1‐3
長い沈黙があった。
次に女が口を開いたのは、駅前の交差点で信号を待っている時である。えらい長いこと黙っていたから、そんなに言いづらいことなのかと思って、せめてどんな二の句を継いでもまずは真摯に受け止めようと思っていたのだが、
「だって、好きになっちゃうでしょう、私のこと」
さすがに耳を疑ったね。
「……んん?」
「だから、私を知ったら、好きになっちゃうでしょう。私のこと。一ノ瀬君」
「んん~?」
この女、何かがひどくズレている。欠落している、と言ってもいい。
「私ってほら、美人だし。それもすごく、かなり、圧倒的に、今までに無いくらい。そのうえ一ノ瀬君、どちらかと言えば私みたいな基本クール系の女の子が好みだし。あと私、こう見えてものすごく食べるの。好きでしょう? いっぱい食べる女の子。他にも挙げているとキリがないんだけれど、とにかく私って、身も心も一ノ瀬君の理想の女の子そのものなのよね」
信号が青に変わる。俺はこの名前も知らない女の底抜けの自信と情報収集能力に舌を巻きつつ、全体的に釈然としない感を胸に抱き、この感情をどう言い表すべきかを考えた。が、どうにもどれもしっくりこない。
「そんな女の子が目の前に現れたら、一ノ瀬君、好きになっちゃうでしょう。私のこと。でも、蛙化現象ってやつ? 私は私を知らない一ノ瀬君が好きなのであって、私を好きになってしまった一ノ瀬君には全然魅力を感じないのよね」
「待て! 全然意味が分からないぞ! なんだその……酸っぱい葡萄みたいな話は!?」
いや、酸っぱい葡萄よりもっと尊大で傲慢な……葡萄かどうかも分からぬ木を見て「この木になる葡萄は酸っぱいわね」と言っているようなものではないか?
しかし女はまるで俺が頓珍漢なことを言っているかのように首をかしげると、さもそれが公然の事実であるかのように、「現に一ノ瀬君、もう私のこと好きでしょう?」などと激ヤバストーカー然とした台詞まで宣い始めた。それも溜息交じりに。
「ま、別に私はもう一ノ瀬君に未練なんてこれっぽっちもないんだけれど、一ノ瀬君がどうしてもと言うなら連絡先くらい交換してあげないこともないわね。ここで私が冷たくあしらってしまって、そのせいで恋心を拗らせた一ノ瀬君が後々ストーカーになったりしたら困るもの」
「あんたよくそんなことスラスラ言えたなァ!」
しかし正直、この謎の女が気になり始めてしまっている自分も少なからず存在していた。確かに諸々タイプであるし、何よりこの斜め上から自分を押し付けてくる感じが、どことなくユズキさんに重なるのである。においといい、身に纏う雰囲気には太陽と月くらいの差があるものの、どうしてもあの頃を思い出さずにはいられなかった。
お察しの通りであるが、俺は未だに初恋を引きずっている。否、縋りついている。
十年。十年である。俺は小学校五年から大学三年の今に至るまでの十年間、たかが三カ月の思い出に縋りついて生きてきた。そして十中八九、これからも俺は死ぬまであの思い出に浸り続けて未練たらたら生きるのだ。
存分に気持ち悪がってくれたまえ。でも仕方ないだろ? 何故なら俺にはそれしかない――――それしか許されていないんだから。
「一ノ瀬君? 聞いてるの?」
俺が物思いに耽っているうちに、気が付けば改札は目の前だった。謎の女がスマホの画面を上に向けて差し出したまま、不服そうに眉根を寄せて俺を窺っている。
「え? あ、すまん、何?」
「だから、連絡先。私のアカウントを教えてあげるから、追加してって言ってるの」
「あ、あぁ」
慌ててスマホを取り出して、女の差し出したQRコードを読み取った。長い黒髪の後ろ姿のアイコンに『二見紫羽』と名前の添えられたアカウントが表示されて初めて、俺はこの女の名を知ることとなる。
「これ……名前、なんて読むんだ?」
「シウ。フタミシウ。よかったわね、好きな女の子の名前が分かって。一生なんでも言う事聞くから連絡先だけ教えてくれ、って泣いてお願いした甲斐があったわね」
「俺はそんな命乞いみたいなお願いをした覚え無いぞ!」
謎の女改め二見とかいう女は、やはり俺が何か間違ったことでも言っているかのように首をかしげると、「まぁそういう事にしておいてあげましょう」とでも言いたげに首を横に振った。
「一ノ瀬君の思っている通りよ。とりあえずそういう事にしておいてあげるから、ま、これからどうぞよろしくね。一ノ瀬
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