第4話 これがあたしのバレンタイン

 翌朝、千紗は洗面台の前で、呻吟していた。母のヘアアイロンを借りて、寝癖を直しているのだが、やりつけないので、上手くいかない。

「あちっ」

挙げ句、ヘアアイロンで火傷をする始末だ。


「何、どうしたの」

母が千紗の声を聞きつけて現れた。そして千紗を一目見るなり、すべてを了解した顔で、

「髪の毛、直すのね。ちょっとかしてごらん」

と言って、千紗からヘアアイロンを受け取ると、慣れた手つきで寝癖を直してゆく。

「どうする? 後ろに流す? それとも内巻かな」

「う~ん、内巻で」

「お客さん、髪の毛のコンディションは良いから、きれいに仕上がりますよ」

そう言って、母は、あっという間に千紗の髪を整えてしまった。

「はい、出来上がり。じゃあ、続いてお母さん使うから」

「うん。ありがと、お母さん」


 弾むようにそう言うと、千紗は自分の部屋にとって返し、箪笥の上の鏡の前に立った。右に左に頭を動かしながら確認する。あら、こんな風に内巻にすると、あたしもそれなりの女の子に見えないか? 千紗は嬉しくなって、思わずぴしゃっと口に手を当てた。


 そして、たんすの小引き出しから、伝家の宝刀、レモンエッセンスを取り出すと、自分の頭に盛大に振りかけた。

「いちちちち」

一部が目に入ってしみる。千紗が慌てて手で拭うと、レモンの爽やかな香りが立ちのぼった。千紗は、それを胸いっぱいに吸い込むと、満足げに頷き、部屋を飛び出した。


 いつもの場所で山田菜緒と落ち合うと、二人そろって学校に向かう。

「あれ、ゴンちゃん、今日、なんかいい匂いしない?」

歩きながら、菜緒が鼻をすんすんさせて言った。

「わかる?」

千紗は嬉しくなって、すぐにネタばらしをする。

「これ、レモンエッセンスなんだ。今日、振りかけてきたんだよ」

「ああ、そうなの。確かにレモンの香りだ。良い匂いだね」


 外を歩いていて香りが伝わるなんて、ちょっとかけ過ぎたかな、と思いつつも、自分からレモンの香りがすることに、千紗は大満足だ。

 学校に着くと、いつもは見かけない一年生の女の子達が、二年生の下駄箱をうろうろしていたりして、もうすでにイベントが始まっていることを、千紗は感じた。


 千紗が上履きに履き替えて顔を上げると、一番右の上から二番目の靴箱に、薄いピンクのリボンがついた小袋が入っているのが見えた。一瞬、誰の靴箱だったっけ、と思ったが、わざわざ近づいて確かめることはしなかった。


 不参加、不参加、と、口の中で唱えながら、千紗は、階段の踊り場で、隣のクラスの男子が、三年生の女子からチョコレートを貰っている脇を小走りで通り過ぎ、廊下で、朝からさやか達と上機嫌で談笑する菊池には見向きもせずに、教室に入る。


 いつも以上にハイテンションな教室の騒音に、いささか顔をしかめながら、千紗は自分の席に着いた。そして、いつものように、後ろの席の小林洋子とお喋りしていると、関町浩介がずかずかと入ってきて、隣の机に音を立てて鞄を置いた。

「くっそ、つまらねぇ」

関町は、吐き捨てるように言った。

「どいつもこいつも、バレンタインってさ」

「まぁまぁ、今日だけだって」

小林洋子が取りなすように言うと、

「どうせ、お前らだって、どっかの誰かにやるんだろ」

と、不機嫌全開だ。


「私はやらないよ。だって、特に好きな男子、いないもん」

小林洋子が、あっさりと言った。アニメオタクの洋子には、アニメの中にしか、好きな人はいないのかもしれない。

「あたしも、そうだよ。バレンタインは不参加」

千紗が続いた。

「二人とも? そうなんだ。そう言う女子もいるんだ」

「いるよ」


少し落ち着きを取り戻した関町が、急にくんくん辺りを嗅ぎ出した。

「あれ、なんか匂わねぇ」

「そりゃ、今日はチョコが飛び交っているもの」

「いや、チョコじゃない」

関町は、目を閉じて嗅いでいる。

「うーんと、うーんと、あ、わかった。レモンだ」


 その瞬間、千紗は自分の顔が強張るのがわかった。やっぱりつけすぎたかな。

「なぁ、なんか、レモンの匂い、するよなぁ」

「うん、する。ゴンちゃんから」

そう言うと、二人が同時に千紗を見た。

 二人の視線に囲まれて、千紗は自分が紅潮するのがわかった。ここまであからさまにばれて、ごまかす事ってできるかな。できないな。

「あの、あの、レモンエッセンスを少しつけてきたの」

千紗は小声で白状した。

「レモンエッセンスか」

小林洋子が言った。

「本当のレモンの香りみたい。良い匂い」

「でもあたし、加減がわからなくて、つけすぎたのかも」

「ううん、そんなことないよ。でも、香水じゃないから、香りが飛ぶのも早いんじゃない。大丈夫、大丈夫」

と、千紗を見てふっくらと笑う洋子に、千紗は何だか胸が一杯になった。


 小林洋子は、アニメオタクで、少し変わっていると思われている。でも、近くの席に座って千紗がわかったことだけど、彼女から、嫌な言葉を聞いたことがなかった。自分に大好きな物があって、それがとても大切だから、人にも大切な物があるだろうと、そんな風に考えられる結構すごい人だと、今の千紗は思っている。だって、こんな行き届いた言葉を言える人って、なかなかいないよ。

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