夏休み
ジリジリと痛いほどの日光と熱が町全体に覆い被さる七月。じっとりとまとわりつく汗と湿気に嫌気がさす程だった。
明日から始まる夏休みにクラスの雰囲気は浮き立っていた。
「お前らさぁ、宿題あること忘れんなよ~!」
山田は、問題集やプリントなど教卓の上にドサッと乗せる。
壁のように見える宿題の量にクラス中から不満の声があがる。
配られた宿題を目の前に山積みにして遥は机に突っ伏した。
「カエデー、俺これ終わらせる未来見えないよ。」
「はは。そうだな。ハルカ一人じゃキツイかもな。」
遥は次の言葉に期待して、続きを待った。
「…藤乃さんなら、勉強得意だし手伝ってくれるんじゃない?」
てっきり自分が手伝うと言ってくれると思っていた遥は、その言葉に黙ってしまった。
「ハルカ、どうした?」
「え、あ…ううん。なんでもない。そうだね、藤乃さん勉強得意だもんなぁ。」
上手く笑えない顔を隠すために、カバンに宿題をしまいこんだ。
「ハルカ、帰ろう。」
「あ、ごめん!俺、今日寄るとこあるから先行く。」
ガタガタとイスを直し、慌てた様子で教室を出ていってしまった。
(これでいいんだよな。)
少し斜めになった遥の机を直し、これから始まる長い夏休みに思いを巡らせた。
靴に履き替え足早に学校の門を出ると、後ろから声をかけられた。
「ハルカくん!」
振り返ると彩水が息を切らせながら走ってきた。
「藤乃さん。」
「途中まで一緒に帰っていい?」
遥はカバンを肩に掛け直し、彩水が横に並ぶのを待った。
「今日はカエデくんと帰らないの?」
「あ、…うん。用事あるからって先来ちゃったんだ。」
彩水は慌てた様子で呼び止めたことを謝った。
「ううん。大丈夫。用事なんて無いから。」
一瞬、悲しげな表情が浮かんだような気がして彩水は遥の横顔から目が離せないでいた。
「俺、いつもカエデに頼ってばっかりで。幼馴染だからって言い訳にして甘えてた。かっこ悪いよね。」
「かっこ悪くなんかないよ。私には二人の関係を超えることは出来ないから、うらやましいなって思っちゃう。」
「私ももっとハルカくんと仲良くなりたいって思ってるよ。」
こちらを向いた遥の目を見て柔らかな笑顔を向けた。
「夏休み、どこか行きたいところある?」
「ハルカくんと一緒に花火大会に行きたい!」
遥はスマホを取り出し、彩水に日にちを確認するとカレンダーの予定に打ち込んだ。
「これでOK!」
そんな姿を見て彩水も嬉しくなり、同じくスマホに予定を入れた。
そうして歩いているうちに駅が近づいてきた。
「それじゃ、ハルカくん。また連絡するね。」
信号が青になると彩水は横断歩道を渡り、胸の前で手を振っている。遥も同じように手を振る。
彩水の姿が見えなくなると「よしっ。」と向きを変え、学校を出た時より少しだけ晴れやかになった顔で遥は家へと向かって歩き出した。
――夏休みが始まって一週間。
学校のない平日は何故にこう時間の進む速度が二倍三倍に感じるのか、遥はスマホの時計を見ながら思った。
夏休みに入ってから一度も楓から連絡はない。
遥はLINEの画面を見ながら、楓に何か送ろうとするが丁度いい話題が思いつかず、ただトーク画面をスクロールするしかなかった。
その時、LINEの通知音が鳴る。
彩水からだった。
『明日、十七時に鳥居の前に集合で大丈夫?』
遥はOKと手でマルを作っているキャラクターのスタンプを送った。
――次の日。
夏の十七時はまだまだ暑いし、明るい。
鳥居をくぐった先には屋台が並んでいる。
遥は真っ赤な鳥居の足もとで彩水が来るのを待っていた。
遥は、黒と紺の柄が切り替えになっている浴衣を着て、慣れない下駄のつま先をトントンと地面で鳴らしていた。
「ハルカくん?」
下を向いていた遥が、名前を呼ばれて顔を上げるとそこには、白地にピンクや薄紫の撫子の花が描かれた浴衣を着た彩水が、少し不安そうな顔から笑顔になって立っている。
「ハルカくん、浴衣似合うね。違う人かと思って声かけるの勇気いった。」
はは、と笑うと遥は少し前屈みになり、彩水の顔を見た。
「藤乃さん、髪型可愛いね。いつも下ろしてるから新鮮。浴衣もすっごい似合ってる。」
そうかな、と照れて頬をかく彩水の髪で、金魚の髪飾りがキラキラと涼しげに揺れた。
――三十分後。
「カエデくん、おまたせ!遅かった?」
「ううん。俺が早く来ただけ。」
同じ鳥居の前で、楓と実弥も待ち合わせをしていた。
楓はシンプルな藍色の浴衣を着ていたが、長身の体に良く似合っていた。
実弥は淡いイエローに赤い椿の花の浴衣を着て、くしゅっとした兵児帯が歩くたびにフワフワと揺れた。
「カエデくん、かっこいい。女の子たちみんなカエデくんのこと見てたよ!」
「そんなことないよ。それより、なにか食べる?」
境内に並んだ屋台を端から見ていく。
「りんご飴は外せないでしょ…あと、たこ焼きも食べたいし、かき氷もいいなぁ。」
「そんなに食べられる?」
ソースの匂いや甘ったるい匂いがそこらじゅうに漂っている。
空はだんだんと夕焼けのオレンジからピンクが混ざった濃い紫色へと変わり始めていた。
花火の打ち上げ時間が近づくにつれ、見物客で賑わってきた境内は思うように歩けなくなってきた。
彩水は前を歩く遥の浴衣の袖を掴んだ。
「あのね、ハルカくん。はぐれちゃいそうだから、手…繋いでもいい?」
彩水の突然の問い掛けに遥は思わず足を止める。急に止まったので彩水は遥の肩にぶつかりそうになる。
「あ、ごめん。…人、多くなってきたもんね。」
そう言って遥は左手を差し出した。彩水の華奢な指が遥の手のひらに重なり、彩水はキュッと手を握った。追うように遥も彩水の手を包んだ。
肝試しの時に繋いだ楓の手の感触が忘れられないでいた。あの時は楓の手から伝わる熱で守られているように感じた。
そんなことを考えていると、ヒューーっと甲高い音が上空に上がっていき、ドーンという音の後に大輪の花が咲いたように夜空を花火が彩った。
周りからは歓声があがった。
同じ頃、楓と実弥も見物客にぶつかりそうになりながら境内を歩いていた。
大きな音と共に色とりどりの花火が打ち上がると、実弥は上を向いてきらめく光を見ていた。
その間に、楓との間に人が流れてきて見失いそうになってしまった。
実弥は周りの人よりも頭一つ分高い楓の後ろ姿を追って、真横に追いついたタイミングで腕を組んだ。
「ごめん。歩くの早かった?」
「大丈夫。これなら迷子にならないから。」
実弥は照れ隠しで楓の腕にぎゅーっと力を込めた。
楓は、肝試しで気を失った遥を抱えた時の腕に残る感覚を思い出していた。
お互いがお互いのことを考えていた瞬間、すれ違いざまに楓と遥は目が合った。この人混みの中で、まるで二人以外消えてなくなったような、錯覚を起こすほど鮮明に見つめ合った。
しかしそれは一瞬の出来事で、すぐに隣にいる彼女の存在に気づいた。
遥は彩水と手を繋ぎ、楓は実弥と腕を組んで歩いている。その光景が目にうつった瞬間、人の波が一気に押し寄せた感覚になり、そのまま二人は反対の方向へと流されてしまう。
彩水と実弥はすれ違ったことに気付いていないようだった。
心臓が激しく動いている。
会いたいと思っていた人の、見たくない場面に出くわしてしまい、胸が締め付けられるような思いだった。
真上で響いているはずの花火の音も二人には遥か遠くにぼんやりと籠った音にしか聞こえなかった。
風に乗って煙の香りが微かに辺りに流れてくると、花火大会は終了時刻となっていた。
夜風が通る道を、遥と彩水は手を繋いだまま駅へと向かっていた。
「ハルカくん、楽しかった?」
「楽しかったよ。今日はありがとね。」
駅に着いたところで遥が手を緩めると、彩水は少し名残惜しそうにゆっくりと手を離した。
「また出掛けようね!」
遠くに電車の音が聞こえてくると、彩水は二~三歩前進するとクルッと振り向き遥に小さく手を振った。
「私も家が近くだったら良かったな。」
少し不満そうに頬をふくらませると、彩水はニコッと笑った。
遥は少し困ったように微笑むと
「またね、藤乃さん。気をつけて。」
と、彩水が見えなくなるまで見送った。
楓と実弥は駅とは反対の道をバス停に向けて歩いていた。
「カエデくん、今日ありがとね!すごい楽しかった。」
「言ってたもの全部食べてたね。」
実弥の左手にはりんご飴が握られている。
「もちろん!お祭りといったら屋台だからね!それにカエデくんと花火見れて嬉しかった。」
急に照れたように顔を逸らし、楓の腕からするりと抜けるとバス停へと小さく駆け出した。
ちょうどバスのヘッドライトがゆっくりと近づいてきた。
実弥は、バスに乗り込むと窓側の席に座り楓に手を振っている。
「またね、カエデくん。」
と聞こえない声で、大袈裟に口を開けて言葉を伝えようとしている。
楓は頷くと、「ま、た、ね」と口を動かし実弥に手を振った。
空を見上げると、月が出ていた。ぼんやりと浮かぶ月を見ながらさっき見た光景を思い出していた。
キュッと心臓を掴まれたような、そんな感覚を覚えた。
一つ星が流れたが、楓も遥も気づくことはなく、ただゆっくりと家に向かい歩を進めていた。
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