4-➁

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「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 会計を終えた客を見送り、相手の姿を一瞥いちべつする度に、店内の全貌が目に入ってくる。

「あのすみません。この商品ってどこに入れればいいですかね?」

「それはこっちだねー」

 店長の指差した場所の棚に、彼女が商品を入れる。その度に商品が快い目の付き方をするようにと、店長が一回一回手解きする。俗に言うフェイスアップという手法だ。

「関根さん、ホント一つ一つ丁寧にしてくれるよねー。家でも家事とかやってたりするの?」

「そうですね。わりとやってる方だと思います」

「へー、そうなんだー。なら安心だね」

「ただ、接客の方ができるか心配で……」

「え? 全然大丈夫だと思うよ? 今のまんまの関根さん出してくれたら、お客さん満足してくれると思うから」

「そう、ですかね……?」

 伏せがちな声と共に、伏せがちな表情を浮かべているかどうかは、ここから目で追うことはできない。その発信と反応を取って代わりたいという衝動を抑えつつ、視線を落とし、レジ周りの整理に移行する装いを整える。

「あの、これは……?」

「あ、それ新商品だから、レジの近くにあると思うよー」

「そうなんですね! わかりました!」

「わからなかったら橋内くんにいてみてー」

「はい! ありがとうございます!」

 彼女が晴れてこの店の仲間入りを果たし、最初に与えられたミッションは、入荷した際に入り切らなかった商品を売り場に品出しするという、商品と店内構造を同時に覚えながら、接客という負担がなく、尚且つ店員同士がコミュニケーションを取りやすい、だからこそ月日を経た人間はあまりやりたがらない、初手としては最適な仕事だった。もし僕が店長の立場であったら、迷わずこのミッションを彼女と共有するだろう。そうして可能な限りの恩を重ね、その代償に楽園の果実をたしなみながら、彼女にとって唯一無二の存在に徹することに躍起になるだろう。

「あの、橋内さん、今ちょっといいですか……?」

 まさかと思ったが、彼女は手に新商品のポテトチップスを持ちながら、レジの台を挟んで僕の目の前に立っている。

「これの棚って、どこだかわかります……?」

 その新商品は今朝、僕が店長に訊ねたものと同じものであるが、あれに関してはただの口実であるとはっきり断言できる。この新商品はそれほど、狭い店内も合わさって、著しい存在感を放っていた。最初に僕がこの店に入った際に気付いた変化とは、新しい風が吹く前兆ではなく、ありふれた消費社会の漸進ぜんしんに過ぎない。

「えっと、ちょうどその背中のところだと思うけど」

「え……!?」

 その指摘を受け、すぐさま振り返る。代わりに僕の前に向けられた背中が、満面の笑みを発していた。

「わ!? ホントだ! どうして私、気付かなかったんだろう……?」

 独り言のつもりなのだろうが、僕はおろか、おそらく店長の耳にも届くくらい、はっきりとした声だった。

「あ……、えっと……、ごめんなさい、余計な手間かけさせちゃって」

「いや、全然大丈夫だけど……」

 狙ってやっている風には見えない。というより、狙ってやっているわけがない。

 今日一日を店長と過ごすことを定められたからといって、初めての勤務での話し相手が制限されているからといって、そのなぐさめを、僕に求めたなんてことはあり得ない。新商品の置き場所を知っているのに知らないフリをしたり、その上で注意を惹く個性を装うことなど、彼女にできるはずがないし、何より、僕に向けるはずがない。

「わからないことあったら、何でも訊いて大丈夫だよ。店長も言ってたけど、全然何度でも教えるから」

 一応、冗談のつもりだった。店長が僕を筆頭とする冴えない男性アルバイトたちの彼女に対する姿勢を見抜き、そうやって発せられた若干の嘲弄ちょうろうを含んだ言い回しに、えて全面的に乗っかってみた。言い換えれば、彼女の謙虚さに対抗する自虐が、冗談の根幹のつもりだった。

 しかし、まさかこれが退屈な冗談の一種であるという趣旨が伝わり、自分がそういう要素を備えた人間だと認知されるとは思えないので、ただ単に厚意を顕示した上で、心中では偶然が仕掛けた彼女の個性への問いに対抗するために、自分自身も曖昧な善後策を施したというのが結論である。

「はい! ありがとうございます!」

 この正真正銘の笑顔を見れば、如何いかに彼女をうかがうことが無益だということも、うに結論付けられている。

「あ、あの……」

 彼女の声は、まだそこにある。

「もう一つだけ、お訊きしたいことが……」

 彼女との機会は、まだここにある。

「い、いえ! ごめんなさい! 大丈夫です! 失礼しました!」

 だが、それははかなく散っていった。そのまま、彼女の背中は遠ざかる。

 それを追求できるほど、僕には勇気も希望もない。

「新商品、結構わかりやすい場所にあったでしょ?」

 彼女が店長の元に戻る。僕との時間の分を取り返すかのように、早速柔らかい口調で会話をけしかけている。

「はい! なんで気付かなかったんだってくらいわかりやすかったです!」

「ね。自分でも言ってたけど」

「え……? どういうことですか……?」

 彼女の手が止まった様子を盗み見る。そのまま嗾け続ければ、鼓動すら止めてしまうことも可能だろう。

「でっかい独り言だったよー? 『なんで私気付かなかったの!?』みたいな感じで」

「え!? ホントですか!?」

 その亡骸なきがらを想像する。鼓動は止まっても、彼女の魂は足の指から髪の毛一本まで、しっかりと根を張っていた。この世に生を受けた歓びを忘れないように、必死に生き長らえようとしていた。

「っていうことは、店長にも聞こえるくらい大きい声……」

 しかし誰かがその亡骸に触れた瞬間、けがれのない身体を恋情の牙から護ろうとした瞬間、彼女の手足は途端に強張り始め、胸は柔らかな樹の皮に包まれていった。髪の毛は木の葉に換わり、両の腕は枝となり、顔はこずえとなっていった。根を張っていた魂の役割を足が引継ぎ、その対象は全身から地面へと移った。そうして元の様子は美しさを除いて何一つ残らず、妖精の少女は月桂樹へと姿を変えた。

「うん。はっきり聞こえたね」

「うわー、ホントに恥ずかしい……」

 しかし、彼女は今でもそこにいる。いにしえの神話のように、穢された身体を永眠で清めることなどない。生の姿のまま、生きた人間のやり取りの渦の中に身を置いている。そうした人の輪の司るえにしによって、純情は成熟へと翼を広げる。

「大丈夫大丈夫! お客さん誰もいなかったし、聞いてたの僕と橋内くんだけだから」

「それが恥ずかしいんですよ!」

 僕は、その輪に入れない。その輪で繰り広げられる宴を、たのしむことはできない。生きた彼女を虜にできる要素など、僕には何一つない。

 それでも彼女が僕のほのおを灯してくれるのだとしたら、それは彼女が興味本位で僕の桃源郷まで足を運ぶか、それか、二つの世界の狭間にある垣根が壊され、決して相容ってはならないものが一つになってしまうという、現世の終焉を意味している。


「お疲れい」

「あ、お疲れ様です」

 太陽はまだまだ夕陽の様相を呈していなかったが、時計の針は何事もなく進み、社会人には残酷な現実が待ち受けている。即ち日曜が終わりに近づき、僕のシフトも終わりを迎えたということである。

「なあなあ、あの、誰?」

 日曜の夕勤のメンバーは、早速紅一点に色めき立っている須藤と、既に黙々とトイレ掃除を行なっている中国人男性だった。その色めき立ちは、もはや僕の退勤の足を止めるほど膨張している。

「ああ、新しく入った娘みたいです。一応今日かららしくて」

「みたいです、って。お前、今日一日一緒に入ってたんだろ?」

「まあそうですけど。でも、ほとんど店長と一緒に行動してたんで、俺ほとんど話してないっすよ」

 あの後も結局、掃除やら陳列やら揚げ物作りやら、レジとは選をことにした作業がことごとく抽出され、彼女の一日は終わった。同時に僕の一日は、レジ下で足を括り付けられたように、何の遷移もない無粋なものだった。

「で、名前なんていうの?」

「えーと確か、関根っていうのは憶えてるんですけど……、名前の方は何だったかな……」

「ふーん、関根ちゃんね」

 須藤はその視線を、今は一人で商品の消費期限チェックを行なっている彼女に向ける。すると彼女も何かを感じたか、その視線をこちらに向けたが、すぐに慌てるように視線を逸らし、先ほどよりも覚束おぼつかない手付きで作業に戻った。

「へえ、まあまあ可愛いじゃん」

 彼女が敢えて我々の方を見ないようにしているのをいいことに、須藤はその視線を凝視に発達させた。

「てか、めっちゃ若くね? あれ、お前より年下だろ?」

 早くこの場から離れ、須藤と共に彼女を品定めしているような状態から脱したかったが、彼の興味津々は、歴代のどの女性客に向けられたものよりもはなはだしいものだった。

「知らないっすけど、たぶんそうじゃないっすか?」

「ってことは女子高生か。どおりで処女っぽいわけだ」

 視線だけでもはずかしめようとしている魂胆が見え見えだったが、直接耳に届けば失神させてしまうような言葉を、不敵な笑みに同化させている。これがこの男の品性の全てどころか一部であるが、彼の好き放題に表面的には抵抗もなく付き合っている僕も、彼女を辱めている下衆げすに他ならない。彼女から見れば、僕かて立派な社会不適合者だろう。

「それじゃ時間だから、そろそろ上がろっか」

「……あ、はい!」

 バックヤードから出てきた店長に声をかけられ、反応が若干遅れながらも、彼女は今日一日の業務を終える許しを得た。そのまま店長についていき、バックヤードのドアを潜る。

「いいねー、これから枕営業する新人アイドルみたいな顔がたまらないね」

 そう言う自分は悪徳プロデューサーなどとは比べ物にならない卑劣な顔をしていたが、案の定口に出せず、彼女の花弁はなびらが一枚ずつ剥がされていくことに身を任せる。

「……俺も時間なんで、もう上がります」

 最後に精一杯の反撃を試みるも、彼の淫猥いんわい創造を阻害するまでには至らなかった。おそらく彼女だけではなく、彼もまた僕を自分と同列の存在であるという認識を抱いているに違いない。そういう土壌を、今までの彼との関係で築き上げてきたのは僕自身なのだ。

「これから、面白くなりそうだな」

 去り際に届いた須藤の言葉は、今までの罵詈雑言よりかは説得力があった。それに関しては、二人の利害は一致している。

「お疲れ様です」

 ドアを開けてバックヤードに入ると、いつもの定位置ならぬ店長席に座る店長と、カーテンの閉じられた更衣室が目に入った。中からは布が擦れる音と、リュックか何かのチャックを開閉する音がした。

「お、お疲れー。今日一人で色々任せちゃってごめんね」

 かけられた店長の声に応答し、並行して自分のタイムカードの退勤を打つ。盗み目に彼女のものを見てみると、既に十七時一分と刻まれたそれが他のものと一緒に混じっていた。当然、今日以外の日付は百合ゆりのように真っ白だった。

「あ、お疲れ様です!」

 カーテンの開く音と共に、彼女が更衣室から出てきた。真珠色の七分袖のプルオーバーシャツに、紺のワイドレッグパンツを対照させた彼女の出で立ちは、街では森羅万象の雲に隠れてしまっても、この空間ではやはり朝の陽ざしをまとっていた。夜に生きながら夜を癒す月や星にすら相手にされない、僕のような下等生物に自然の在り処を指し示すように。

「すみません、お先に失礼します! 今日一日、ありがとうございました!」

 両手を股の前で合わせ、四十五度を超えるお辞儀を我々に見せつける。肩まで伸びたロングヘアーが、どことなく少女から恐れを取り除いている。

「うん、お疲れ。すごく助かったよ。また次もよろしくね」

「はい! お願いします!」

 そのまま店長の前を会釈しながら通り過ぎ、僕の前を通り過ぎ、ドアの付近に立ち止まった。

「お疲れ様でした!」

 そうしてドアは開かれ、彼女は去っていった。一つだけ、大きな置き土産を残して。

「最初会ったときはどうなることかって思ったけど、まさかここまでいい娘だとはなあ」

 いや、彼女が残したものは一つではない。そしてそれは、置き土産などではない。

「橋内くんも一回会ってたとはいえ、正直ビックリしたでしょ?」

「え、ええ、まあ……」

 彼女は、僕から奪っていったのだ。

 僕が大切に手を添えてきた置き土産を。僕の陽と陰を司る、灯りつつあった大切なほのおを。

「ん? どうかした?」

「い、いえ、別に」

 彼女と初めて会ったあの日、僕の心臓にあれほどの荒波を起こした彼女の別れ際の挨拶が、この一時では完全になかったことにされた。それどころか、彼女が着替え終えてから去っていくまでの間、一度も僕に視線を向けることはなかった。

 まるで、先ほど浴びた羞恥の視線の、報復を突き付けるかのように。

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