第9話 矢沢弘人 2

 矢沢弘人は、秋の文化祭の時の、演劇部の発表で、演劇部員でもないのに、主役の王子さま役をやっていた。

誰の目から見ても、存在が王子さまなのだろう。


その文化祭のあとから、バスケ部が練習をしている第1体育館は、矢沢弘人目当てのギャラリーで溢れかえっているそうだ。


うーーん!!

うっとうしい!!

これは、優しい中野先輩だって、だいぶムカつくだろう。


ってか、その演劇部の劇中で、矢沢弘人演じる王子さまと、恋に落ちる村娘役を、俺のクラスメイトの早川ちひろが演じていた。

王子さまが村娘を抱き寄せて頬にキスをした。

実際にしたのかはわからないけど、したように見えた。

ギャーーーーーー!!!!って、悲鳴に近い歓声が体育館中に響いた。

この劇は、中野先輩ももちろん観ていた。

お芝居だ、お芝居だよ!!

だけど、カノジョが観ているのをわかってて、それをするんだな!!


マジでさ!これを機に、別れればいいのにな~と思っていた。


 文化祭のあと、何日か経って、部活終わりの時間に剣道場に矢沢弘人が来た。

普段、矢沢弘人がこの時間に顔を出すことはない。

いつも、中野先輩は、途中まで方向が同じ大滝先輩と霜林先輩と一緒に帰っているし、矢沢弘人もバスケ部の誰かと一緒に帰っているんだと思う。

だから、部活終わりのこの時間に来るのは、一緒に帰ろうってことなのか?


道場の入り口で、ゆき!と矢沢弘人は呼んだ。


「あっ、えいちゃん……、着替えてくるから10分くらい待っててくれる?」


いつもと違って、声は暗いし、はぁ……とため息をついて部室へ歩いて行った。


ん?

どうしたんだ?

部活は普通にいつも通りだったから、具合い悪いわけじゃない。

矢沢弘人に対しての、いつもの笑顔ではなかった。

もしかして、ケンカしてんのか?

お!文化祭の劇のキスで、別れ話になってるとか?

よっしゃー!!


そんな気持ちで、俺は2人を物かげから隠れて見ていた。


「ごめん。お待たせ」

小さな声で先輩は言った。

いつもの笑顔はない。


これは、これは、やっぱ もめてる系?

話している声は、途切れ途切れにしか聞こえない。

矢沢弘人が何か言って、中野先輩は俯いて、

はぁ……と小さなため息をついた。


あんまり、よく聞こえない。

けど、とにかく もめている感じ。

キスがどうのこうのって聞こえてくる。

やっぱ、あのキスが原因で、中野先輩が別れ話を切り出したのかな。


「ゆき!」


なんか、デカい声でそう言って、そのあと何か会話をした。

と、思ったら、矢沢弘人が中野先輩に更に一歩近づき、先輩の頬を両手で包むと、顔を近づけた。


なんだか、これも劇の中のワンシーンなんじゃないかってくらい、なんてゆうか……きれいだった。


そして、そのキスは段々と激しいディープキスのようになっていった。

5分、10分、それ以上か?

実際は、もっと短い時間だったのか、わからない。

激しく、激しく、激しいキスだった。


涙がアゴから下に落ちた。

俺は、めちゃめちゃ泣いていた。

別れ話どころか、2人はこんなにも愛しあっている。

俺の出る幕なんて、どこにもないじゃないか。

俺は、泣きながら、走って帰った。

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