃になると、直接会う機会もほとんどなかった気がする。最後に会ったのはおそらく、僕らの部活の最後の試合を母親と一緒に観に来たときであり、そのときも直接の会話はなく、二人の間を微妙に気まずい雰囲気が覆ったまま、久しぶりの再会を形容する挨拶のみに終わった憶えが鮮烈に残っている。

「大きく、なったな」

 自転車をスタンドで止め、改めて彼女に向き直った。

「……はい」

 約十年の時を経て、街に紛れるほど背が伸びた花音。約十年の時を経て、僕に敬語を使うようになった花音。

 約十年の時を経て、そうした心身を携え、狼の牙がよだれを滴らせるほどの少女へと成長した花音。

「隆也くんは、全然変わらないですね」

「……そうか?」

 それに引き換え、十年経っても変わらない僕。器も中身も標準の成長線から漏れ、外身だけが年月の残酷な恩恵を受けてしまった僕。

 その乖離かいりが気味の悪さを生み、もはや誰からの愛も受けられない僕。

「面接の日に久しぶりに会ったとき、すぐにわかりました。……隆也くんが私に気付いてないこともすぐにわかったから、余計に緊張しちゃいましたけど」

「……まさか、こんなに大人になってるなんて、思わなかったからな」

 僕と花音の間には、今では大きな垣根がある。

 一度は血の繋がりをも錯覚するほど思いわずらったあの花音は、今やたくさんの花や精霊にまもられた一人の少女に成り果て、一方僕の手出しは、人知れず地獄に響き渡るうめき声のように、彼女の肌には届くことのない産物へと成り果てた。

「……嘘ばっかり。本当は、私のことなんて忘れてただけでしょ……?」

 花音は今や、自らの二本足で大地の調べを踏み鳴らす一人の少女へと変貌を遂げた。

 あの裸足で家の中を駆けずり回っていた花音が。あのゲームに負けると毎回のように泣き喚いて修一と二人であやしていた花音が。僕が学童保育から花音のお迎えに行った際、帰り途中に花音がトイレに行きたいと言って公園に寄ったが、一人じゃ嫌だと言って男子トイレの個室の中にまで付き合わされ、その後も僕の家に泊まりたいとわがままを続け、結局翌朝の登校まで面倒を見ることになった、あの、花音が。

「嘘じゃないよ。だって、あの花音がだよ? あの、あんなにわがまま放題だった花音がすごくしっかり者になってて、しかもすごく──」

 触れてはいけない、禁断の果実に換わった。

「綺麗に、なったから」

 言葉に出してはいけない、禁断の色欲をまとった。

「……隆也くん、それ、本心……?」

「え?」

 花音は顔を俯かせ、僕の長袖シャツの左袖にそっと触れた。

「本心だって、約束して……?」

 その左袖を人差し指と親指でそっとつまみ、俯かせた顔を少しだけ、僕の胸の方に寄せた。

 信号はとっくに赤に変わり、横断歩道は車の往来で容赦なく支配されている。

「じゃないと私、もう……」

 半端な導きは、彼女に何かの決心の機を与えかねない。しかしいくら心臓に釘を刺しても、荒波をしずめることはできない。このまま花音が僕に身を許せば、彼女に空いた穴はけがれで埋まってしまう。彼女に宿った魂は、暗い冥界の世に放り出されてしまう。

 それを防ぐ唯一の方法は、彼女の生命と潔白を護る唯一の方法は、僕が仮面を打ち破り、本心の答えを出すこと。

「本心、だよ」

 花音の動きが止まる。右手を下ろし、斜めになった身体を元に戻したが、俯きだけは維持していた。

「……ふふっ、よかった。やっぱり、隆也くんはそのまんまだね」

 そのままゆっくりと道路と平行に後退ずさり、僕の前から離れていく。

「来週も日曜、また、来てくれる……?」

「……うん、もちろん」

 ついに手が届かない位置まで行くと、花音はその顔を上げ、満面の笑みを天地に振り撒いた。

「それだけで、私は充分だよ……!」

 その瞬間、花音は道路に飛び出した。

「花音!!」

 伸ばした右手の反動で、スタンドで止めていた自転車が倒れる。

 しかしその衝撃音は、車の往来音で掻き消されることなく、誰かの衝突音で血塗られることなく、現世の一画に響き渡った。

「え? どうしたの?」

 花音の前にも後ろにも、横断歩道を渡る人々がいた。その人々が皆、自転車を派手に倒して少女に泣き叫ぶ、僕の姿をいぶかしんでいる。

「……ごめん。俺の勘違いだ」

 幸い周りで自転車の被害に遭った人間がいないことを確認して、もう一度花音の姿を目に映す。

 そこにいたのは、やはり世界のどこにでもいる、何でもない少女だった。

「……そっか。本当に本心だったんだ」

 そう言って、花音は去っていった。その道の先には、無味乾燥な僕の家の気配も存在している。

 だがそんな日常を変えたのは、僕の仮面を剥ぎ取ったのは、たった一人の少女だった。コンビニにもスーパーにもいる、街中にも電車にもいる、中学校にも高校にもいる、無知と制服だけで一部の狼たちを駆り立てる、噛みつかれた痛みを知らない、僕の住む世界にだけは存在しなかった、平凡で純情な少女だった。その胸の内に、どんな御伽おとぎ話を秘めているのかはわからない。どんな非日常に憧れているかは定かではない。どんな日常に苦しんでいるかは知る由もない。どんな牙が、彼女の身体に初めての傷をつけるのかは、想像すらできない。

 僕は彼女の何なのだろうか。僕にとって彼女は何なのだろうか。彼女は僕を必要としているのだろうか。僕は彼女を必要としていいのだろうか。

 彼女はなぜ、僕の本心に拘ったのだろうか。なぜ、僕に存在を求めたのだろうか。なぜ、十年経っても変わらない僕に、少しでも触れたのだろうか。

 なぜ、十年という星霜は、僕に翼を与えてくれたのだろうか。

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