1‐1

 知らない女とお茶をしている。




 麦茶の入ったマグカップを口元に寄せるたび、艶のある長い黒髪が頬にかかるのを嫌って、謎の女は垂れた髪を耳にかけた。冷房も無い部屋で汗一つかかない白い肌が覗き、露になる顎の線は女の細さを示しながらも、その身に纏う空気の鋭さをより一層際立たせる。とてもじゃないがボロアパートの押し入れから這い出てきたとは思えない容貌に、俺は思わず溜息を吐いた。次どこかに潜むとしたら名家の蔵の中が良い。まるで陶磁器のような女である。




「一ノ瀬君的には、この状況は『知らない美女とお茶してる』ってことになるわよね。それって、なんだかまるで一ノ瀬君が私をナンパしたみたいじゃない?」




 ちゃぶ台を挟んだ対面に正座する謎の女が麦茶をゴクゴクやりながら、訳の分からない事を言っている。俺は黙って、その妄言に耳を傾けることにした。




「私、ナンパってされたことないから分からないけれど、多分ものすごく鬱陶しいんでしょうね。それも蚊とか蝿みたいな純粋な鬱陶しさじゃなくて、アブとかブヨみたいな、ちょっとすくむような脅威も孕んだ鬱陶しさ。下手に刺激すると痛いことされるかもしれないでしょう? だから、別に実害を被ったことはないけれど、私ナンパって嫌い」




 あんまり見てくれが良いとナンパされないなんて話を友人から聞いたが、なるほど確かにそうらしい。事実この女からは気軽に声をかけるのがなんとなく憚られる雰囲気が醸し出されていて、ただしそれが彼女の気品から滲み出たものなのか、はたまた自己紹介も釈明もナシにいきなりナンパ(未体験)を槍玉に挙げ始めるような性質のヤバさから滲み出たものなのかは、いまいち定かでない。俺は後者なんじゃないかと思うね。




「もし私が駅前でうっかり一ノ瀬君に見初められてしまったとして、一ノ瀬君はナンパなんてしないんでしょうけど、一ノ瀬君が私にナンパしてきてしまったとしたら、私はそのまま線路に飛び込んで死ぬ自信があるわ」




「あんたは一体何の話をしているんだ?」




「私の話よ。ねぇ、どうして私は飛び込みなんてするんだと思う?」




「さぁ。ナンパがよっぽど不快だったんじゃないか」




「そう、正解。流石ね。死んだ方がマシなくらい不快だから、飛び込んで死ぬの。ただし不快なのは、ナンパされたことではなくて、一ノ瀬君にナンパをさせてしまったことなんだけど」




 そこまで言って、女は再びゴクゴクやった。そして静かにマグカップをちゃぶ台に置くと、その切れ長の眼を伏し目がちにして続ける。




「私は、一ノ瀬君の世界に私が居てほしくなかったの。私という人間が、一ノ瀬君の行動に何か一つでも影響を与えることが許せなくて。私は、私のことを何も知らない一ノ瀬君のことを、心の底から愛していたから」




 女の白くて細い指が、マグカップに付いたリップを拭った。




「だから、こうして私を知ってしまった一ノ瀬君には、もう何の未練もないわ。今までどうもありがとう。盗聴も盗撮もストーキングもゴミ漁りも、もう金輪際いたしません。どうか幸せになってね。それじゃ」




 そう言うと、女はすっくと立ち上がった。どう見ても身体の半分は脚でできている。スタイルが良いとデニムにシャツだけで様になるなァと思う一方、神様はこの恵まれた容姿をお与えになるのと引き換えに、この女から倫理観をかなり削いだんだなァと感心した。




 女はいそいそと帰り支度を進めていた。押し入れから隠していたらしい靴やら鞄やらを引っ張り出し、最後に例の脚立を肩に担ぐ。いかにも撤収準備完了といった出で立ちであるが、実は私住居侵入だけじゃなくて盗聴と盗撮とストーキングとゴミ漁りまでしてましたとカミングアウトしたあとで、どうしてコイツはそんなするっと帰れると思っているんだ?




「一ノ瀬君、今『なんでこの美人はするっと帰れると思っているんだろう?』って思ったでしょう」




「まぁ、大体は」




「だって、帰してくれるでしょう? 一ノ瀬君は、そういうおかしな人だもの」




 女が華奢な肩に脚立を担いだまま、俺の顔を見下ろしてくる。己の行いに何ら後ろ暗いところが無いとでも思っているのか、その顔は極めて落ち着き払っていた。どうも一本筋の通った、札付きのイカれ女らしい。




 俺はまた溜息を吐いた。




「あんた、この辺に住んでるの」




「いいえ。最寄りは国立だけど」




 国立。となると、ここから電車でもバスでも三〇分くらいか。ご苦労な事である。俺は様々考えて、やおら畳から腰を上げた。




「帰りは電車か?」




「そうね」




「じゃ、駅まで送らせてくれ。帰るのは別にいいんだが、その前に聞かせてほしいんでね。主に犯行に至った経緯とか、あとは余罪の有無とかをさ」

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