お隣さんの大学生

「あ、お兄さん。おはようございます。…なんかお会いするの久しぶりですね。」

「おはようございます。そうですね、ちょっと大学の方忙しかったので。」

 木曜日の燃えるゴミの日。有栖が来てからゴミ出しもやってもらっていたのもあるかもしれない。とにかくお隣さんに会った。パジャマではなく、グレーのパーカーにグレーのジャージといった完全な部屋着スタイルで。

「今日は一日いらっしゃいますか?後でクッキーを焼こうと思っていまして。良ければいかがですか?」

「いいんですか。嬉しいです。ずっと家にいますよ。」

 彼には電球を交換してもらったり、おすそ分けやお土産なんかを貰う仲だった。大家さんが紹介してくれ、わざわざ隣の部屋にしてくれたのだ。

 誰にでも丁寧な物腰で、ぴっちりとした人。

「良かったです。では。」

 部屋の前で分かれる。中では有栖が身支度を整えていた。


 有栖は吸血鬼の中でも高齢だ。それゆえ、白雪さんから偶にお呼び出しがかかる。不機嫌そうに、白雪さんに引っ張られて行くのだ。その日は必ず正装。和服だったりスーツだったりするが、今日は和服のようだ。スーツは寒いとか訳の分からないことを言っている。

「ゴミ出しなどさせて悪かった。ああ、しんどい。一秒でも早く帰ってこよう。」

「お客さんくるから急がなくていいよ。」

 目を丸くされる。

「家に招くほどの友人なんていたか?」

「ほんと失礼だな。」

 先程のできごとを説明する。

「なるほど。」

 それだけつぶやく。若干顏が陰った後、いいことを思いついたような笑みを浮かべた。それには恐怖を感じる、奥に黒いものが見えたと思う。

「まあ、楽しくやれ。」

 そう言って、白雪さんの部下を両側に従えながら、いつもとは違い楽しそうに出かけて行った。

「良く、分かんないや。」

 溜まった課題に取り掛かる。


 作り置きのオムライスを食べ、一時間昼寝。さすがにこの格好は、とピンクのジャージに着替える。あまり変わらなかった。

 チャイムが鳴る。ピンポン、よりペンポンと鳴るのが可愛い。

「お兄さん。どうぞ。」

 なんの迷いもなく、家に上げる。

「お邪魔します。…彼氏でもできましたか?」

 苦笑いで聞かれる。有栖の影があちらこちらにあるからだろう。

「親戚です。残念ですが。ここに居候し始めたんですよ。」

 あながち間違っていない回答を返した。


「紅茶、どうぞ。今回も素敵ですね。私このジャムのやつ好きです。」

「ありがとうございます。クッキー缶詰めるの好きなので。缶もどうぞ。」

「嬉しいです。」

 天根璃杏、人前の為おしとやかにテンション低めだが、内心飛び上がっている。有栖のクッキーとはまた違う味がする。有栖のはほろほろするが、これは硬い。どっちも美味しすぎる。お兄さんのクッキーは食べたことのない、甘さがあった。


「たくさん食べちゃってすみません。」

「いえいえ、頑張って良かったです。紅茶、おかわりいれましょうか。」

 立ち上がろうとする動作を見て、すぐに止める。

「お客さんにそんな…。」

 手をついたところで、身体に力が入らないことに気が付いた。


 そのまま、横に倒れる。立ち上がったお兄さんがとても遠くに見えた。

「ああ、そのままで。動けないと思いますけど。」

 見下ろされる目は、冷ややかで熱かった。


「どういうことですか。」

 有栖の件も含め、そこそこの事では動じなくなってきた。それでも、これは理解ができない。頭が上手く作動しない。

「僕、吸血鬼なんですよ。璃杏さんの同居人の方と同じです。」

 これはすぐにかみ砕けた。吸血鬼が狙ってくることは、想定できている。だが、どこまで知っているかは判断できない。

「知ってますよ。璃杏さんが純血で同居人が邪血だと。」

 不味いかもしれない。となれば、私のエンドは死だ。お兄さん、吸血鬼とに割り込むテーブルはあっけなくどかされる。

「じゃ、殺しますね。」


 有栖の話では、吸血鬼は純血を殺す、といった。いわば生理現象だ。殺されてしまうのは仕方ない。そう思っていたはずだった。

 どうしよう。今の、この生活を手放したくないと心が叫んでいる。誰かに必要とされ、愛される日々を。どうしよう。有栖はあと一時間は帰ってこないだろう。他の人を呼ぼうにもこの部屋は防音だし、声がそもそも出せない。スマートフォンを手にする力もない。

 吸血鬼が指を動かすと、連動して身体が動く。広くなってしまったスペースに寝転んだ。

「あのクッキー、甘かったでしょう?僕の血が、甘いんです。」

 背筋に悪寒が走った。普通にヤダ。有栖の血も甘かったようなことを思い出す。

「こういうときは首筋を噛むのが早いんですけど、璃杏さんを一瞬で楽しむのはもったいないので。」

 ジャージのチャックを下げる。

「失礼します。」

 礼儀正しさ、妙に丁寧なのが鼻についた。


 牙が刺さった、激痛が走った。なんでだろう。ただただ生暖かい血が流れていく。ジャージと髪は赤に染まりゆく。カーペットにも、殺人現場のように血が広がった。実際、殺されそうだ。

 依然、抵抗なんてできやしない。されるがままだ。僅かに出るようになった声は、痛みに呻くのを吸血鬼に伝えるだけ。

 数秒、消えそうな意識で最後に浮かんだ言葉は涙と一緒に零れ落ちる。

「…助けて、ありす。」

 これは、天根璃杏が初めて発したSOS。


 遠くで、指が鳴った気がした。その瞬間、吸血鬼は私から離れた。肩からの出血は、止まらない。

 帰宅した有栖は、なんといいタイミングの巡り合わせかと、天を仰いだ。侵入者を無視して璃杏へ近づく。

「良く言えたな、偉いぞ。」

 有栖が傷口に触れると、痛みはやわらぎ出血は収まった。

「寝ないで待っていてくれ。もうすぐだ。」

 見遣った床には、もがき苦しむ姿があった。


「俺の血を取り込んだんだ、それもかなりの量。拒絶反応が出るのは当然だ。」

 *吸血鬼が取り込んでよい同族の血液は、ひとさじ*

 有名な話だ。安い契約だと思われたのだろう。法則に逆らえば、待っているのは死だ。

「残念だったなあ。お前は幸運にも近くに純血がいた。俺より早く。でももう璃杏は俺のものだ。」

 指先から灰になって溶けていく。

「くそ、」

「アイデアは良かったぞ。」

 哀れな吸血鬼が誰かの視界に入ることは、もう二度と無かった。


 瞼は閉じられているが、落ちてはいない。

「痛むか。」

「…めっちゃいたい。」

 うっすら目が合う。苦痛に顔が歪んでいた。

「診せろ。」

 傷口に舌が触る。これで噛まれた衝撃がだんだん消えていくだろう。貧血か、焦点が定まっていない。

「俺の血を分けてやる。」

 唇を噛み、あの男と同じ所から入る。多少声が漏れたが、弱弱しい。それでも、切れた傷が治るころには多少顔色が良くなっていた。俺の血を廻しすぎるのも良くないだろう。

「造血剤と鉄剤、飲んでおけ。そしたら寝るんだ。」

「ずいぶん、じゅんびがいいね。」

 歯を見せて、笑った。


 初めての夜。ここへ来たときに隣人には気づいていた。だから契約するまではどうやっても侵入できないよう、持っていた人形を使役して見張っていた。陰陽師のようなやり口は気に入らなかったが仕方ない。

 いつか、手を出してくるだろうとは思っていた。それを利用する算段もついていた。

 璃杏は俺を頼らない。それこそ、バスタオルを取れだのは言ってくるが、もっと深い部分で助けを求めることを拒否している。だから、俺に絡まれても、吸血されようと逃れないのだろう。

 都合は良かったが不満だった。それの解消に、これを使った。璃杏が死ぬことは絶対にない。俺の血は遠隔で操作できる。それで、心臓を動かし続ければよい。

 吊り橋効果。璃杏は俺の事を強く意識した。俺に助けを求めた。それで、十分。多少の痛みは、仕方のない。勿論、腹は立った。まあ、どうせ死んだんだ。終わったことにしておこう。


「何も考えるな。俺がずっといる。」

 優しく微笑む者も、吸血鬼であることを忘れてはいけない。

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