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 比翼連理。

 これはどうやら男女の情愛の深くむつまじいことをたとえた言葉で、円満な夫婦仲を表す言葉としても用いられるようだ。「比翼」というのは比翼の鳥のことで、雌雄それぞれ目と翼が一つずつで、常に一体となって飛ぶという想像上の鳥のことを指し、「連理」というのは連理の枝のことで、根元は別々の二本の木の枝や幹が途中でくっついて、木理が連なったものを指すという。それらを男女の関係に当てめ、離れがたく仲睦まじいことを喩えているのが、この四字熟語の意味合いらしい。

 僕にこの言葉をもたらしたあの女性も匂わせていたが、正直なところ、山岸さんが男性と深く睦み合っている様子は、たとえ相手が夫であっても想像し難かった。彼女が深く愛されているのなら、なぜ彼女にはあのような物腰が宿っているのか。彼女の日常が深く満たされているのなら、なぜ僕にはそれを見せようとせずに、僕にだけそれを与えてくれるのか。彼女が幸せを深く身にまとっているのなら、なぜ僕は、彼女の弱さを知っているのか。

 答えはやはり、僕が女性を知らないことからは逃れられないだろう。山岸文子という人物の本質を追及しても、山岸文子という存在の意味を僕に置き換えても、僕の異性関係との距離が縮まる気配は生じない。どんな夜でも、僕の夜を満たしてくれる女性に生身はない。あるのは魂と血肉を売った、酔いどれの本能だけだ。

 こんなときに目の前に現れたこの四字熟語と、僕はどうやって付き合えばいいだろう。誰かと重ね合わせる翼も、くっつけ合う枝も持たない僕は、どのようにして情愛の意味を量ることができるだろう。それでもなお、頭の中に刻まれて消えないこの言葉と、ちゃんと向き合うことができるだろうか。本来の意味を、心と体で理解することができるだろうか。

 その日が来れば、彼女の本質に、山岸文子という女性の存在に、区切りをつけられることだけは確かだ。


 翌週に突入し、金曜日のシフトに入る日々がいよいよやって来た。

 暦は卯月の半ばで滞るものの、温暖な日和が増えてくるこうを迎えた。家のそばでは緑が舞い、近くの公園では桃や紫、赤や黄色が咲き誇る。その中にあおを落とし込むと、途端に色彩は四季を思い出し、過ぎ去った冬の寒さと、これから来る夏の暑さを目の前に放り込む。人はそうやって、わずかな時間で、地球の軌道を胸の内で清算する。

「今日もお疲れ様。じゃあ、お先に失礼するね」

 木曜日の定刻が訪れ、山岸さんが先に帰っていく。約三分間待たされ、須藤がレジへとやって来る。今日もまた、よくわからない主張の文字が刻まれたTシャツを支給された制服の下に仕込み、隠し切れない猫背姿で悠々と現れた。猫背がどこの筋肉に負荷を与えているのかはわからないが、あの体型でなされる彼のそれに若干の同情を禁じ得ないのは、果たして他人から認められるほどの憐憫れんびんに値するだろうか。

 バックヤードに戻ると、夕勤に入っているはずの店長は相も変わらず、表を須藤一人に任せて、裏で別の作業に没頭している。そのタイミングで山岸さんの着替えが終わり、僕たち二人に暇乞いを施して、比翼連理の在り処に就いた。

 それと同時に、店長は中断した作業に区切りをつけた。

「明日さ、実は面接の子来るんだよねー」

「え? そうなんですか?」

 その言葉に、久しく風化していた好奇心が反応した。

「どんな感じの人なんですか?」

「それがさ、電話だけだからまだよくわかんないんだよねー」

「え、そんなんで面接取り付けたんですか?」

「こっちも状況が状況だからね。名前だけ訊いて、後は日時だけ決めて即行で取り付けたよ」

「へえ」

 しかし、ブランクはなかなか埋まらない。すぐに興味は廃れ、今ではもう空中に楼閣ろうかくしている。なにせ、先の二ヵ月で辞めた同じ学年の大学生も、僕の目の前で面接を受け、ひいては疾風はやてのように去っていったのだった。

「だからさ、たぶん十七時半くらいに来ると思うから、来たら裏まで案内してあげて」

「わかりました」

 波は平穏を保ち、風は丘を撫で下ろす。その情景に、一切の不文律は存在しない。

「たぶん、女の子だったと思う」

 カモメが空を跳ね、羊が平野を駆け巡る。

 ただそのときは、目を瞑ることだけに没頭していた。


 翌日、ほぼ定刻通りの十六時五十九分にレジに入り、夕勤のシフトが始まった。十七時までのシフトの二人が上がり、一人取り残される。バックヤードでは今頃、夕勤のシフトに入っているが相変わらず売り場には立たない店長が、二人に何か頼み事をしているのかもしれない。そんなことを考えながら気を紛らわしつつ、単純な思考回路が生んだ浅はかな期待を胸に押し込み、十七時三十分を待った。

 正直、その期待は、募らせれば募らせるほど呆気なく、人の世に蔓延はびこる俗気にしかならないのは目に見えていた。確かに店長は女の子と言った。年齢は訊いていなくとも、声や話し方を聞けば、さすがに十歳二十歳程度の誤差は埋められるだろう。いくら若作りに上限を引いても、「女の子」の冠は山岸さんが関の山だ。それならそれでいい。豊かな人生経験やその裏側にある羞恥のあでやかさは、僕の想像力に新たな矢を授ける源になってくれるに違いない。

 逆に言えば、例えばその女性が僕と同年代だったとする。だったとしたら、うら若き女子なるものが、この職場に魅力を覚えるだろうか。山岸さんですら「女の子」の器に入るこの職場で、若気を埋めようと思うだろうか。その若気の相手が僕と、強いて言えば須藤のみだと知ったとき、どれだけ短い歳月であっても、愛想の尽きることを止められる手段はないのではないだろうか。

 だとしたらやはり、「女の子」は僕より年上の、あわよくば男女の契りに精通した、もしくは幾許いくばくかの抵抗がありながら、淡い願望を小さな胸に秘める、二十代後半から三十代前半の女性が理想であろう。どうせこの場で僕の願望が果たされることはない。それならば、そういう女性を間近で目に焼き付け、人生経験の糧にするのが現実的な理想である。その理想が、現実の人生経験とは著しく乖離かいりしていたとしても。

 そうしていると、制服姿の女子高生の後に続いて、一人の女性が店内に入ってきた。瑠璃るり色のカーディガンを羽織った、ちょうど三十歳くらいの小柄な女性だった。首から肩くらいのセミロングヘアーで、茶色の眼鏡をかけている。レンズの奥の快活な瞳と、安定感のある整った鼻口を備えるその風貌は、世間的には山岸さんを上回る評価が付けられるかもしれない。時刻は十七時二十五分。五分前という余裕を持つにはベストな到着時刻と、店内に入りがてら僕を一瞥いちべつした所作は、女性にその趣旨を話しかけられるイメージを持つには充分だった。

 しかし行動を注視していても、女性が一客の域を脱する所作を見せることはなかった。おにぎりやお弁当のコーナーを物色し、何品かを手に取り、同時にスイーツのコーナーでも物色と拾得を繰り返し、そのまま僕のレジまで来て、会計を済ませて何事もなく帰っていった。立ち去る背中に躊躇ちゅうちょは見えない。手にした品物に遠慮は見えない。答えは一つだけ、かの女性は客としてこの店に訪れ、客としてこの店を後にした。その首尾一貫に、付け入る隙はもちろんない。

 時刻は十七時二十八分。別にたかがアルバイトの面接に厳粛なタイムリミットを適用させるわけではないが、面接をすっぽかされる店長の姿も実際に何度も見てきたので、今ではそちらの結末が脳内を占めていることは言うまでもない。こんなことなら、「女の子」なんて言葉は聞かない方がよかった。余計な想像力を駆り立てて、果てと終わりしか行く末のない年上の女性への願望を募らせることはなかった。何の罪もない一般女性を、願望の渦に引き入れることもなかった。その過程で、心の内の内で、山岸さんを侮辱することもなかった。

「あの……」

 先ほどの女性が去り、人気ひとけのなくなったレジの横に、いつの間にか、女性の前に店に入ってきた女子高生がたたずんでいた。僕に対する恐れを隠し切れていないその俯き目が、小さな声と共に僕に向けられている。

「私、今日、面接の……、約束、させていただいている者なのですが……」

 「約束」という言葉が出るのに、少し間が空いた。おそらく、何の言葉を当てめればいいのかの判断に迷ったのだろう。

 とにかく今、僕の目の前には「女の子」がいる。この上なく「女の子」のイメージに合致した、制服をまとった少女が必死になって自分の存在を僕に示している。その白い制服の脇に葛藤の汗の跡を携え、緊張を勇気でなんとか押さえつけようとしながら、初対面の「男」相手に、自意識を保っている。もしここに立っているのが山岸さんであったなら、この少女はどれほど穏やかな心持で自分の存在を打ち明けることができただろう。もしかしたら、あの三十代の女性が店内を物色している最中に、意を決することができたかもしれない。それが不幸にも、相手が自分を食い物にしてきそうな冴えない年上の男だったがために、少女の純粋な精神は、熟成を前に懊悩おうのうと化した。

「……あ、はい。ちょっと、待っててくださいね」

 その一方で、この「女の子」の答えに、僕が衝撃を受けなかったはずはない。密かに描いていた理想の裏で、薄くではあるが同年代というイメージを持っていたことは事実だ。同時にそれが、付き合いという形に及ばなかったことも事実である。しかしそれが年下で、その上少女の看板を全面に引っ提げた子女であることは、全くもってイメージの外側にあった。

 それ故に、彼女との接し方がわからない。同級生でも年上でもないこの少女と、僕はどのように付き合えばいいのだろう。どのような存在として、目下もっかに据えればいいのだろう。

「……じゃあ、裏に案内するのでついてきてもらっていいですか?」

 店内に他の客がいないことを確認して、最低限の言葉で、最低限の任務を果たすことにした。

「あ……、はい! お願いします!」

 言葉の意味を即座には汲み取れない緊張状態なのは見て取れたが、その反動に眠る、彼女の少女らしい精気も垣間見えた。自分の存在が認められたという精神的支柱には、極限状態の警戒心をも打ち破る潜在力がある。

「店長ー、面接の子来ました」

 バックヤードのドアを開け、中にいる店長を呼ぶ。彼女は両手でスクールバッグをスカートの前で持ち、固い面持ちを崩せぬまま、僕らの様子をうかがっている。すぐ後ろに立つ彼女からは、今にも逃げ出してしまいそうな慌ただしい心臓の鼓動と、それを必死に抑える神経質な息遣いが聞こえる。

「お、ありがとー。それじゃ、どうぞ入ってー」

「あ、失礼します」

 そのまま僕がドアを抑え、彼女だけが中に入っていく。そのとき今日初めて、彼女の後ろ姿を見た。後ろに結んだ一房の髪が、控えめな素振りで左右に揺れている。

「あ、学校からそのまま来てくれたんだ」

「あ、はい! ……すみません、こんな格好で」

「ううん、全然大丈夫だよ。何ならシフトのときも来るときはそれで大丈夫だし」

 幸い店長の朗らかな話し口調は、彼女の緊張への何よりの有効打だったようだ。あれだけ伸び切っていた背筋が、みるみるうちに自然な装いへと落ち着いてきている。

「じゃあ、そこの椅子座って」

「はい! 失礼します!」

 山岸さんのハンカチが置かれていた、休憩用の机に二人で向かい合う。普段は物などが置かれていることの多い机の上は、この瞬間に備え綺麗に片付けられていた。

「それじゃ、僕はこれで失礼します」

「うん。ありがと」

 本音を言えば、休憩などにかこつけてその場に留まりたかったが、今の僕にはその権利も、はたまたその心中を悟られる肝っ玉もない。できるだけゆっくりドアを閉めることもなく、レジの方に戻ろうとした。

「あの!」

 制服の少女が、店長の許可もなく椅子から立ち上がった。その挙動に思わず彼女の方を振り返ると、彼女もこちらを見ていた。

「あの……、ありがとうございました!」

 何に対してかはわからない。なぜ今だったのかが語られることはない。

 ただ、彼女は勇気を振り絞り、同時におそらく僕に対して、感謝の言葉を述べている。

「え……? ああ、……こちらこそ」

 抑えた手を失ったドアが、僕の身体に寄りかかる。帰り道を閉ざされた胡乱うろんな魂が、唯一の禁じ手だった不自然を作り出す。彼女の魂はこの不自然の上に、どのように浮かび上がっただろうか。

 そのまま少しの間、閉じられたドアの前に佇んだ。彼女がその後どのようにして席に座り、どのような身の上を話し、どのような少女の反動を店長に見せつけるのか、想像することはできなかった。

 しかし、今までは想像の外にあった白い制服に守られた心と身体が、頭の中から消え去っていくことはなかった。


 それから約二十分後、バックヤードのドアが開き、彼女が中から出てきた。ドアを手で支えながら何度も頭を下げ、笑顔を綻ばせている。あの様子だと、緊張の糸は完全に真っ二つに切られたらしい。ちょうどそのとき、客がレジに来ていたため、僕は身動きが取れなかった。そのまま帰ってゆくのはやり切れないと思いながら、その感情に若干の抵抗を忍ばせながら、合間を縫って彼女の動向を窺っていた。

 すると彼女は、僕の視界から消えない範囲で、品物を物色している。品物を手に取るといったあからさまなことはしていないが、学校帰りの女子高生が一人の客としてコンビニを訪れているといった雰囲気を、自ら醸し出している。これを個人的に都合よく解釈すると、あたかもレジが空くのを見届けられる場所で、そのときを待っているように見えた。そうしてそのときが来たら、その空いたレジに向かい、意中の人物を訪ねるかのように。

「ありがとうございましたー」

 お釣りとレシートを渡し、買い物を終えた客がレジから去っていく。また店内には人がほとんどいなくなり、二種類の制服が各々の空気に触れている。

「あっ、」

 レジを整えて顔を上げると、彼女がこちらを見ていた。学校の紋章だけが縫い付けられた白いYシャツの上に、紺と緑のネクタイが対比を映し出す。同じく紺と緑が混ざったスカートは、膝をすっぽり覆い尽くしている。彼女と一緒に店内に入ってきた女性よりももう一回り小柄な、おそらく身長一五〇センチほどのその身体は、お世辞にも社会の波風にさらされてきたものには見えない。特別な境界線を引かれることもなく、狼に襲われることもなく、反抗もなく月日が流れていったその心身は、初めての波風にさぞ恐怖を感じたことだろう。

 彼女がゆっくりとこちらに近づいてくる。温まったはずの背筋をピンと伸ばし、最初ほどではないが、こちらにも充分伝わるぐらいの緊張を背負い直している。

「今日は、その、ありがとうございました!」

 どこで仕込まれたのかはわからないが、少なくとも九十度は曲がった彼女の背中は、両親以外の血を知らない華奢きゃしゃなものだった。しかしながらその背中が織り成す精悍せいかんなお辞儀は、自分自身の恐れをも振り払っていくような、清々しく快哉なものに違いなかった。

「いえいえ。面接、無事に終わった?」

「はい! とっても楽しかったです!」

「そっか。それはよかったね」

「はい!」

 いつの間にか、僕の口調からは敬語が消えていた。おまけに普段は意図的に避けている小話まで引き出されている。これもまた、彼女の持つ魔法なのだろうか。

「あ、ごめんね引き留めちゃって」

「いえいえ! ……久しぶりだなあ、こういうの」

「え?」

 僕の応答に、彼女は応えなかった。

 それどころか、その精悍さを僕だけに独占させた。

「これからも、また、よろしくお願いします!」

 まるで、ずっとこのときを待っていたかのように。

「……あ、うん。こちらこそ」

「はい! 失礼しました!」

 店の外に出るギリギリまで何度も繰り返し会釈する横顔も、店の外を歩いていく風付きも、特別なものはない。一人の少女というよりも、たまに会う従妹のような、特別仲の良い友人の妹のような、何かの繋がりが意識を四方八方に分散させる、理性と本能の象徴だった。

 同時にそのとき、一瞬だけ、僕の心臓に荒波を起こしたことを否定するつもりはない。

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