02

 揺さぶって兄を起こした。薄く目を開けた兄は、何か言おうとしているのか、口を動かしたが、全く聞き取れなかった。


「どうしたの、佑くん」

「……いらない」


 こんなことを繰り返されると、一発くらいぶん殴りたくなる。その衝動を抑え、俺は努めて優しく兄の肩を撫でた。


「美味しいよ。豚バラたくさん入ってる。佑くん好きだろ」

「じゃあ、それだけ食べる」


 俺は兄の口に豚バラを箸で持って行った。ゆっくりと噛み、飲み込んだ兄は、こんなことを言った。


「もう少し、食べたい」

「本当? じゃあ麺も食べてみようか」


 そして、時間はかかったが完食したのだ。兄が帰ってきてから初めてのことだった。


「佑くん、凄いじゃない」

「ありがとう、哲」


 また兄は横になった。俺は空の皿をうきうきとリビングに持って行った。


「父さん、母さん、佑くん全部食べた!」


 父が言った。


「やっぱり、哲が行くと違うのかな。父さんたちより気を許してくれてる感じがするよ」

「俺、夕飯も持って行くね」


 午後は自分の部屋でのんびりすることにした。ベッドに寝転び、動画を見て暇を潰した。やっぱり兄のことが気になってきてしまい、病気のことを調べた。もう何度も似たような記事を読んでいた。

 夕飯はコロッケだった。母がスーパーで買ってきたらしい。俺は米と味噌汁をおかわりした。そして、兄の部屋に行った。


「佑くん、起きてる?」


 兄はベッドのふちに腰かけてタバコを吸っていた。俺の顔を見ると薄く微笑んだので驚いた。こんな表情久しぶりに見た。


「今晩何?」

「コロッケ」

「食べる」


 兄は自分で箸を使って食べた。今度も完食だ。夜の薬もきちんと飲んでくれた。思わず兄の頭を撫でてしまった。


「佑くん、よくできたね」


 今日は一歩進めた気がした。根気よく向き合えば応えてくれるものなのだ。俺は兄と並んでタバコを吸った。俺は思い切って提案した。


「散歩しない? 夜なら人目も気にならないでしょ」

「でも、ちょっと、こわいな……」

「少しだけだから。ねっ?」


 兄は頷いた。そして、のろのろと着替えた。俺はリビングにいた両親に声をかけた。


「佑くんと散歩してくる!」


 母が驚いた顔をして玄関に出てきた。


「二人とも、気を付けてね」

「俺がついてるから、大丈夫だよ」


 ただでさえ閑静な住宅街だ。人は一人も歩いていなかった。兄に合わせてのんびりと歩いた。最初は足元を見つめていた兄も、次第に顔を上げ、夜空を見つめた。


「こんなに星、綺麗に見えたっけ」

「寒いから余計に透き通って見えるんだよ」


 そして、一軒家のところまできた。あの猫を埋めた場所だ。話題に出さない方がいいかと思ったのだが、兄の方から言ってきた。


「ここ……猫のところだよな」

「うん。佑くん、覚えてたんだ」


 駐車場にあったのは高級車。子供用の自転車も二台置いてあった。兄は立ち止まって家を眺め、呟いた。


「せめて……動物病院とか、連れて行けばよかったよな」

「あの頃は思いつかなかったね」


 白い猫だった。もしかしたら、まだソーセージなんか食べられないくらい幼かったのかもしれない。少しずつ小さくなっていった命の灯火。あの時も、冬だった。


「僕、あの猫のことをたまに夢に見るんだ」

「佑くんも……?」


 兄との楽しい思い出なら沢山あるのに、よりにもよって、二人ともあの記憶。俺はいたたまれなくなって、兄の手を引き、その場を離れた。


「そろそろ帰ろう、佑くん」

「うん……」


 帰宅して、俺は一旦シャワーを浴びた。それから、兄の部屋に行った。まだ起きているだろうと思ったのだ。兄はうつ伏せになっていて、俺を見て枕から顔を離した。


「佑くん、もう少し話さない?」

「いいよ」


 俺は床に置いてあったクッションの上に座った。兄はそのままだった。俺は一方的に話し始めた。


「駅前のドーナツ屋、潰れたでしょ。あの後、クレープの店になったんだ。けっこう美味しいらしいよ。今度買ってきてあげようか?」

「チョコがいいな」

「佑くん、チョコ好きだもんね。誕生日のケーキも絶対チョコだった」


 それから、今まで貰った誕生日プレゼントについて話した。小学生になってからは、二人で遊べる対戦系のゲームソフトをねだった。のめり込みすぎて、充電ケーブルを隠されたことも思い出した。高校生になって、兄はアコースティックギターを買ってもらっていた。そのことを口に出した。


「佑くん、あのギターどうしたの?」

「就職する時に邪魔になって売っちゃったよ。勿体ないことした」

「結局ほとんど弾けなかったんだっけ?」

「そうだよ。今からでもまた練習したいな……」


 兄がやる気を見せた。間違いない。いい方向に向かっている。俺はそれからも、何かやりたいことはないのかあれこれ質問した。兄は困ったように眉を下げたが、やっぱりギターがしたいと言った。そうこうしているうちに、すっかり深夜になってしまった。


「じゃあ、佑くん、そろそろ寝るよ」


 俺が立ち上がると、兄はすがるように俺を見た。


「待って……行かないで」


 それは、あの猫のような目だった。

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