正妻戦争ヤンデレウォーズ

小泉明日香

プロローグ

「女の子には優しくしなさい、お前は男なんだから」




 ここで言うところの優しさとは、せいぜい「重い物は男性が率先して持った方がいいんじゃないの」くらいの次元であって、例えば「女性による住居侵入は快く許し客人としてもてなしましょう」とか「女性による盗聴盗撮窃盗行為は有り余る母性本能の表れですからその慈愛の精神に感謝しましょう」とか「女性による監禁拘束ストーキング等諸々の犯罪行為もでっかいLOVEラブの表れですから男は黙って受け止めましょう」みたいなトチ狂ったことを言っているのではない。




 そんなことは言うまでも無いくらいに当たり前の話なのだが、そもそも当たり前というものは往々にして生まれ育った生活環境に拠るところが大きいわけで、つまり何が言いたいのかと言うと、俺はトチ狂っていたのである。






 ◇






 店長の奥さんが産気づいたとかで急遽店を閉めることになり、五時間巻きでバイトが終わった。六限までは時間があるし、この時間はサークルの会室にも誰もいないはずなので、俺はコンビニで昼飯を買ってから家に帰ることにした。




 猛暑の中コンビニ袋をぶら下げながら木造二階建てオンボロアパート『メゾン・アンスタン』一〇二号室に帰宅すると、妙なことに玄関の鍵が開いていた。右に捻った鍵穴に、あのガチャリという手応えが無かったのである。近ごろ不審者がこの辺をうろついているらしい話を大家から耳にタコができるくらい聞かされている俺は、最近じゃたとえ用事がゴミ出しだけの時でさえ、家を空ける場合には施錠をしているはずだった。




 しかしまぁ、こういううっかりもあるよなァ、なんて、特に深く考えもせずに玄関のドアを開けてみて、俺は激しく動揺した。奥の部屋に、謎の物体が鎮座していたためである。成人男性の腰の位置ほどの高さのソレは、見慣れないアルミの脚立であった。




 まさかと思って表を確認してみると、そこには確かに『一ノ瀬』と書かれた一〇二号室の表札が掲げられていて、この部屋が間違いなく俺の家であることを示している。




 で、あるならば、一体全体あの脚立は何処から湧いた何なのだ。何某かの業者を頼んだ覚えはまるきりないし、頼んでいたにしても、勝手に家に入るわけがない。万が一勝手に入っていたとして、脚立だけが作業をしているはずがない。こうなるとむしろ作業着姿の業者さんが部屋に居てくれた方が自然で、ただ一つそこにあるだけの脚立というものは、あからさまに異様でおっかなかった。




 脚立のせいでもはやひとくらいよそよそしくなってしまった我が家の敷居を、俺は恐る恐る跨いだ。「こんにちはぁ……」なんてつい口を衝いて出たのは、心なしか人ん家のにおいまでするような気がしてきたためである。






 ……と言うか、する。人ん家のにおい……否、何か、脳幹に直接響くような、とてつもなくいいにおいが、する!






 先程までの恐怖心はどこへやら、俺は玄関に靴を脱ぎ捨てコンビニ袋を放り出し二畳半の台所を駆け抜け脚立の待つ六畳の和室へ飛び込んだ。脚立を除けば今朝出る前と何ら変わらぬ俺の部屋。しかしやはり、この蒸し暑い部屋の中に、まるで本能に呼びかけるような、優しくて暖かなお日様の如きにおいが充満している。


 


 俺はこのにおいを知っている。小学校五年生の頃、初めて好きになった家庭教師のユズキさんの、まさにそのにおいである。




 人は遺伝子レベルで惹かれる人間の体臭を、いいにおいだと感じるらしい。どうにも諸説あるようだが、俺はこの説を心の底から推していた。もしもユズキさんと遺伝子レベルで相性が良かったら、こんなに嬉しいことは無い。嗚呼、憧れのユズキさん。強くて綺麗で頭がよくて、口がうまくて快活で、小五のガキなど歯牙にもかけない、淡い初恋のユズキさん。においに呼び起されるように、記憶の奥底でぼやけていたユズキさんの姿が、その輪郭を蘇らせる。四尺玉花火のような、凛として整った顔がぱっと華やぐあの笑顔。それが今、鮮明に思い出された。






 ふと、押し入れの中でもぞりと動く、人の気配を耳に捉える。






 今にして思えばこんなバカな話はないのだが、俺はその時、もしかして押し入れの中にユズキさんがいるんじゃないかと思った。そういうイタズラが好きな人だったし、何より部屋に漂うにおいがその証左に他ならないと考えたわけだが、そうだとしたらユズキさんは十年も前にたかが三カ月間勉強を見ただけの教え子の下宿先を謎の技術で特定し、アポなし突撃した上に留守の家へと侵入し、酷暑のせいでほぼサウナとなった押し入れの中でじっと息を潜めて俺の帰りを待っていたという、マジでヤバいアラサーになってしまう。これはもうトキメキとかラブロマンスとかの範疇を軽く超えてサスペンスないしはホラーに値するいっぱしの恐怖体験になるはずだが、しかし初恋の思い出に脳髄を焼かれた俺は正常な判断力を完璧に失っていたので、十年ぶりの再会を想い、あろうことかドギマギしていたのであった。




 結論から言うと、ここでユズキさんがマジでヤバいアラサーになることは無かった。






 ただし、ヤバい女はマジでいた。






 押し入れのふすまを勢いよく開けると、見知らぬ女と目が合った。




「あ」




 このクソ暑いのに、俺の布団にくるまって、イモムシのようにモゾモゾしていた、謎の女の第一声。




「おかえりなさい、一ノ瀬君。ずいぶん帰りが早いのね。今週のバイト、土曜は十七時までじゃなかったかしら」




 あぁ、この正体不明のイモムシ女、どういうわけか俺のシフトを知っている。店の人しか知らないはずの、俺のシフトを知っている。住所に名前にバイトのシフト、それから多分、鍵の形。俺はコイツを知らないが、コイツは俺を知っている。




「どうしたの、固まっちゃって。あ、もしかして、帰ってきたら押し入れに傾城傾国待ったなしのド級美人が潜んでいたから、驚きのあまり腰が抜けたの」




 この言い逃れできない状況で、まるで身内か何かのように、溢れる自信を隠しもせずに、ただ平然とそう宣った、ユズキさんと同じにおいの、根性由々しき侵入者。




 その時はまだ名前も知らぬ、自信過剰なこの女。彼女こそ、これから俺を待ち受ける血みどろグチャグチャ乱痴気騒ぎ、その一翼を担うのっぴきならない女であり、






 後に、俺を刺し殺す女である。


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