第二章 こどもたち

第1話 多田隼人①

「うちの家庭には何の問題もありません、ので」


 ご心配いただかなくても大丈夫です──と続けようとしていた多田ただ隼人はやとは、ぎゅっと奥歯を噛み締めて黙った。多田隼人と、直属の上司であり相棒でもある小燕こつばめ向葵あおいは公園にいた。多田の自宅があるK区内でもいちばん大きく、休日ともなれば親子連れで溢れる常緑樹の緑が目を灼く公園の頭上に広がる高い空は晴れていた。多田と小燕は、ベンチに腰掛けていた。背中を丸め、膝の上に肘を置き、指先を繊細に絡み合わせた小燕はしばらく黙って俯いていたが、やがて、「そうか」と小さく応じた。それで多田は、それ以上何も言えなくなってしまった。


 多田隼人の家庭環境は最悪だ。父親の顔は知らない。母親は宗教狂い。幼き日の多田は毎日のように母親の信仰対象であるの集会に連れて行かれた。このままではおかしくなると、子ども心に思っていた。実際、多田のふたつ年下の弟・鈴人りんとはおかしくなってしまった。今も母親とともにナントカ様の集会に通っており、最近ナントカ様のお付きのひとりとして抜擢されたのだと連絡が来た。本当は母親も、弟も、完全に切り捨てたい。だが多田にはそれができない。


 小燕向葵と知り合ったのは、交番勤務の頃だ。多田が勤務している交番の近くにある小学校で、立て篭もり事件があった。刃物を持った三十代の男が小学校教諭をひとりと生徒を数名、人質にして立て篭もった。何かを要求していた気がするが、何を要求していたのかを今の多田には思い出せない。それよりも。警視庁からやって来た数名の刑事のうちのひとり──当時は顔も名前も知らなかった小燕向葵が、「自分が教諭、もしくは生徒たちの代わりになるということで交渉を進めたい」と手を挙げたのだ。もちろん、犯人はゴネた。人質は全員、教師も生徒も皆男性だった。「暴行が目的だとしても」と小燕は据わった目で唸った。「俺が相手であれば何の問題もないでしょう」と。


 問題しかない、と多田は思った。


 そうして実際、犯人は男性を、特に少年に性欲を抱くタイプの人間であり、人質として扱われていた教師も大学を卒業したばかりという童顔の若者だった。かなり無理やりその教諭と交代という形でになった小燕は、小学校内部から武力で犯人を制圧した。幸い──と言って良いのかは分からないが、教師も、それに生徒も、性暴力を含む暴行を受けることはなく、大暴れをした小燕だけが右足をひどく捻挫した。

 二十代の多田は、小燕のどこかヤケクソとも取れる行動にひたすら茫然とすることしかできなかった。ヤケクソではない、とのちに顔を合わせた小燕は穏やかな口調で言い切った。「ああするのが最適だと思っただけだ。犯人についての情報も集まっていたし、それに多田くん、……あの時現場に集まった刑事の中でいちばんツラがいいのは俺だっただろ?」小燕は冗談が下手なのだ。意を結した様子で吐き出された台詞に、多田は眉を下げて笑った。小燕も笑った。


 その後紆余曲折を経て、多田隼人は警視庁勤務となった。花の捜査一課。小燕向葵が係長を勤める班に放り込まれた。「俺が引き上げたんだ」とデスクで頬杖を付いた小燕が、黒縁眼鏡の奥の瞳を細めて言った。「ご感想は?」


「ありがとうございます」


 最敬礼をして、多田は応じた。多田には既に婚約者がいた。入籍日も決めていた。配偶者を迎え、将来子どもができることを考えると交番勤務ではやっていけない──というわけではないが、こうして警視庁に引き上げてもらえたことについては、素直にありがたいと感じている。多田は、小燕の以前の相棒──定年退職を前に別部署に異動していった好々爺で、東岸とうがんという名前だ──の後釜に指名された。光栄だった。


 多田の当時の婚約者、現在は妻である瑛子えいこ──桐野きりの瑛子えいこの家庭環境も、多田隼人に負けず劣らずひどいものだった。彼女には両親がいたが、父親からは直接的な性暴力を受け、母親は昼夜を問わず家に若い男性を連れ込み、瑛子の目の前でセックスをした。瑛子はまだ小学生で、多田隼人とは同じ学年で、1年生から6年生までずっと同じクラスだった。6年間ずっと、ランドセルではない汚れた鞄を使っているのは隼人と瑛子だけだった。流行りのゲームの話題に付いていけないのも、漫画やアニメを禁止されているのも、クラブ活動に参加することなく授業が終わったら逃げるように学校を去るのも、隼人と瑛子だけだった。最初はほとんど傷の舐め合いだった。隼人も瑛子もいじめられっ子ではなかったが、たちからは敬遠されていた。同級生の家に遊びに行くこともなかったし、運動会に家族が応援に来ることもなかった。だから運動会の日の昼食はふたり並んでコンビニで買ったパンを齧ったし、雨の日に傘を忘れた瑛子を隼人が自分の骨の折れたビニール傘に入れてやったこともある。


 中学、高校も同じ学校に進学した。中学はともかく、自分が高校に行けるとは隼人は少しも思っていなかった。だが進学して、どうにかして家を出るのが目標だったから、中学では必死に勉強をして、母親が信仰する宗教の布教に協力することを約束して部活動に参加する許可を得て、とにかく死ぬような思いをして都内でも最難関と称される公立高校に合格した。母親は狂喜し、それもこれもなにもかもすべてがナントカ様のお陰だ、御礼を言いに行こう、と隼人の手首を掴んだ。隼人は、抵抗をしなかった。ここで「ナントカ様は関係ない、俺が努力したからだ」と言い張って学費を払ってもらえない──なんて流れになったら最悪だからだ。隼人と母、それに弟の鈴人はナントカ様のお屋敷を訪ね、三人で床に額を擦り付けて御礼を伝えた。あの屈辱の時間については、隼人は今も忘れることができずにいる。「いいんですよ、御礼だなんて」と茶封筒に入った札束を受け取りながら、ナントカ様はゆったりと笑った。多田家は貧しく、その理由の大半は母親がナントカ様に支払っているお布施だった。「汚いお金を綺麗にしてもらうのよ。教祖様にお金をお渡しすることで、うちもいずれお金持ちになれるのよ」と母親は言い張ったが、そんなはずなかった。高校に進学したら──と土下座をしながら隼人は思った。すぐにバイトを始めよう。部活動もしたいけれど、それ以前にまずは現金だ。母親にバレないように金を貯めて、そうして大学に進学する。その先は? なにも考えていない。でも、どうにかして、この腐った家から逃げ出さなければ。


 ナントカ様のお屋敷を出てすぐ「ちょっと用事があるから」と隼人は母親と弟と別れた。用事はなかった。強いて言うなら、高校進学後にすぐ雇ってくれそうなバイト先を探すために駅前の商店街をチェックしておきたかった。隼人の母親は一応仕事をしているが、それもナントカ様に斡旋された良く分からない内職なので、家からはほとんど出ない。食糧もナントカ様関係の農家や精肉店から買わされているので、多田家の家計はほぼすべてナントカ様に握られていると言っても過言ではない。


 隼人は、一刻も早く、この澱んだ円環の外に出たかった。


 商店街にあるチェーンの書店を覗きに行った。『アルバイト募集』というチラシが貼られていた。時給が良いのか悪いのかは分からなかったけれど、17時から閉店時間の21時まで、閉店作業を含めて22時までの勤務というのが気に入った。週に数日──約5時間ぐらいの外出なら、あの母親の目を盗むのもそう難しくはない、だろう。


 この店を候補のひとつにしよう、と決めた隼人の視線を、不意に奪った者がいた。


 肩口で揺れる柔らかくカールした黒髪。長いまつ毛に艶やかなくちびる。痩せぎすの長身を包む、地味な紺色のジャージ。

 桐野瑛子だ。


「桐野」


 思わず声をかけていた。瑛子は一瞬大きく顔を引き攣らせ、それから、「多田」と返した。


「びっくりした」

「俺も」

「なにしてんの?」


 隼人は黙って『アルバイト募集』のチラシを指差す。進学先は決まっているが、隼人はまだ中学生だ。瑛子は肩を竦めて笑って、


「え、多田が本屋さん? 意外」

「なんで」

「居酒屋とか好きそうって思ってた」


 賑やかな場所は嫌いじゃないし、隼人は意外と愛想が悪い方ではない。居酒屋で働くのも悪くはないだろう、が。


が」

「え?」

「煙草の匂いでキレっから」

「……あー。お母さん」


 隼人と瑛子は傷を舐め合う関係ではあったが、互いの事情を赤裸々に伝え合ってはいなかった。きちんと向き合い、伝え合うのはもう少し先の話だ。だが、隼人の短い言葉で瑛子は何かを察してくれたらしい。「うちも」と小さく言った。


がうるせーから」


 、というのが瑛子の実父の名前だと、隼人は知っていた。瑛子の細い腕や脚に煙草の火を押し付けた跡があることも知っている。


「あ、ていうか多田さ、合格おめでと」

「え? あ、どうも」

「●●でしょ。あのさ、まだ他の人に言ってないんだけどさ、私も受かった」

「……え?」


 ●●。そこはたしかに多田の進学先であり、都内最難関といわれる公立高校の名前で──


「ほんとは高校受験やめろって言われれたんだけど、ムネオが、金のかかんない公立だったら学費出してやるって言うから、頑張っちった」


 胸のあたりで小さくVサインをする瑛子のことを、抱き締めてやりたくなった。その瞬間の隼人は、自身の衝動をどうにか押さえ付けることに成功した。


 土曜日の真っ昼間。書店を含む商店街を徘徊していた瑛子が実父の子を堕胎するために産婦人科に向かう途中だと知るのは、短いやり取りの数分後のことだった。

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