5-①

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 初めてだったかもしれない。ああやって、異性から明確な敵意を向けられたことは。

 彼女は気付いていたのだ、僕らの少女に対する醜悪な邪心を。また同時に、それを隠して潔白な味方になり得ようとしている、悪辣あくらつ脆弱ぜいじゃくな仮面の下の醜貌を。

 だが冷静に考えれば、それは当然のことなのだ。彼女のような少女が受ける成人男性のみだらな眼差しと、例えば僕の二、三年前のような、少年が受ける成人女性の好奇な眼差し、この二つは、著しくかくされた意味合いを持っている。この世界を傍観したとき、大地に立つ男女の精魂は比翼ではない。必ずや足りない部分があらわれ、それに準じて余っている部分があらわれる。この国のいにしえは、既にそのような有様を見極めていた。僕が山岸さんに抱いたようなともしびを、彼女が店長に抱くことはない。加えてそれが年齢差の壁を縮めた生々しいものなのだから、僕らが彼女の純真を黒く染めた快感を得る一方で、彼女の精神はさいなまれた分だけ成長し、やがて世に溢れ返った久遠のよこしま剿滅そうめつさせ、新たな国生みの儀式を奉るだろう。

 彼女は去った。自らの誇りを守るために、狼共に爪を立てて、自分の居場所に箔を付けた。与えられた名前と心柄を全うし、自分の生き方を肯定しながら、生涯の歩を進める覚悟をめている。背中に生える翼もなければ、両手を燃やす剣と楯もない。身一つで新たな世界に飛び込み、鎖の切れた狼と対峙している。彼女もまた、僕の失った日常を謳歌おうかする青年たちのように、触れることそれ自体が剣呑けんのんで身を滅ぼしかねない聖者だった。前世で有象無象の徳を積み、そうして満天下の光彩を享受することのゆるされた人間に生まれ変わった、八百万やおよろずの連理だったのだ。


「関根ちゃん、声も結構可愛いな」

 耳を疑った。帰りがけにレジで須藤に呼び止められ、一連の流れを悟った僕は、思わず声を失った。

「何お前。もしかして俺が関根ちゃんに挨拶されたこと、嫉妬してんの?」

 つまり、そういうことだった。

 なぜだ。なぜ彼女は、こいつを懐柔しているのだ。僕には爪を立て、真っ向から歯向かってきたのに、こいつの頭を撫でてやっているのだ。

 考えられる原因は一つしかない。彼女は、仮面が嫌いなのだ。

 表層で紳士を飾り、その陰に誠実さを服従させる中途半端な獣より、全身に野鄙やひを従わせ、思うままに精霊を食い散らかす化物の方が、天命に身を預ける相手として相応しいと判断したのだろう。なんだったら、もしその争いに敗れ、開闢かいびゃくを捧げる相手とまで見据えるのならば、それこそ一つの穴も埋められない小心者に焦らされるより、屈辱の征服欲と引き換えに恍惚こうこつを満たす大賊に心も身体も突き貫かれた方が、果たされなかった聖母の破瓜はかも本望だろう。僕がみさおをまだ見ぬ淑女たちに望んだように、少女は暴虐で血肉をけがすことを望んでいるのかもしれない。

 しかし、勘違いしてはならない。この男は決して、化物でも大賊でもない。確かに僕は小心者で、獣の称号など箸にも棒にも掛からぬ普通以下の人間であるが、この男もまた、彼女の前ではその卑劣さを隠し、天から赦しを得た聖者を装う俗人に過ぎないのだ。彼女を満たすことはおろか、その征服欲だけを腹中で膨大させ、おそらく夜分の僕と同じように、彼女の名誉を秘密裡にあやめている。そんな男の仮面の下に、彼女はあの視線一つで射抜かれてしまったのだろうか。

「……お先に失礼します」

「お、おい」

 振り返らなくても、須藤が勝ち誇った顔をしていることがわかる。その勝ち誇った顔を構築した一番の要因が今の僕の行動であることも、嫌になるぐらいわかる。その心中を察せられて、人生で初めてと言っていい異性関係での優越感をこの男に植え付けたことも、今ここで大通りに飛び出しても悔いは残らないくらい、心髄に染み込んでいる。

 自転車のペダルが重い。サドルは同級生の憂さ晴らしに付き合わされているいじめられっ子の座る学校の椅子のように、冷たく硬い。こんなものに接し続けていれば、そのうちに体の芯から硬直が始まり、五分もしないうちに手も足も頭も全て縮小しながら芯と同化し、人が好奇心を抱くような石像に生まれ変われることもなく、道端に転がる石ころと成り果てていくだろう。しかしながら、空気に触れるこの瞬間も、同じような痛痒つうようが全身に襲い掛かる。そうなれば次は、大方街中に飛び散る、いらなくなったチラシの紙などが僕の宿主となるだろう。石と紙ならば、包み込める優位性が俗界に浸透している後者の方がまだ享受に値するが、現実の宿主はこの器から永遠に逃れられないため、硬直の試練を受け入れることを決めた。つまり、自転車を降りて手で押し、トボトボと時間をやり過ごすより、その試練のサドルにまたがり、動力を用いてさっさと帰路に就こうという結論に至った。それがあくまでも、曲がりなりにも喪失の苦汁を味わった、片生かたおい男の晴れ晴れしい往生際といえる。

 交差点で信号に引っ掛かる。それと同時にサドルの冷たさに耐えられなくなり、自転車から降りた。両手はそのまま左右に伸びたハンドルを握り、程々の重力を何とか支えている。

 しかしこの横断歩道を渡れば、煩わしい車両の雑踏から抜け、閑静な住宅街の小路へと続き、我が家の気配も漂ってくる。だからといって平穏を取り戻せるわけではないし、はやる何かに気を紛らわせられるわけでもない。登山家が駆り立てられるまでもなく山岳に立ち向かうように、ただそこに家があるから、ただ本能に従って帰るだけだ。

 それは、帰宅に限った話ではない。僕の人生の過程は、全てこの無味乾燥に支配されている。ただ家があるから帰るように、ただ講義があるから大学へ行き、ただシフトがあるから職場へ行き、ただお腹が空くから飯を食べ、ただ眠くなるから睡眠を取り、ただむなしくなるから、より虚しさを捗らせる行為に没頭する。その合間を縫って躍らせる心身はなく、躍らせる相手もなく、僕の周りにいる数少ない人間たちにも、似たような無味を体現させている。

 そうか。だから彼女は、僕の仮面に気付いたのか。

 僕は仮面以外、何一つまとっていない裸同然の人間だった。それは自分でもわかっているし、自分でなくても容易に見透かせる裸同然の本性だった。何が彼女の中の魅力を形作っているかはわからないが、いくら歪んだ習癖に侵されていたとしても、無に惹かれる衝動などありはしない。物事には全て理由がある。僕の桃源郷の中枢には無味があり、それを癒してくれる造詣深い淑女がいる。同じように、彼女の楽園には狼がいて、少女の皮を剥ごうと決めたとき、背中に乗せて下界へと連れ出してくれる。

 その狼に、僕が選ばれることはない。二つの世界を隔てている垣根を壊し、彼女をもはや行く当てのない下界へと連れ去っていく覚悟を、それこそが彼女を惹きつける何よりの答えであることを、僕は背中に乗せたまま、桃源郷の頂上に閉じ籠っている。その一方で、須藤は堂々と楽園の門を叩き、奴隷でいいから自分をその花の香りに包ませてくれと、欲望を丸裸に彼女に迫っている。醜悪も卑劣も彼女に提示し、むしろ、綻びが出るギリギリで甘い言葉にすり替え、彼女が自分の中の本当の魅力に気付く前に、自分が求められているという清らかな承認欲を逆手に取られ、知らず知らずのうちに淫靡いんびの虜になっている。

 いや、それも違う。須藤は内心ではそのような姦計かんけいを膨らませているに違いないが、彼が起こしたアクションは、あの視線一つだけだった。その意図が彼女に伝わり尽くし、そうして承認欲を満たしてしまったのなら話は別だが、彼女が須藤に施したものは、ただの心柄に過ぎない。山岸さんが僕にも優しくしてくれるように、彼女も人を選ばず、自らの清廉さを全うしているだけだ。その「人」の中に、僕は含まれていないだけだ。

 僕が人にも獣にもなり切れない、道端に転がり街中を飛び散る、中途半端な肉塊だったために──

「……ぅちさん!」

 歩行者用の信号が青に変わった瞬間、どこかから、何かが聞こえた。誰かの名前を呼ぶ、いつかの女の声だった。

「橋内さん!」

 なぜ、その声が聞こえる? なぜ、僕の名前を呼んでいる?

 なぜ、僕はその声に、酷く怯えている?

「よかった! やっぱりこの交差点だったんですね!」

 渡ることを許された横断歩道を前に動けなくなった僕のかたわらに、彼女の姿がよみがえる。

「あの……、その……、今日一日、本当に、すみませんでした! 橋内さんを困らせるようなこと、いっぱいしてしまって……」

 僕に新たな世界を見せてくれた、朝の陽ざしが甦る。

「それと、あのとき訊けなかったこと、今なら思い切って──」

 真珠色の七分袖のプルオーバーシャツに、紺のワイドレッグパンツ。

 肩まで伸びたロングヘアーに、人間味に溢れたその相貌。

 この道すがらでは、この外界では、彼女はどこにでもいる何でもない少女だった。

隆也たかやくん、ですよね……?」

 だからこそだ。だからこそ、僕は彼女にほのおを奪われた。

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