03
俺はもう一度クッションに腰をおろした。兄も眠れないのだろう。いいよ、明日も休みだ。付き合ってやろう。兄が口を開いた。
「あの、さ……嫌だったら、いいけど」
「なぁに?」
「一緒に、寝て……」
それくらい、お安い御用だ。俺は立ち上がってベッドに寄った。
「わかった。ちょっと空けて」
「うん……」
シングルベッドにわずかに空いた隙間に俺はすべりこんだ。どうしても手足があたってしまう。俺も兄も大人になってしまった。兄の体温を感じて、俺は昼間に調べた記事のことを思い出した。
「触れ合っていると、オキシトシンっていうのが出るんだって。ストレス減るらしいよ」
「そっか……」
兄はそっと俺の手を握ってきた。冷たい手だった。
「哲……ごめんな、こんな兄ちゃんで」
「いいって。佑くんが元気でも元気じゃなくても、俺は側にいるから」
俺たちは見つめ合った。兄の目に光が戻ってきたように感じた。互いの呼吸すらわかる距離。こんなに近付いたのはいつ以来だろう。ずっと兄の目を見ていると、そこからつうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「ごめんな……ごめんな……迷惑ばかりかけて。情けなくて。頼れる兄ちゃんでありたかったのに」
「もうさ、頑張るのやめよう。佑くんは生きてくれているだけでいいんだ」
俺は兄の身体を引き寄せた。兄はぐすぐすと泣き始めた。俺は兄の背中をゆったりとさすった。いつか、反対のことをしてもらった。ああ、あの猫が死んだ時だ。兄はきゅっと唇を結んで、俺のことを抱き締めてくれていたのだ。
「……僕さ、他人の気持ちがわからないんだ」
泣き止んだ兄が話し始めた。
「空気とか読めない。言ってくれなくちゃ何をしてほしいかわからない。でも、普通の人は感覚でわかるって言うんだ。人を好きになることもわからない。言い寄られて、女の子と付き合ったこともあるけど……上手くいかなかった」
そういう話を聞くのは初めてだった。就職する前の兄とはゲームの話で盛り上がるだけだったから。恋人がいたなんて聞いたことがなかった。
「佑くんは人を好きになれないんだね、情がないんだね、って言って振られた。好きになろうとしたさ。でも、ダメだった。僕は……僕は、人として何かが欠けているんだ」
俺は反論した。
「佑くんは俺のことわかってるじゃないか。あの猫の時だって、抱き締めてくれた。俺、そんなことしてくれなんて言ってなかっただろう? でもしてくれた」
「そうだったね……」
「なっ? 欠けてるもんか。佑くんはきっと逆だよ。情がありすぎるんだよ」
兄はごしごしと顔をぬぐった。
「僕、生きていてもいいのかな……」
「当然だよ。佑くんほど優しい人は他に居ない。俺のために生きてよ。それならできるでしょう?」
兄は僕の手を握る力を強くした。
「ありがとう、哲……」
それから、ぽつり、ぽつりと、会社であったことを打ち明けてくれた。兄は勤務態度こそよかったものの、同僚や上司と馴染めなかったみたいだ。会議の時間を違う風に伝えられたり、資料が兄の分だけなかったりと、嫌がらせもあったらしい。
それは訴えたら勝てるんじゃないか、と内心俺は思ったが、兄はそうできる気力などないだろう。とっくに退職してしまったし。せめて、その当時に俺が話を聞いてやれていたら、何かが変わっていたかもしれなかったが、俺も入社したばかりで精一杯だった。
このことは両親に言わないでほしい、ともお願いされた。確かに、余計な心配をかけるだけだろう。俺の胸に秘めていればそれでいい。
「そろそろ寝ようか、哲」
「寝れそう?」
「今日は色々と動いたから……多分大丈夫」
しかし、俺も目が冴えてしまっていた。二人とも、目を閉じたり開けたり。ついにはタバコが吸いたくなってしまって、ベッドに座って並んで喫煙した。
「哲ってさ……彼女いたことあるの」
「あるよ。学生の時だけど」
「今はいないんだ」
「うん。結婚願望もないしね。恋愛とかもう面倒だし」
「何か痛い目でも見た?」
「えー?」
俺は女の子と長続きしない。最初は喜ばせようと思ってデートの予定を立てたりプレゼントをしたりするけど、急に冷めてしまうのだ。結婚をちらつかされると余計に。子供が欲しいとも思わないし、両親には悪いけど、独り身を謳歌しようと考えていた。
「特に何かあったわけじゃないけどさ……独りの方が気楽だもん」
「まあ……僕も結婚できないんだろうな。病気だし、無職だし」
また兄が悪い考えに引きずられている。俺は励まそうと思って言った。
「佑くんには俺がいるじゃないか。弟との縁は切れないだろ」
「そこまで言うんならさ……僕とキスできる?」
「えっ……」
俺のタバコの灰がハラリと床に落ちた。
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