第7話 宝石⑤

 記者・響野きょうのを改めて椅子に座らせ、煤原すすはらは尋ねた。


「K区。俺たちは、その名前を今日ここで出していない」


 犬飼いぬかいが首を縦に振っている。

 紙巻き煙草を手に、響野は右の口の端を上げて笑った。


「俺が独自に掴んだ情報ですから」

「出どころは?」

「真っ当な記者はそう簡単には口を割りません」

「捜査に必要だと言っても?」

「う〜ん? 俺が提供した情報が、警察の皆さんに正しく使われるっていう保証はどこにもないからなぁ?」


 響野憲造と煤原信夫しのぶは、過去数回顔を合わせたことがある。単に共通の知り合いがいるとかそういう理由ではなく────雑誌記者である響野は記事のネタになりそうな匂いを嗅ぎ付け、煤原は事件を解決すべく動く警察官として臨場した事件現場で、双方あまり本意ではない気分で「どうも」「久しぶり」と挨拶を交わしていた。


 今回も、そうなるのだろうか。響野憲造はいったい何を知ってここにいる?


「響野さぁん、そうやって焦らすのやめましょうよ〜」


 犬飼が口を挟む。苛立っている時の笑顔だった。飄々として軽薄な人間だと思われることも少なくはないが、犬飼は、煤原が知る誰よりも真面目な警察官だ。自身の鑑識という仕事にも誇りを持っているし、常に事件解決を、被害者の無念を晴らすことを胸に行動する。煤原は、犬飼ほどの生真面目さを持ち合わせていない、自覚がある。

 犬飼と響野は相性が悪い。ひと目でそうと分かるほどに。


「事件解決したらいちばんに響野さんに報告しますよ。それじゃだめなんですか?」

「いやいや……ダメとは言ってませんけどね? でもなぁ。もうひと声ほしいなぁ」


 響野は今──『宝玉眼ほうぎょくがん』について、何らかの記事を書こうとしている。『宝玉眼』という名前を出そうとしているかどうかは、煤原には分からない。だが、記事にするにしても、何かが、最後の一手が足りていないのだろう。

 響野は、最後の一手を警察官である煤原、犬飼から聞き出そうとしている。

 はあ、と犬飼が大仰にため息を吐いた。


「そうですか。じゃあいいです」

「おっと?」

「響野さんにこっちから何かを提供してまで情報を引き出そうとは思いません。僕ぁそういう取引は嫌いなんです。いいですよね煤原さん? もう帰りましょ」


 丸テーブルの上に放り出していた煙草の箱やライターを上着のポケットに突っ込みながら、犬飼が吐き捨てた。響野は目を細めて笑っている。何がおかしいっていうんだ。


「待て犬飼……それに響野憲造、あんたもだ」

「俺も?」

「情報交換をしたいのか? それとも、真面目に仕事をしている警察官をおちょくりたいだけか?」

「えーっ……煤原さんにまでそんなこと言われるなんて、心外だな」


 新しい煙草に火を点けながら、響野はのんびりと言った。彼の肩の向こうではマスターの逢坂が眉を寄せてテーブル席を見詰めていて、煤原と目があった瞬間(つまみ出すか?)と片手でジェスチャーをされた。物騒な動きであった。煤原は僅かに首を横に振り、


「K区。まあそこそこ穏やかな地区だよな。文教地区でもある」

「そうその通り。平均地価もなかなかにいいお値段ですし、でもだから余計にK区で子育てをしたいって人、俺も結構見かけます」


 そう。その通りだ。煤原の同僚である多田ただ隼人はやとは、入籍する前にK区に一軒家を買った。婚約者である瑛子えいこのお腹の中には、第一子となる春疾はるとが宿っていた。

 多田は──両親、そしてすべての親族との関係が最悪なのだと言っていた。だから警察官になったのだ、とも。実際、多田の遠い親戚が犯罪行為に手を染め、ちょっとした事件になったこともある。もう絶縁しているようなものだから、と言いつつ、多田は被疑者となった遠い親戚のためにカウンセラーを紹介したり、病院を探したりしてやっていた。すべては水の泡になったと、煤原は記憶している。


「K区と『宝玉眼』──都市伝説。俺としては、綺麗に繋がっているとは到底思えないが」

「そこなんですよね〜」


 紫煙を天井に向けて吹き上げながら、響野は言う。そういえばこの響野という男も実の両親、それに姉ふたりとはとうに縁を切っていて、今は祖父と孫ふたりだけが血縁者のようなものなのだと共通の知り合いから聞いたことがある。

 これも何かの縁だろうか。


「なぜ、『宝玉眼』の噂が、素行の良いご家庭が九割を占めるK区を中心に広がりつつあるのか。この件、俺と一緒に考えてみませんか? 煤原さん、犬飼さん」

「帰る」


 椅子を蹴るようにして犬飼が立ち上がった。呼び止めることができないほどに、素早い動きだった。


「煤原さん、また会社で」

「あ、ああ」

「帰っちゃうんですか?」


 響野の声を無視し、「ご馳走様でした」と逢坂に飲食代を支払って、犬飼は店を出て行った。「まったく」と呻くように言った逢坂が「憲造」と孫の名前を呼ぶ。


「オモテの看板、降ろしてこい。今日はもう店じまいだ」

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