第10話


 「魔法の訓練をしてもらう」と言われて、庭を一通り案内されたが、その後意外なことに、莉々子は部屋へと戻された。


 「今日は色々あって疲れたろう。ひとまず休め」というのがユーゴの言い分だ。

 外に出たのは単純な道案内であったらしい。

 もしくは、莉々子に本当に異世界に来たのだと思い知らせるためか。

 広く明るい屋敷と庭を一通りぐるりと見せられた後に、最初の窓の一つもない監獄のような部屋に戻されるとそれだけで精神的にくるものがあるが、疲れていたのは事実だったので、少し助かる心地もした。

 ここに来てから、そう、時間が流れたわけでもないはずなのに、身体は全体的重く、こわばっていた身体が少し痛かった。


 部屋に鍵をかけられて、机に置かれたパンとミルクだけの質素な食事をもそもそと食べた後、ぼんやりと莉々子は ベッドに横になる。

 結論から言えば、ちっとも休めなかった。

 目を開いたまま、横になってぼんやりとベッドの天幕を見つめる。

 本当に、今は現実なのだろうか。

 夢を見ているのではないか。

 それとも、突如として精神疾患や認知症に羅患してしまい、妙な妄想や幻覚を見ているのではないか。

 あいにくと莉々子は精神科を担当したことはなかったため、少ない知識の中で、ここまで現実離れした妄想や幻覚を有する疾患を思いつくことは出来なかった。

 莉々子の数少ない臨床経験では、だいたいは、ある程度現実に即した妄想が多い気がするのだ。

 自分は女優であると思い込むとか、娘が常に背後に見えるとか。

 しかし、これが現実だと信じ切れない理由も多々ある。


(どうして、日本語が通じるのだろう)


 そう、莉々子が今この場に至るまで、ユーゴと話していた言葉はすべて日本語だ。

 ユーゴの発している言葉と、ユーゴの口型がまるで映画の吹き替えのように異なるということも、莉々子が観察する限りでは見受けられなかった。

 あまりそう言った知識が乏しいので言い切れないが、いままで莉々子がこの世界で見たもののほとんどは西洋風で統一されているように思われる。

 また、“ユーゴ”という名前は、明らかに日本のものではない。


(英語でもなさそうだろうけど……、フランス語……?)


 よくわからない。

 よくわからないが、しかし、このちぐはぐさ加減が、より非現実性を感じさせるのだ。

 夢の中でのごった煮具合に似ている。

 記憶やら現在気になっていることなど、あらゆる知識がごちゃ混ぜになった世界観。


 しかし、これが夢だとするのならば、現在の莉々子のこの思考はどうなのか。

 夢だと確信している覚醒夢、ではなく、夢ではないか、と疑うような状態。

 しかも、この触った感覚までもを再現するような生々しさ。

 ゆっくりとベッドのシーツの皺を広げるようになぞったこの手の感覚が夢だとは、莉々子には思えなかった。

 しかしまぁ、もしもこれがなんらかの疾患が生み出した幻想なら、莉々子は無力だ。

 医者に薬の調整やらなにやらをしてもらうのが何よりの解決方法であるし、適切な診断を下してもらうためにも、 変に疑うような真似をしない方が良いかもしれない。

 非典型な症状は、診断を誤らせる可能性がある。

 もしもこれが幻想ならば、信じて困ることはあまりなかったし、もしもこれが現実ならば、信じないのは致命的に自身の身を危険にさらす行為だった。


 つまり、信じておいた方がお得であるということだ。

 思えば、日本にいた時でさえ、今、現在の自分が現実であるという確証などどこにもなかった。しかし確証がなくとも確信していたのは、単純にそうしなくては何もできなくなってしまうからだ。

 足場がなくては、何もできなくなってしまう。

 今の自分が現実に存在すると信じなければ、身動きが取れず、恐怖の中で震えているしかなくなってしまう。

 どの時、どの場にいても、ある程度は自分の存在が現実だと信じ込まなければ、人間は生きてはゆけないのだ。

 ならば、今現在の自分は現実だと、そう断じることしか莉々子にはできない。

 ゆっくりと目をつぶる。

 今、何かを考えても、すべて益体のない不利益な戯れ言にしかならない気がした。

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