2-➁

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 「あれー? どうしたの? 橋内くん」

 予想とは違い、山岸さんとは道で再会した。同じく予想とは違う、他の主婦たちと立ち話をしている彼女に遭遇したという状況で。

「あ、これ、たぶん、忘れ物です」

 他の主婦たちの印象に残らぬよう、できる限り平凡な動作を意識してバッグの中に仕舞っていたハンカチを取り出し、彼女に見せる。

「え!? 嘘!? わざわざ届けに来てくれたの!?」

 この言い方だと、おそらくハンカチを忘れたこと自体には気付いていたようだ。わざわざ届けに来たことを、しっかりと評価してもらえる土壌は造られていた。

「えっと、まあ、困ってるかなって思って」

「全然全然! 別に明日も店行くからよかったのに!」

 ハンカチを手渡すと、できる限り自然にバッグを持ち直し、ここから離れる準備に取り掛かる。一対一ならともかく、他のコミュニティで平然を保てるほど、僕の対人能力は秀でていない。ましてや、今ここに陣を張っているのは、そういった能力を最も見極めてくる人種だ。

「あ、でもこんな言い方したら、わざわざ届けに来てくれたのに失礼だよね」

 彼女の声音が、僕を引き留める。

 引き留められたのではない。僕の足が、自ずから地に根を張ったのだ。

「ありがとう、橋内くん。これ、今日の夜もしっかり使わせてもらうね!」

 今、その理由に気付いた。

 僕と彼女の居る位置は、主婦たちの輪からほのかに抜け、絶妙な一対一を創り出している。

「いえいえ。……そういえば山岸さん、明日、夜のシフト入ったんですか?」

「うん、入ったよ」

 この空間を駆使して、今しかけないことを訊く。

「大丈夫なんですか……? もしよかったら、僕全然代わりますけど」

 今しか起こせない情動を、彼女と共有する。

「ううん! いいのいいの! 私だって、無理やり入れられたわけじゃないんだから」

 だとしても、小さな子供を二人も持つ母親が、金曜の夜に身柄を拘束されるなど、あってはならないことだ。

 このことを口に出せたら、この場で僕はどれだけの拍手喝采を浴びられるだろう。

「でも僕、どっちにしろ来週から入るんで、明日からでも──」

「来週から入るの!?」

 不意打ちだった。彼女が僕の言葉を遮るなど、初めての出来事だった。

 しかし不思議と、僕の企みの後者に該当するような結果にはならないことは確信していた。

「……ダメだよ。そんな、自分の時間を安売りするようなことしちゃ」

「え?」

 彼女の言っていることの意味が解らない。仮に解っても、今の僕に言ってはいけない言葉だということは間違いない。

「若いときの時間はかけがえのないものなんだから、もっと、大切にしないと……」

「山岸さん……?」

 その言葉を僕に放ってしまえば、彼女もまた、僕の果てと終わりを吸い込んでしまう。

「……ううん、そうだよね。別に、私なんかが決めつけることじゃないよね」

 寸前で、彼女は踏み止まった。

「でも、ありがと! ……嬉しかったよ。橋内くんの言いたいこと、私にはよく解ったから」

 彼女の言いたいことも、とてもよく解った。

 だがそれが、僕の為だという所以ゆえんだけは、彼女の瞳をはっきりと捉えても解らなかった。

「……やっぱり私たち、どこか似てるよね」

 とても、小さな声だった。相手に届かなくても構わないような、自分一人の胸に押し込んでも抱え切れるような、とてもはかない吐息だった。

 まるで、うつつを幻想に換える魔法のように。

「橋内くんって、家どの辺なの?」

 なんのまじないもかけられていない声が、現の前に現れる。

 そうして気が付くと、僕はいつの間にか、主婦たちの輪に飲み込まれていた。

「どうしたの?」

「あ、えっと、すいません」

 山岸さんの声で、再び正気に戻る。どうやら僕に対する質問は、彼女の右隣にいる四十代前半くらいの人のものだったらしい。それ以外にも、同じような主婦たちが三人、僕の周りを囲んでいる。

「えっと、ここから出た先の道路挟んだ反対側の方です」

「そうなんだ。じゃあ四丁目の方ね」

「四丁目っていうと、井口さんとか近所なんじゃない?」

「あれ? 井口さんも確か三丁目じゃなかった?」

「え? でもこの前、四丁目の方歩いてたら家に入るの見たけど」

 先ほどの山岸さんとの空間は、本当に幻想だったのだろうか。彼女と交わした会話は、頭の中で創り描いた台本だったのだろうか。

 一方で、現実に交わされる会話は川の水のように、せせらぎとは畑違いの喧騒を帯びて海原へと流れていく。僕はもちろん、彼女もこのどこにでもあるパワフルな井戸端会議を前に後れを取っているようだった。

「それ、あれじゃない? ほら、あの人、駅前のファミレスでパートしてるでしょ?」

「うんうん」

「そこで知り合った大学生の男の子かなんかとそういう関係になって、白昼からその子の家でこっそり……」

「ちょっとー、それ、私たちの前だからわざと言ってるでしょ?」

 山岸さんが一言添えた瞬間、笑いに包まれた井戸端会議は、ここまでで一番の盛り上がりを迎えた。この様子を見ていると、彼女が特別この輪から乗り遅れているということはないようだ。

「あ、バレた?」

「やめてよー。これで橋内くんと仕事しづらくなったらどうするのよー」

「大丈夫よ。だって橋内くん、私たちの誘惑なんかで興奮しないでしょ?」

「そういう問題じゃないから!」

 また、笑いが生まれる。後れを取るというよりは、揶揄からかわれている、それがこの輪の中での彼女の立ち位置だった。彼女の性質の一部分を知っていると、そのような立ち位置に落ち着くことは充分想像できた。たぶん、学生時代もそうだったのだろう。

 そう考えると、やはり先ほどの彼女との会話は、全て舞台の台詞せりふだったに違いない。仮に一対一だったとしても、この主婦たちのすぐ近くで、彼女が僕をそそのかすようなことを言うはずがない。彼女を施すような言葉を、僕がかけられるはずがない。それを聞いていた周りの主婦たちが、たかだか揶揄いで井戸端会議を満足させるはずがない。

 では、僕は心のどこかに、彼女との共通点を見出してしまったのだろうか。

「でもね橋内くん、仮にいくら魔が差したとしても、文子あやこさんを押し倒そうなんて考えちゃダメよ?」

 「文子さん」。今僕の思考を支配しているのは、過激な話の内容の映像化ではなく、あまり聞き慣れないはずの、彼女の下の名前を呼ぶ、自分の声だった。

「こう見えてこの人、旦那とはすっごいラブラブなのよ」

 僕に質問を投げかけた四十代前半くらいの主婦が、心なしか、真剣さを含ませた瞳で言い放つ。それが彼女に対するリスペクトなのか、はたまた、僕の心中を嗅ぎ取った上での牽制なのかはわからない。

「まさに、比翼連理、って感じね」

 知らない言葉だった。意味はもちろん、聞き覚えすらない。文字単体のニュアンスを捉えても、彼女らを言い表す言葉へと連想することはできなかった。

 しかし、響きだけははっきりと頭の中に刻まれた。まるでその言葉を出迎えるように、今まで支配されていた思考が完全に解き放たれた。

「ただいま、お母さん」

 すると、学校帰りのランドセルを背負った七歳くらいの女の子が、輪の中に入り山岸さんを呼んだ。

「あ、お帰り明奈あきな

 その女の子は、小学二年生だという山岸さんの娘だった。何度か職場にも来ていたので、なんとなくだが面影は憶えている。この子もまた、どこにでもいるような普通の女の子だった。

 普通の親と、普通の子。普通の母と、普通の父。普通の娘と、普通の息子。そして普通の妻と、普通の夫。比翼連理とは、そういった家族のことを表す言葉なのだろうか。

「明奈ちゃんおかえり。そっか、もうこんな時間ね」

「それじゃ、私たちもそろそろおいとましましょうか」

 いったいどれほどの間暇を持て余していたのかは知らないが、終わるときは本当に一瞬だった。主婦たちはそれぞれ帰路に就くか、或いはこれから買い物に行くといった様子で、一本道を双方向に歩いていった。この場に残ったのは、僕と、おそらくこの近くに家がある山岸さんと、彼女の娘の三人だけだった。

「お母さん、この男の人、だれ?」

 無邪気な境地で、僕の存在をいぶかしむ。当たり前だが、僕に見覚えがあっても、この子が僕のことを憶えていることはない。

「この人はね、職場ですっごくお世話になってる人なの」

 再び僕の思考を支配に巻き戻したのは、後半の脚色ではなく、僕の存在を同等の相手だと認めるような、「この人」という言葉での形容だった。

「へー、そうなんだー」

「だからほら、ちゃんと挨拶しなさい」

「はーい。山岸明奈です。よろしくお願いします」

 思ってもみない展開になり、若干動揺が隠せない。

「えっと……、橋内隆也たかやです。よろしくお願いします」

 思惑通りに動揺している僕を見て、彼女は微笑を隠せない。

「それじゃまたね、橋内くん。ハンカチもありがとね! 次会うのは、たぶん日曜かな?」

「あ、はい。それじゃ、また」

 お互い挨拶をし終えたが、最初にその場から去ったのは、我が家へと足を急がせた明奈だった。その足に、山岸さんは続かなかった。

「大きくなったら、こういう人と仲良くなるのよ」

 娘の背中を見ながら、彼女はそう呟いた。

 僕にだけ届くように、或いは、届かなくても構わないような、自分一人の胸に押し込んでも抱え切れるような、とてもはかない消息だった。

 そのとき、彼女と交わした会話の全てが、はっきりと、記憶としてよみがえった。

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