弐:契約

 階段を下りた先にある部屋はとても狭かったが、地下室とは思えないほど明るかった。

 それは天井近くの壁にいくつも開けられている小さな穴から月光が降り注いでいるせいなのだろう。


「恭一郎が死んだのう」


 仄明るい部屋によく響く透き通るような低い声だった。

 さきほどまで仰向けに寝そべっていた彼の病的なまでに白い肌は染み一つ無く、月光に照らされて薄らと光っている。

 冷たい石畳の上に広がっているのは、夜の闇で染められた絹のような長い黒髪。

 地下牢に囚われている物の怪は、露わになっている上半身を隠そうともせずに立ち上がり、父上と同じ月色をした瞳でじっとこちらを見つめている。

 古めかしく、擦り切れた粗末な着物を腰に巻き付けているだけなのに、彼はあまりにも美しく、そして蠱惑的だった。


「その……」


 僕が歩を進めると、物の怪も木製の格子へ近付いてくる。物の怪の細い足首に付けられた銀の枷は、彼が動くとぶつかり合ってじゃらじゃらと背徳的な欲望をかき立てるかのような音を立てる。

 この空間は地下のくせに埃や黴の匂いはしない。変わりに、華や果実を煮詰めたような甘い芳香に満たされている。

 異様な空間を目の当たりにした僕の喉からは、わずかに掠れた声が漏れた。


「こちらへおいで」


「あ、あの」


 言われるがまま、数歩前へ進み出ると格子の隙間から真っ白で艶めかしい腕が伸びてきて、僕の顎をそっと撫で上げる。その甘い感触に背中がぞわっとして肌が粟立つ。これは不快だからではなく、若い女中の……特にキヨコの着替えを不意に覗いてしまったときに似た妙な高揚感から来るものだった。


「遠慮も恐怖も必要ない。お主の親父殿も、歴代の当主たちは皆やってきたことだからのう」


 赤くてらてらと光る舌、若い女のように柔らかそうな桜色をした薄い唇に目が行ってしまいそうになるのを抑えて、僕は首を横に振る。


「お主はわしにただ身を委ねれば良い。そうすればわしがお主に当主として相応しい力を授けてやる」


 誘うように、伸びてきた物の怪の指先が僕の首筋から胸元までを触れるか触れないかわからない程度のゆっくりと下がっていく。 

 美しい化物、契約に縛られた悪鬼、西洋から来た血を啜る不死の鬼……父や祖父から聞かされていた物の怪の逸話を思い出しながら僕は拳を握りしめて力を込める。

 物の怪の言うとおりにしてはいけない。


「乱暴にされるのが好みか? それとも乱暴にするのが好きか?」


 そんな僕を見て、不思議そうに首を傾げた物の怪は目を細めて口角の両側をもちあげながら「ニィッ」と妖艶な笑みを浮かべながら囁くように語りかけてくる。

 女のものとは違う低くて少し掠れた声は、頭の内側に張り付いている理性を猫の舌で舐めとるようにザラザラと削っていくような甘い感覚を呼び起こしてくる。


「逸物の有無は変えられんが、少年の見た目くらいにはなれるぞ? 稚児趣味があるやつらも過去にはいたからのう。お主もそうか?」


「ち、ちがう」


 声が震える。このままでいたら、きっとこいつに呑まれてしまう。

 握った手に爪を食い込ませて、痛みで正気を引き留めながら僕はようやく否定の言葉を口にした。


「物の怪、君と契約したらどうなるのか聞きたい。契約を急がなくても……いいだろ?」


「どうなるか……じゃと? ひひ……おもしろいことを聞くのう。そんなことわしよりもお主の方がよく知っているんじゃないか?」


 肩を揺すりながら笑う物の怪は、伸ばしていた手を引っ込ませて口元をかくして笑う。手で隠しているせいで、口元につい目が行くとさっきまで気にならなかった猫の牙のように鋭く尖った犬歯が目に入る。


「……あ」


 目を合わせてはいけないと言われていたことを忘れ、視線をあげると物の怪の月色をした瞳と目が合った。

 大きな虹彩とは真逆の小さな瞳孔がキュッと一回り小さくなったのと同時に、物の怪は再び腕を格子から伸ばしてくる。


「恭太郎の子よ……もっとその顔をよぉく見せておくれ」


 両手で頬を挟まれて引き寄せられる。踏ん張ろうと思ったが下半身には何故か力が入らず、そのまま倒れ込むように格子側に倒れてしまった。

 ぶつかった額の痛みを感じる間もないまま、吐息がかかる距離にまで物の怪の美しい顔が近付いていたことに気付く。

 慌てて体を格子から離そうとすると、思ったよりすんなりと物の怪は僕の頬を挟んでいた手を解いてくれた。 


「緋色の瞳は恭太郎譲りじゃな。お主の方が鮮やかかもしれんが」


「父上の……? 父上の瞳は……」


 息を深く吸って早鐘のように鳴る胸の音を落ち着かせようとする僕をからかうように、物の怪が更に言葉を続けた。

 父上の瞳は、お前と同じ呪われた色のはずだ……そう続けようとした言葉は、物の怪によって遮られる。


「ひっひっひ……お主の一族はなぁ、代々茜色の髪をして燃えるような緋色の瞳をしているんじゃ」


「……え」


「この村のニンゲンがわしとまぐわうとな、体のどこかに呪いの印が刻まれる。瞳の色が変わるのは一番強い呪いの印じゃ。他にもあるが、まあ、今はどうでもいいだろうよ」


 物の怪が動く度に、じゃらじゃらと枷が音を立てる。この物の怪を組み敷いて欲望を奥にぶつけるたびに、この枷はきっと心地よい音色を奏でてくれるのだろうなどという仄暗い欲望が鎌首をもたげてくる気がして、僕は慌てて両手で頬をひっぱたいて気を取り直した。

 そんな様子を見ながら腕を組んでいた物の怪が「ほう……」と小さな声を漏らして、ニヤリと唇の片側を持ち上げる。


「それにしても……お主は恭太郎よりも、その嫁の性質を濃く受け継いでいるとみえる」


「母上の?」


 乳母のハルから聞いた話では、僕の母上はとても体が弱く、僕が小さい頃に死んでしまったという。それ以外のことは何も知らない。父上も祖母も母上のことを聞くと嫌そうな顔をするか「忌々しい話をするな」と一喝されたので僕も興味を持たないようにしていた。

 

「ああ。恭太郎にそんな異能はないからのう。変わった女を嫁にしたと思ったが、早々にくたばってくれたのは残念じゃったのう」


「母上のことを知っているのか?」


「ひっひっひ……契約も何もしていないお主に話すことはなにもないわい」


 物の怪はまた口元を手で半分ほど隠して、妖しげに笑う。

 それから目に掛かりそうなほど伸びた前髪を掻き上げながら、僕へ再び視線を戻した。


「それにしても、わしの魅了の術が効かないとは興味深いものじゃな。くくく……見た目は恭一郎の若い頃にそっくりだというのに気質は全く似ていない」


「乳母にもおばあさまにも同じことを言われるよ。父上に似たのは顔だけだってね……」


 父上に似ていないことが僕が一番よく知っている。

 乱暴だけれど豪胆な腹違いの次男が跡継ぎになるべきだと乳母のハルや祖母が言うくらいには僕は当主とやらに向いていないらしい。


「ひっひっひ……当主に必要なのは呪われた力だけじゃ。じゃなければ、わしに対して猿のように腰を振るしか能の無い阿呆共が当主を務められるはずがない」


「……主人のことを悪く言っても良いのか?」


 威厳があり、畏怖の対象だった父上や祖父をそんな風に嘲笑う物の怪に驚いて、僕が思わずそういうと、意地悪そうに目を細めた物の怪がひひっと息を漏らしながらまた笑う。


「あやつが死んだ今、わしの主人候補はお主じゃからな。もうあの阿呆共は主人でもなんでもない」


 それから、小さな溜め息を吐いた物の怪は再びこちらへ近付いて来て、腕を伸ばしてきた。

 白くて美しい腕に捕まらないように格子から体を離すと、物の怪は手を引っ込めて冷たい石畳の上へぺたりと座り込んだ。


「のう、わらしよ。わしと寝なければ、お主は当主になれぬぞ。早くまぐわって契約をすませてしまったほうが楽だと思うんじゃがのう……」


 上目遣いで見上げられると妙な気分になってくる。目を合わせないように顔を横へ背けながら「契約はしない」というと、物の怪が「っは」とその言葉を鼻で笑い飛ばす。


「当主として得た力は、この村を襲う魑魅魍魎と渡り合うために必要じゃ。力を持たぬ者を村の者は果たして認めてくれるかのう……」


 それは、先ほどの僕を誘っていた時とは違う冷たい声色だった。思わず目を物の怪の居る方へ戻すと野獣のように鋭い視線をこちらに向けているのが顔を見なくてもわかる。


「僕が死んだらお前だって困るんじゃないか?」


「わしはお主の一族がどうなろうが構わんよ。わしがこの村を愛しているからここに囚われていると思っているのか?」


 僕は侮っていた。長年人間に仕えていた物の怪だから、本気でこちらを害そうとはしてこないだろうと。でも、こいつの声色を聞いて理解した。こいつは、自分を縛っている枷がなくなれば躊躇無く僕も、村の人たちも殺してしまう化物なんだって。

 村のやつらがどうなろうと構わない。でも、僕はまだやることがあるから死ぬわけにはいかない。


「じゃ、じゃあ、なんで僕の一族に力を貸しているんだよ」


 恐怖で声がうわずってしまう。当主として堂々と立ち振る舞うなんて無理だ。

 思わず出てしまった本音を聞いた物の怪がニタリと笑みを浮かべると、さっきまで息をするのも恐ろしい程に張り詰めていた緊張が解けるのがわかる。


「それも、今教えるわけにはいかぬのう。ひひひ……お主が当主になって命令でもすれば口を割るかもしれないがな」


 安堵したからか足腰の力が抜けて、冷たい床に尻餅を着いてしまった僕を指差して物の怪は言葉を続ける。


「ほれ、その股の間にぶら下がっておる逸物をちいと出し入れすればいいだけじゃろうて。それとも口淫がいいか?」


「こ、ことわる」


 艶めかしく動かされるてろてろと光る舌から目を逸らしながら、頭を抱えた僕をからかうように物の怪は笑う。


「契約についてなら、この馬鹿げた契約を考えたお主の先祖を恨むんじゃな。わしは別にニンゲンに抱かれるのが趣味というわけじゃあないからのう」


 細い顎を指で撫でながら、物の怪はそう言った。


「契約をしたくないのなら、何をしにここに来たんじゃ」


「僕の夢を叶えるために、契約をしないままあんたの力が必要なんだ」


「ほう……。ならば、わしの言うことも聞いてもらいたいんじゃがのう。例えば……わしの本当の心臓が村のどこかに封印されている。それを探してくれるとか」


「……タダじゃやってやらないぞ。きっと封印を解いたらあんたは僕のことも食い殺すだろう?」


「ひひひ……その通りじゃ。なかなか頭の良い童じゃのう」


 肩を竦めはするけれど、全く悪びれた様子もなくそう笑う物の怪は、腰を抜かしたままの僕と目線を合わせるようにしゃがんでさらに言葉を続けた。


「阿呆じゃない人間を見るのは久々じゃ。楽しませてくれた褒美にお主に有利な契約にしてやろう」


 どこまで信じて良いのかわからない。

 浮き上がった鎖骨や男のくせにやけに細い腰、腰に巻いた着物から見えるしなやかで美しい脚が僕を惑わせてくる。

 こいつを組み敷いてしまいたいという衝動が下腹部に集まろうとする度に、僕はキヨコの最期を思い浮かべてそれを耐えた。


「まぐわうんじゃなければ、考えるよ」


「それならなぁ……少しでいい。お主が貧血でフラつく程度の血を吸わせてくれりゃあ封印を探すまでお主に隷属してやろう。それならば、お主の魂も肉体も呪われはしない」


「……それだって……血を与えなくなったら僕のことを殺せるだろう?」


「そうじゃ。だから……真名いみなの契りを交わしてやろうじゃないか。わしの封印が解かれた後、お主の願いを一つだけ叶えてやろう」


「真名の契り?」


 いみなは知っている。親意外には誰にも教えてはいけない当主だけに与えられる名前。

 まじないをするときや、神とやりとりするときに必要になるという話だけ聞いていた。

 迷っている僕の心を見透かしているのか、物の怪は更に言葉を続ける。


「互いの特別な名を握り合う対等な取引じゃ。お互いに嘘を吐けなくなるし裏切れなくなる」


「……わかった。だが、僕から名乗るのは嫌だ。お前が先に名を教えておくれ」


 まだ警戒を緩めるわけにはいかなかった。あいつからしてみれば僕はバカで単純な子供でしかない。

 人間のほとんどが、あいつにとっては手玉に取りやすい子供のようなものなんだろうけれど。


「抜け目のないやつじゃのう。……わしの名は、LUP」


 聞いたことの無い……聞き取れない言葉だった。


「ろ、ろるぷ? 鬼の言葉か?」


「ルプで良い。故郷の言葉じゃ。こちらに来てからは……マカミと言われることもあった。普段はマカミと呼べば良い」


 マカミ……狼か? 目の前にいる物の怪の漆黒の髪と金色の瞳によく合う名だなと思った。ルプという名も、そういう意味なのだろうか。


「ほれ、わしは恭一郎にも教えていない真名を教えたぞ。お主の名も教えろ」


「僕の名は……夕景せっけい。本当に大切な時に使う名だと言われている。皆は僕のことは怜一と呼んでいる」


 恭一郎父上にも教えていないという響きが、アレだけ怖くて力強くて偉大な父上を出し抜いたという妙な優越感をくすぐってくる。

 マカミは恐ろしい。きっとこうして人間の仄暗い感情を煽って、人を喰らってきたのだろう。


「ひひひ……じゃあ、行くとするか怜一。どれくらいぶりかのう、このつまらん部屋から出るのは。なあ、そちらへ行ってもかまわんか?」


「ああ、今開けるよ」


「その必要は無い」


 一瞬のことだった。耳元に吐息がかかり、掠れた声が直接体の中に響いたみたいに聞こえて格子戸の閂をはずそうとして屈んだ体をすぐに起き上がらせた。


「わしらは招かれればそこへ入れる。鍵も枷も招かれたあとの我らには意味を成さぬ」


 マカミは僕のすぐ隣に立っていた。足に付いていた銀の枷は格子戸の中に置き去りにされている。

 この美しい物の怪は、僕よりも頭一つ分は大きいくせに威圧感はないから嫌なものだ。

 床につきそうなくらい長い黒髪を器用に後ろで束ねたマカミの骨張ったうなじが目にはいって思わず生唾を飲み込みながら、僕は「行こう」と口早に言った。


「お主が望むのなら、今からでも正式な契約をするか?」


 階段に続く扉の前でこちらを見返りながらそう尋ねてきたマカミが、鋭く尖った牙を見せてニタリと笑いかけてくる。


「……断る。人間に抱かれるのは趣味じゃないんじゃなかったか?」


「呪いを受けた魂は死んだらわしが喰えるという約束じゃからな。本来は血を吸うのが一番じゃが、魂の味も嫌いではない」


 首を横に振ると、マカミは「近付けば魅了の術も効くと思ったが……頑固な童じゃな」と屈託なく呟く。

 その言葉を無視して、僕は階段を上がっていく。こいつが格子戸の内側から出てきてから、妙な想像が止まらない。

 二人きりで長く居たら、それこそ誘惑に負けてこいつを組み敷いてしまうかもしれない。


「例えその身が離れていてもわしの恨みがそいつの体と魂を喰らい尽すのよ。お主も恭一郎の死に際は見たじゃろう?」


 何も言い返さない僕にお構いなしと言った感じで、マカミは言葉を投げつけ続ける。


「力と快楽に溺れた阿呆が、輪廻に戻れずに朽ちていくのは愉快じゃからなぁ」


「マカミ、約束は守ってくれよ」


「ああ、そうじゃ、忘れておった。契約の通り、血を少し貰うぞ」


 後ろから急に羽交い締めにされて、首筋に生温かい息が当たる。

 蔵の扉に手をかけたままだったので抵抗が遅れた。

 少しざらついていて熱い舌が、首筋をゆっくりと撫でたかと思うと、チクリと鋭い張りで刺されたような痛みを感じる。

 ぐらりと視界が揺れて、それから身体中の力が抜けていく。


「……吸い過ぎたか?」


 少しだけ焦ったようなマカミの声が遠くから聞こえた。

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