第15話 おはぎさん
「お疲れ様です内川さん」
渋々王子様の手を取ったように見えたコゼットお義姉様の表情が、じんわりと赤くなっていくのを確認したところで突然視界が切り替わった。
シンプルな室内に、少し暗めに設定された照明。ふかふかのソファーに沈む体と、柔らかい光を反射するビンの列。磨き上げられたカウンターには誰も座っていない。直前まで色彩の暴力に近いドレスや衣装を間近に見ていたせいで、棚に並ぶビン以外がほとんどモノトーンに感じた。
「っ! おはぎさんっ!?」
さっきまで抱えていたのに腕の中におはぎさんの重みがない。今までずっと一緒にいたのに。突然いなくなるなんて酷い。あれだけ無茶振りしてきたくせに。まだ胸の羽毛を思う存分触ってないのに。
じわりと眼球を濡らし始めた液体をどうにか止めようとしていたら、ペタペタという音と共に足元から声が聞こえた。
「ここですよ内川さん」
「おはぎさん!」
ソファーから立ち上がり、羽を広げてペタペタ歩いてくるおはぎさんに手を差し伸べる。差し伸べるというか、私も両手を広げて迎え入れた。ぎゅうぎゅうに抱きしめてもおはぎさんは何も言わず、羽も私が拘束して動かせないせいかくちばしだけでつんつんと頭を撫でてくれる。
「内川さん、無事シンデレラの物語は終わりましたよ」
「終わったんですか?」
「はい。内川さんが名付けたコゼットは、王子様と結婚して幸せになったので」
幸せになった。その言葉を頭の中で繰り返して、また泣き出してしまいそうな目をまばたきで誤魔化した。
「王子がマリーを見つけ婿入りした場面で合格点は出ていたんですが、その後にコゼットシンデレラ説を披露した事で追加点が加算されました。おめでとうございます、内川さんが望んだ通り、しっかり点数は稼げましたよ」
そっか、私合格したんだ。シンデレラを幸せにできたんだ。コゼットお義姉様は、幸せになれたんだ。
「まあ、あまりにも強引すぎる仮説を堂々とぶちかました、という理由での加点でしたが」
しんみりしかけたところに余計な一言を付け加えるのも、おはぎさんの仕事の一つなのか?
「では内川さん、戻りましょうか」
「戻る、とは」
「ここではない現実にですよ」
ああ、そういえばこれ、夢なんだっけか。起きたら忘れちゃうのか。せっかく頑張ったんだけどな。
「もう一度言っておきましょうか。これは夢ではありませんよ」
「やっぱりおはぎさん、私の心の中覗いてません?」
「この場所は物語のやり直しをする際の休憩所です」
ぐるりと周囲を見渡す。高級そうなバーカウンターも、きらきら光るお酒のビンも、漂う落ち着いた空気も、おはぎさんと出会った時から何も変わっていない。
「ここって休憩所だったんですか」
「はい。やり直しをする際は一度この場所へ戻って来るんです。同じ世界の中で時間の流れが一方通行ではないという状況は、脳への負荷が大きすぎますからね。やり直しが確定する度にここで休憩を取るのが義務付けられているんですよ」
「その割にはあまり安らげそうにない場所ですね」
ふふ、と思わず笑いが漏れる。最初にこの場所で目が覚めた時は動揺しすぎてそれどころじゃなかったけど、改めて観察すればどこもかしこも、それこそ札束で磨き上げられたであろう調度品に囲まれていた。
「この場所は前任者が希望した風景ですから。内川さんが休憩に使うときは、内川さんが一番くつろげる場所を思い浮かべてください」
「え、変わるんですか?」
「変わりますよ。言ったじゃありませんか、ここは休憩所だと。何度もやり直しを繰り返す事になれば、しばらく休憩所で物語の内容を吟味したり修正とはまったく関係のない事をしたり、そういった時間が必要になりますから」
「……何度も?」
「はい、何度も」
修正とはまったく関係のない事。それを人は現実逃避と呼ぶのではないだろうか。そんな時間が必要になるほどのやり直しとは。
そこまで考えて、前任者と呼ばれる女性の存在を思い出した。
ああ、あの人、多分何回もやり直しさせられたんだろうな。私が来て、物凄い喜んでたもんな。そういえばあの人、おはぎさんの事ストレス解消道具みたいな事言ってなかったっけ? そんなにストレスが溜まるほど、何度もここに?
そっと腕の中のおはぎさんに目を向ける。見上げてくるおはぎさんと目が合うけど、その表情からはなんの感情も読み取れない。
私もこれからストレスフルな事になるんでしょうかという気持ちをありったけ込めて、おはぎさんを見つめる。
「安心してください。物語を終わらせた内川さんがここで待機する必要はありませんから」
そう言って、きらっきらのエフェクトをかなり贅沢に使ったおはぎさんはにっこりと笑った。
「お疲れ様です」
まばたきをすると、LEDの光が部屋の隅々までくっきりと照らす部屋の中に私は座っていた。座っているのはさっきまで体を沈めていたソファーじゃない。黒く、みっしりとした素材のリクライニングチェアだ。
個室と呼ぶには広いけど数人入れば鬱陶しいだろうなという部屋の中で、私は一人で目覚めた。
いや、一人じゃないな。
「疑似体験お疲れさまでした。環境への順応、非日常の中での正常な思考の維持、入手した情報からの仮説展開と、独自の解釈。これら全てに適性ありと判断されました」
座っている椅子の耳元から声が聞こえてくる。直前まで感情を鷲掴みにされていたような記憶に引きずられ、咄嗟に状況判断ができない。
「ええと、貴方は……」
「疑似体験内での内川さんのサポート兼試験官です。次回以降もアヒルの形態でお供しますので、以降、余計な情報を入れないよう声だけでの案内とさせていただきます」
疑似体験。そうだ、私は自分の意思でこの椅子に座った。この会社に就職するために。
【読者に夢を見る権利を】
謎のキャッチコピーを堂々と掲げる不思議な求人に興味を惹かれ、大した考えもなく軽い気持ちで履歴書を送った自覚はある。だって、履歴書を送った時には普通の出版社だと思っていたのだ。そこは絵本や児童書を多く取り扱う会社で、数字の羅列を一日中見続けていた前職とは全く違う。お客様の顔を想像しやすい職に、憧れがあったのかもしれない。
『“疑似体験による物語の修正”とは、具体的にどういった業務内容なのでしょうか』
面接の最後に聞いた、仕事内容一覧の最後にひっそりと書かれていた項目。適性がある人にしか割り振られない仕事ですよという返事に、自分に適性があれば採用される確率が高くなるのではないかと考えた。
『試してみますか?』
その言葉に、頷かない理由なんてなかった。
「しばらくの間、脳は記憶の整理を優先します。体がふらつく事もありますので、安全のため十五分程このまま座ってお待ちください」
どうやら椅子に直接スピーカーが埋め込まれているらしい。耳元で聞こえる声は、距離の近さに反して心地よささえ感じた。この部屋に入る時も、椅子に座るよう案内をしてくれた時も、それから今も、この声の主は名前を教えてくれない。きっとこれからも私はこの人を、おはぎさん、と呼ぶことになるんだろう。
「適性が確認できましたのでこれで正式採用となりますが、何かご質問はありますか?」
疑似体験のテストなので環境への適応能力を確認するため、記憶はゼロからのスタートになる。そう聞かされた時はちゃんと意味が理解できていなかったけど、実際に体験して分かった。あれは予想外の状況に置かれた時の反応も見られていたんだろう。
「いえ、特にありません」
「分かりました、正式な採用通知は本日にでもお送り致します。同封の書類に記入の上、出社時にお持ちください」
「はい」
リクライニングチェアから体を起こし、脱いでいた黒いパンプスを履く。シンデレラの物語の中で私がずっと履いていた靴だ。面接だからとしっかり磨いたつもりだったけど、少し右足の外側が曇ってる。
「……内川さん、少し心理学の話をしましょうか」
「なんですか急に」
ここに戻ってきてからずっと事務的だった口調が、突然おはぎさんになった。
「継母と実母、そしてシンデレラを舞踏会へと行かせてくれる三つの存在は同一だという説があるんですよ。つまりマリーにとっての継母は、シンデレラにとっての実母だったという事ですね」
「へぁ?」
思いもよらぬ追加情報に理解がついて行けず呆然とする私に、おはぎさんは「なんて声出すんですか内川さん」とエフェクト無しの声だけで笑った。
魔女、育成中。 清河 海 @umi_kiyokawa
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