4-①

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 あの荒波の正体はなんだったのだろう。あの薫風くんぷうに抱いた無垢な印象は、いったい僕の何を動かしたのだろう。あの日現れたあの少女は、僕にどんな世界を見せようとしたのだろう。

 それは当然、今まで出会ったことのない瞬間、情動、狂躁きょうそうである。夜を越えるための伴侶とは一線を画せば、山岸さんの安らぎとも毛色の異なる、うしおに熱気と冷気を授ける、感情の起伏だった。故に、彼女にほのおを託しているわけではない。彼女の存在に、脳内が支配されているわけでもない。今でも僕の桃源郷では、淑女と俗女が同じ仙境で筆を下ろす手筈を整えている。

 その一方で、もしかしたら僕は、もう一つの世界の扉があることを知ってしまったのかもしれない。その扉の向こうには、淑女や俗女たちの一輪の明鏡止水と拮抗するように、少女たちの瑞々みずみずしい花紅柳緑かこうりゅうりょくが、両手にたくさんの花を抱えて待ち受けている。扉を潜り抜けて楽園を飛び出すことを、幸福と享楽への花道であると、数多あまたの少女は夢に見ている。楽園の温もりが地下の冷たさに換わるその刹那せつなまで、手綱を引いているのは醜い狼であると知らぬまま。


 彼女と出会ってから一週間が経ち、さらにはそれから二日が経ち、日曜の日が僕らを迎えた。もちろん僕はその休日を毎週アルバイトにてているわけだが、既に述べた通り、その相手をしてくれるのは店長か山岸さんだった。今日は確か店長の週だったので、朝の九時から十七時までのシフトを、一年の付き合いが慣れにしかなり得ない相手と過ごすことになる。日曜の店長は平日の事務仕事がないため、一見普段のほぼワンオペ体制よりは楽になると期待したのだが、社会人は楽の取り方を研修の最初に教わるのかと勘繰るほど、日曜の店長は売り場に姿を現さなかった。本人からしたら休日を犠牲にしている報いのつもりなのかもしれないが、はっきり言って僕にとってはただの迷惑である。彼にとっては生活を守る代償であっても、僕にとっては普段の一日に変わりはない。同じ日曜日のシフトに入っている以上、そこに労力の差異の根拠は生まれないはずだ。なのになぜ、彼は平気な顔で売り場に一人で立つ僕を高見で見物しているのか。それが日曜の砦を守る数少ない雑兵ぞうひょうに対する、最大級の侮辱だとは思わないのだろうか。その雑兵が反抗の意思のない奴隷同然であると、見越した上での戦略を練っているのだろうか。だとしたら、軍配は完全に店長に上がる。このコンビニの客足が平均よりも寂れている以上、売り場に立つ人員は一人で充分なのは事実だ。加えて、その環境に浸り、身動きを取る必要性を感じていない僕の腹心も事実である。今日もまた、最低限の労力が賃金に姿を変える錬金術を、この目で見届けることになるだろう。或いはシフトの相手が須藤であれば、錬金術に味が加わるおまけ付きなのだが。

 そんなことを思いながら八時五十二分に店内に入ると、店内の変化に早速気が付いた。それからバックヤードのドアを開けると、そこにいたのは店長だけではなかった。

「あ! おはようございます!」

 蓊然こんもりとした空間に日向が差し込み、楽園から贈られた花々が色彩を放った。

「おはよう橋内くん。前に面接した関根さん、今日から入ることになったからよろしくね」

「関根花音かのんです! よろしくお願いします!」

 初めてだった。このドアを開けた瞬間、血と骨が廻り出すことなど。

「橋内です。……よろしくお願いします」

「お願いします! 橋内さん!」

 初めてだった。僕の名前が、こんなに光を浴びたことなど。

「それじゃ、制服はそれでオッケーだから、次は出勤と退勤教えるね。あ、橋内くん、申し訳ないけど、今日関根さんに色々教えなきゃだから、基本的に店内一人で任せられる?」

「あ、はい、大丈夫です」

「ありがと。助かるよ」

「ありがとうございます! ご迷惑お掛けして申し訳ありません!」

 そのまま店長は彼女にタイムカードの書き方や入れ方を教え、僕は更衣室で制服に着替え、売り場へ出る準備をしていた。

 何の変わりもない、何の変哲もない日曜日が始まるはずだった。いつものように店長は売り場には立たず、僕が一人でレジやレジ周りを整理して、夕陽がさんざめく時を待つはずだった。

「あ、じゃあ僕、もう行きますね」

「うん。今日も一日よろしくー」

 今、僕の後ろには、朝の陽ざしが昇っている。ギラギラと輝こうとしている夕陽を前に、控えめながらも、その存在こそが太陽の真価であると証明するように、陽の光が花紅柳緑を映し出している。

「出勤するときはカードをここに入れて──」

 振り返ることは許されない。ゆっくりと閉まるドアを止めることは、売り場に立つことを定められた者の権利ではない。いくら彼女の面接がたまたま僕のシフトの日で、彼女の初出勤もが僕のシフトの日であっても、これは因縁でも輪廻りんねでも何でもない。現に僕らは今、日常で巡り会う機会など訪れないように、別々の定めを与えられている。「僕ら」などという括りすら愚かしいほど、期待を投げかけることは罪業ざいごう以外の何物でもない。

「あの、すいません店長。新商品の置き場所ってどこでしたっけ?」

「あ、それはね──」

 そうして、罪は犯された。

 陽の光を全身に浴びるという、卑しくもとどめることの不可能な浅はかな願望が。

「了解です。ありがとうございます」

「はいよー。お待たせ関根さん、じゃあ次は退勤ね」

 彼女の両手にはペンとメモが握られている。出勤や退勤の方法など、メモを取る必要のない事柄だという接触の時宜を模索して、心の奥に押し込める。

「わかりました! ありがとうございます!」

「忘れちゃったら僕でも橋内くんでも、何回でも訊いていいからね。たぶん、何回でも教えてくれると思うから」

 そう、これは紛れもない願望なのだ。

 彼女の存在を陽の光として浴びることも、彼女に先輩として敬われることも、ましてや、彼女に何かを教え、助け、感謝の念を抱かせることも、全て、もはや紛れもない願望になってしまった。彼女の応答一つ一つが耳を潤し、動作一つ一つが目を綻ばせることも、今や抑えることのできない反射神経と化している。

「どうしたの? 橋内くん」

 それでも、僕には桃源郷がある。

 楽園を侵害することが最もゆるされざる罪だと自覚している僕は、悠久の美とあおほのおを知っている。それを創り出せる桃源郷の住人たちの、俗世間ではしいたげられている婀娜あだを愛している。どこにでもある何でもない石塊いしくれの内に、珠玉しゅぎょくきらめきが眠っていることを誰よりも心得ている。この二つの世界の狭間に、頑丈で強固な垣根を築いている。

 なにせ今までの僕は、それだけがともしびだったのだから。

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