5-①
5-①
初めてだったかもしれない。ああやって、異性から明確な敵意を向けられたことは。
彼女は気付いていたのだ、僕らの少女に対する醜悪な邪心を。また同時に、それを隠して潔白な味方になり得ようとしている、
だが冷静に考えれば、それは当然のことなのだ。彼女のような少女が受ける成人男性の
彼女は去った。自らの誇りを守るために、狼共に爪を立てて、自分の居場所に箔を付けた。与えられた名前と心柄を全うし、自分の生き方を肯定しながら、生涯の歩を進める覚悟を
「関根ちゃん、声も結構可愛いな」
耳を疑った。帰りがけにレジで須藤に呼び止められ、一連の流れを悟った僕は、思わず声を失った。
「何お前。もしかして俺が関根ちゃんに挨拶されたこと、嫉妬してんの?」
つまり、そういうことだった。
なぜだ。なぜ彼女は、こいつを懐柔しているのだ。僕には爪を立て、真っ向から歯向かってきたのに、こいつの頭を撫でてやっているのだ。
考えられる原因は一つしかない。彼女は、仮面が嫌いなのだ。
表層で紳士を飾り、その陰に誠実さを服従させる中途半端な獣より、全身に
しかし、勘違いしてはならない。この男は決して、化物でも大賊でもない。確かに僕は小心者で、獣の称号など箸にも棒にも掛からぬ普通以下の人間であるが、この男もまた、彼女の前ではその卑劣さを隠し、天から赦しを得た聖者を装う俗人に過ぎないのだ。彼女を満たすことはおろか、その征服欲だけを腹中で膨大させ、おそらく夜分の僕と同じように、彼女の名誉を秘密裡に
「……お先に失礼します」
「お、おい」
振り返らなくても、須藤が勝ち誇った顔をしていることがわかる。その勝ち誇った顔を構築した一番の要因が今の僕の行動であることも、嫌になるぐらいわかる。その心中を察せられて、人生で初めてと言っていい異性関係での優越感をこの男に植え付けたことも、今ここで大通りに飛び出しても悔いは残らないくらい、心髄に染み込んでいる。
自転車のペダルが重い。サドルは同級生の憂さ晴らしに付き合わされているいじめられっ子の座る学校の椅子のように、冷たく硬い。こんなものに接し続けていれば、そのうちに体の芯から硬直が始まり、五分もしないうちに手も足も頭も全て縮小しながら芯と同化し、人が好奇心を抱くような石像に生まれ変われることもなく、道端に転がる石ころと成り果てていくだろう。しかしながら、空気に触れるこの瞬間も、同じような
交差点で信号に引っ掛かる。それと同時にサドルの冷たさに耐えられなくなり、自転車から降りた。両手はそのまま左右に伸びたハンドルを握り、程々の重力を何とか支えている。
しかしこの横断歩道を渡れば、煩わしい車両の雑踏から抜け、閑静な住宅街の小路へと続き、我が家の気配も漂ってくる。だからといって平穏を取り戻せるわけではないし、
それは、帰宅に限った話ではない。僕の人生の過程は、全てこの無味乾燥に支配されている。ただ家があるから帰るように、ただ講義があるから大学へ行き、ただシフトがあるから職場へ行き、ただお腹が空くから飯を食べ、ただ眠くなるから睡眠を取り、ただ
そうか。だから彼女は、僕の仮面に気付いたのか。
僕は仮面以外、何一つ
その狼に、僕が選ばれることはない。二つの世界を隔てている垣根を壊し、彼女をもはや行く当てのない下界へと連れ去っていく覚悟を、それこそが彼女を惹きつける何よりの答えであることを、僕は背中に乗せたまま、桃源郷の頂上に閉じ籠っている。その一方で、須藤は堂々と楽園の門を叩き、奴隷でいいから自分をその花の香りに包ませてくれと、欲望を丸裸に彼女に迫っている。醜悪も卑劣も彼女に提示し、むしろ、綻びが出るギリギリで甘い言葉にすり替え、彼女が自分の中の本当の魅力に気付く前に、自分が求められているという清らかな承認欲を逆手に取られ、知らず知らずのうちに
いや、それも違う。須藤は内心ではそのような
僕が人にも獣にもなり切れない、道端に転がり街中を飛び散る、中途半端な肉塊だったために──
「……ぅちさん!」
歩行者用の信号が青に変わった瞬間、どこかから、何かが聞こえた。誰かの名前を呼ぶ、いつかの女の声だった。
「橋内さん!」
なぜ、その声が聞こえる? なぜ、僕の名前を呼んでいる?
なぜ、僕はその声に、酷く怯えている?
「よかった! やっぱりこの交差点だったんですね!」
渡ることを許された横断歩道を前に動けなくなった僕の
「あの……、その……、今日一日、本当に、すみませんでした! 橋内さんを困らせるようなこと、いっぱいしてしまって……」
僕に新たな世界を見せてくれた、朝の陽ざしが甦る。
「それと、あのとき訊けなかったこと、今なら思い切って──」
真珠色の七分袖のプルオーバーシャツに、紺のワイドレッグパンツ。
肩まで伸びたロングヘアーに、人間味に溢れたその相貌。
この道すがらでは、この外界では、彼女はどこにでもいる何でもない少女だった。
「
だからこそだ。だからこそ、僕は彼女に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます