理由
ある日曜の昼下がり。
押し入れの中に頭を突っ込み美季が何かを探していた。
「何探してるの?」
押し入れから出ている腰から下に楓は話しかける。
「大きめの花瓶。あんまり使わないからって奥にしまっちゃって…って、あらー!カエデ見てごらん。」
ハイハイのバックバージョンで押し入れから頭が現れた。その手には、卒園アルバムが握られていた。
「見て見てー。かっわいい~。カエデは泣き虫でさ、バスがお迎えに来ても全然泣き止まなくて、大変だったんだから。」
「そんな昔の話、今更されてもな…。」
楓は卒園アルバムをめくった。
―――十四年前。
「やーだー!やーだー!行きたくないー!」
幼稚園カバンを投げ捨てて抵抗する三歳の楓の声が、少しだけ開いた玄関のドアの隙間から響き渡っている。少し開いたかと思うと、またすぐにガチャンと閉じてしまう。
そんな楓をどうにか外に連れ出そうと、手を引いてみたり抱っこしてみたりを繰り返す美季の姿があった。
「カエデ、もうすぐ幼稚園のバスがお迎えに来るよ~。お友だちたくさん乗ってるよ~。」
猫なで声で話しかけるが、そんな言葉は楓の耳には届かない。なんとか外には出られたが、少しでも手の力を緩めれば家の中に逆戻りしてしまうほど道路とは反対の方向へ進もうとしている。
「やーだー!おうちに入るー!」
そうこうしているうちに、遠くに黄色いバスが走ってくるのが見えた。
「ほらっ!バス来たよ~。黄色いバスだよ~。」
それを聞いた楓は更に声のボリュームを上げて泣き出してしまった。
涙と鼻水でグズグズになっている。
泣きじゃくる楓の目の前にゆっくりとバスが横付けされると、プシューっとドアが開き中から笑顔の先生が降りてきた。
「カエデくーん。バスに乗って、みんなと一緒に幼稚園に行って遊ぼう?カエデくんは、何で遊びたいかな?」
美季のお腹に顔を押し付けて泣き続けている。先生は楓の手を取りバスの中へ連れていこうとするが頑なに美季から離れないので、先生は抱っこして暴れる楓をバスの中に連れていった。
「すみません。よろしくお願いします。」
申し訳なさそうに美季が頭を下げ、窓際に座り涙を流す楓に手を振った。
「いってらっしゃい。」
閉まっている窓からでも楓の泣き声が聞こえてくるが、美季はグッと堪えて笑顔を見せた。
そして、バスはゆっくりと動き出した。バスの後ろ姿は、数百メートル進むとブレーキランプを赤く
遥もまた、同じバスに乗って今日から幼稚園に行くのであった。
遥は理咲の手をぎゅっと握り下を向いて今にも泣き出しそうになっていた。黄色いバスが楓の家に止まっているのをチラチラ見ながら、ずっと止まっていてほしいと願っていた。
止まってから結構な時間が過ぎると、バスはウィンカーを上げて道路を走りはじめる。バスの大きい窓がだんだんと近づいてくる。
遥は理咲の手を更に強く握った。
「ほら、バス来たよー。カエデくんも乗ってるよ。」
バスの窓を見上げた遥の目に飛び込んできたのは、涙でぐしゃぐしゃになった楓の泣き叫ぶ顔だった。これには遥の方が驚き、今まさに流れようとしていた涙は一瞬にして引っ込んでしまった。
「カエデくーん。大丈夫だよー。今、ハルカも乗るからね!」
プシューっとドアが開き、すでに疲れの色を見せる先生が、おはようございますと言って降りてきた。そして、改めて遥の方に向き直るともう一度あいさつをした。
「ハルカくん、おはようございます!」
「…おは、よう…ご…」
遥の声は消えそうなほど小さく、最後の方は何を言っているか聞こえないほどだった。
「いってらっしゃい!先生、よろしくお願いします。」
理咲の手を観念したように離すと、遥はバスの中へと入り泣きじゃくる楓の隣に座った。
先生とバスの運転手さんは、理咲の方を見ると笑顔で会釈してバスはゆっくり幼稚園へと向かっていった。
「…う、う、はぁー、ずびーっ。」
遥の隣では数日分の涙を一気に流したような楓が、しゃくりあげて泣いている。
そんな様子をしばらく見ていた遥は、楓の手を握り「カエデくん、だいじょうぶだよ。ぼくがいるから。」
と言って、ハンカチで楓の涙を優しく拭った。
それから楓は「ひっく…ひっく…」と少しずつ泣きやみ、幼稚園に到着する頃には遥と窓の外を見てニコニコしていた。そんな姿を見て、先生もほっと一安心した様子だった。
「みんな着いたよー。ゆっくり降りて教室まで行きましょうね。」
楓は新たな場所へ向かうと分かると、また目が潤み始めた。はいっと手を差し出す遥の手をじっと見て、決心したように手をぎゅっと握った。
「ハルカくん、だいすき!」
「ぼくもカエデくんのこと、だいすきだよ!」
バスに乗ってから教室に向かうまでの、この一連のやり取りは、このあと暫く続くことになる。
楓はその後から少しずつ泣かなくなった。
楓はこの時からずっと遥のことが大好きなのだった。
―――楓はパタンとアルバムを閉じた。
「カエデはハルが居なかったら登園拒否してたね!本当にハルには感謝してるよー。」
美季はようやく花瓶を見つけて、キッチンの方へ行ってしまった。
「あ、ごめーん。押し入れ閉めといてくれるー?」
「わかった。」
楓は卒園アルバムを手に取りやすい場所にそっとしまった。
「変わらないな…俺。」
・・・・・・・・・・・
「昨日アルバム見つけて、そんなこと言われてさ。…だから俺はハルカが居なかったら登園拒否になってたらしいよ。」
「はは。三歳で登園拒否はヤバイよな!それを言ったらさ俺だってカエデが居なかったら登校拒否になってたかもしれないし。」
―――七年前。
小学校の一年生までは、同じくらいの身長だった二人だったが二年生あたりから楓の頭のてっぺんが、遥の上をいくようになった。
四年生になる頃には五センチ以上差が開いていた。
その日、遥は朝から体調があまり良くなかった。熱があるわけではなかったので学校には来たものの、やはりいつもの調子が出ない。
なんとか一時間目の授業が終わり、次は体育の授業なので着替えようと机の上に体操着を広げた。
立ち上がろうとした次の瞬間―――
「うっ。」
低い声がしたかと思うと、遥は口を押さえている。指の隙間からポタポタと吐いたものが、体操着や自分の服にも滴り落ちていた。
周りにいたクラスメイトは、そんな遥の様子を見て騒ぎ出した。
「うわ、汚ねえ!」とふざける者、心配はするが遠くから見ているだけの者、先生を呼びに行く者、そんな騒然とした中で楓だけが、すぐさま遥の傍に来てハンカチで口元を押さえる。
「大丈夫か?口ゆすいで保健室行こう。」
遥の体を支えるように横から肩を抱き、ゆっくりと教室を出ていく。
保健室で熱を測ると平熱で、吐いたおかげで少し気分が楽になったようだった。
養護教諭の先生に、少し休んだほうがいいと言われ遥はベッドで横になることにした。
汚れてしまった服を脱いでビニール袋に入れる。
「体操着ってあるかな?」
「体操着も汚れちゃったんです。」
遥が暗い声でポツリと答える。
「ちょっと待っててください。」
傍らで心配そうに見ていた楓はそう言うと、教室まで急いで戻り自分の体操着を掴むと大急ぎで保健室まで戻った。
「はぁ…はぁ…これ…使ってください…」
楓は肩で息をしながら先生に自分の体操着を渡した。
「取ってきてくれたの?どうもありがとう。」
カーテンをそっと開くと、先生は遥に楓の体操着を手渡した。
「早坂くんが貸してくれたの、これに着替えようか。」
「カエデ、ありがとう。」
カーテンの向こうから聞こえる声に、なんだか楓は照れくさくて、くすぐったい気持ちになった。
「先生、僕は教室に戻ります。ハルカのことよろしくお願いします。」
そう言って、楓は保健室を出て行った。
楓の体操着を頭からかぶり袖を通すと、ふんわりと優しい香りがした。楓に守られているような気がして、それから遥は給食の時間までぐっすりと眠った。
チャイムが鳴り終わると、保健室の扉がガラガラと開く音がした。カーテンの向こうに影が見える。
「ハルカ?気分どう?給食食べられそう?」
「ぐぅ~」
遥の言葉より先にお腹が素直に答えた。
「はは。お腹空いた!教室戻るね。」
朝より格段に顔色も声も元気になった遥が、カーテンをシャーッと開け楓の前に飛び出してきた。
「カエデ、体操着ありがとう!なんか、すごいいい匂いする。」
真っ直ぐな目でそんなことを言われた楓は、なんと返事をしたらいいのか分からなくなった。ただ、嬉しさが隠しきれず口元が少しニヤけていた。
教室に戻ると、ふざけていた男子数名が遥の元にやってきた。
「廣宮くん、さっきはごめん。体調大丈夫?」
こっぴどく叱られたのか、沈んだ顔をしている。
「大丈夫!気にしないでよ!」
遥にそう言われると、みるみる皆の顔に明るさが戻った。
それから遥の体調はすっかり良くなり、そのまま午後の授業を受けて下校することが出来た。
「俺、カエデの匂い好き!なんか好き!」
何気なく言ったはずの言葉だったが、口から出たあとに急に心臓が早くなるのを感じた。
(俺、カエデの匂いが好きなのかな。…匂いも好きだけど、…俺、カエデが好きなんだ。)
今までももちろん楓のことは好きだったが、この時の「好き」は今までの「好き」とは違うと遥は感じた。胸がドキドキして、顔が熱くなって、そんな初めての感覚だった。
今まで誰かを好きになったことが無かった遥だったが、まさか初めての好きな人が幼馴染の男子であることに自分が一番驚いていた。
それでも、この気持ちは大切にしようと思える遥がいた。
・・・・・・
並んで歩く楓の横顔を盗み見る。
(あれから俺、カエデのことずっと好きだな。)
自分の気持ちに気付いてからは、冗談でも「好き」と言えなくなった。それはもう、冗談ではなく本気になってしまったから。
しかし、お互いが抱くこの気持ちが『不正解』だと気付かされる、中学時代のある放課後の出来事が、二人を頑なにこの『幼馴染』『友達』という固く頑丈な枠から抜け出すことの出来ない要因を作っていた。
―――二年前。
「なあ、あいつ男が好きらしいよ。」
放課後。教室に残る数人の男子生徒が、机に座り話している。自分の席で帰り支度をしていた楓は、サーっと血の気が引いたのを感じた。
「マジで!?うわー、キモっ!」
その声は確実に楓の耳まで届いていた。
「ヤバイよな?男同士とか…有り得ねえ!」
楓は下を向き、冷たい指先を見つめギュっと目を閉じた。
「早坂もそう思うよな?ヤバくない?」
楓は瞑っていた目をパッと開き、話している男子の方に視線を送る。
楓は、自分のことを言われていた訳じゃないと分かり安堵した。しかし、ここで「俺も男が好きだ。」なんて言ったら、それこそ大変なことになる。
友達は離れていき、遥にだって軽蔑されるかもしれない。自分の気持ちを外に出せば遥にも迷惑がかかる。そう思った楓は周りの男子に同調するしかなかった。
「…ああ。そうだな。」
「だよなー!月村ヤバいよ!」
月村というのは隣のクラスで、前髪が目にかかるほど長く色素が薄いせいで光の具合で髪を染めているように見える、線の細い男子だ。
楓は、月村の姿を見たことはあっても話したことは無いくらい接点がなかった。
ただ、男子にしては綺麗な顔をしているなと思うことがあったな、と楓は考えていた。
そんな楓たちの会話を教室の外で聞いている遥の姿があった。聞いてはいけない会話を聞いてしまい気持ちがザワザワして落ち着いていられなかった。
(やっぱり、気持ち悪いと思うよな。カエデのことが好きなんて言ったら…。)
遥は音を立てないように後ずさりして、ドアから離れていった。
お互いが、自分の気持ちを伝えてはいけない理由を見つけてしまい、ただ隣にいるために隠して、嘘をついて、取り繕って、バレないように生活することを強いられた。
気持ちが溢れたら、大切な人との日々がその瞬間、終わってしまうと思ったから。
『幼馴染』の檻。
『友達』の檻。
『男同士』の檻。
二人はあれから、檻の中で生きてきた。
しかし、檻には鍵が掛かっていない。
出ようと思えば簡単に出られるが、二人はそれをせずに大人しく、自分の気持ちの痛みに耐えながら、過ごしてきたのだった。
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