「私の子どもの頃ですか?」

 ふと気になって訊いてみたのは、肇の体調がだいぶ良くなってきたからだ。


 稲森が訪ねてきてから、数えてちょうど三日後の夜。いよいよ本格的な冬に入ったかと確信するような底冷えの日に、やっぱり櫻子は、肇の部屋で夕食の世話をしている。


 土鍋に入れたまま持ち込んだのは、畔上に貰った牛乳で作った雑炊だ。ほうれん草やら鮭やらを混ぜて、味を調えた。ここにチーズでも乗せて焼けたらもっと美味しいと思うんですがと言い添えてみると、しばらく肇は本格的に悩んだ後に、こう言った。そろそろ普通の食事でも大丈夫そうなんですが、大事を取ってそれは次にしましょう。


 実際、うっすらと寒気がする以外はもう、ほとんど元通りなのだと言う。

 だから櫻子もさして遠慮することなく、稲森と鴉、ほとんど身内のような相手とはいえ妖を相手に二つも取引を成立させたのだと得意げに店長に報告することができた。


 そして蔵の中での話まで詳しくしているうちに、ふとその記憶が思い出されたのだった。


「蔵の中で、日記を見つけて。それでちょっと気になったんです」

「日記って、私のですか」

「付けてたんですか?」


 訊ねると、いえ、と肇は首を横に振る。


「でも、あそこなら付けていない日記があってもおかしくないじゃありませんか」

「そんなものまで?」

「そんなものまで」


 だったら、と櫻子は思った。

 肇の付けていない肇の日記が存在しているとしたら、自分が付けていない自分の日記だって存在していてもおかしくないわけで。


 そうなると、つい一昨日のこと。

 こっそり手を握ったのなんかも、そこに記されていそうで、


「違います。……たぶん。中身は見ていないので、わからないですけど」

「ええ。確かに、流石に私の日記よりは価値のあるものが置いてあると信じたいところです」


 脱線しかけた話が、それで一旦元に戻る。

 日記を見つけて、それでもしかしたら肇も日記を付けていたりするのかなと思って、だとしたらそれを付けていたかつての日々をどう過ごしていたのだろうと、櫻子はさりげなく訊ねてみた。すると、


「別に、何てことのない子どもでしたけどね」


 流石に、その言葉を聞いての感想が顔に出たらしい。

 嘘じゃないですよ、と肇は笑った。


「正確に言うなら、何てことはないと『自分では思っている』子どもだったが正しいのかもしれませんね。私の場合、多少雰囲気があるくらいで、実際に『変わっている』ところは他の人の目には映りませんから。自分で自分は人とは違うらしいとはわかっていても、他の人にそれが理解されているとはあまり思っていませんでした」


 それなら、と櫻子も頷けた。

 肇の言うところもわからないでもない。ただ、


「肇さんは何でもできますし、人気者になっていそうですけど」

 言えばしかし、どうでしょうねえ、と肇は躱した。


「学校で喋る友人くらいはいましたが、特に駅が出来る前のさいはて町は、人がなかなか定住しない土地でしたからね。かく言う私も、一度は父母に連れられて海外に出てしまいましたし」


 当時は、と肇は話した。

 駅が出来るだの何だのとやっていて、建設関係の方が家族を引き連れてこちらに来ていたんですよ。元々そういうのに適した空き家も多いですし、さっと入ってさっと出ていくばかり……。


「戻ってきたときには、連絡するような相手は町を出た後でした」

「……ちょっと、寂しい気もしますね」

「そうでもありませんよ。稲森も登川もいましたし、それからほら、今はこんな風にお見舞いまで貰えるようになって」


 ありがたい限りです、と肇は一匙の雑炊を口に運ぶ。

 美味い、と顔を綻ばせて、


「こんなものが毎日食べられるんだから、いっそ風邪を引いて得した気分です。毎日こうしてもらえるなら、一生風邪を引いていてもいいくらいですね」

「本当ですか?」

「……冗談ですよ?」


 その眼差しに光る疑いの色に、はっと櫻子は言い訳の必要を感じる。違います。別に一生風邪を引いていてほしいというわけではなくて、


「……それなら、食事は毎日私が作ってもいいですよね」

「それとこれとは話が別です」


 ぴしゃり、と跳ねのけられる。

 む、と今度は追撃の必要を感じていると、肇は話題を変えて、


「そういえば、今の『友人』のくだりで思い出したんですが」

「何ですか」

「訊いてもいいですか」


 ん、と怪訝な気持ちになるのはこっちの番。

 何をだろうと思いながらもひとまず頷いてみると、


「櫻子さんも、仲の良いご友人の方がいるんじゃありませんでしたっけ」

 意外な質問を、肇は口に出した。


 櫻子は驚いて、


「私、言いましたっけ」

「ほら、初日に。その……『髪を褒めてくれた友人がいた』と」


 よく覚えているな、と二度驚いた。


「確かに、話の流れで言ったかもしれません」

「そうですよね。今、私の昔の友人の話を訊かれたので、そういえば櫻子さんのそのご友人の方について聞いたことがあったなと思って」


 もちろん櫻子は、その友人のことを覚えている。

 だからすらすらと、「どんな方なんですか」という肇の質問に答えることだってできる。


「すごく素敵な子でした」

 昔のことを思い出して、そのことをいっそ誇りに思うような気持ちだって伴って、


「勉強も運動も、どっちも一番で。すごく美人で……と言っても、結構子どもの頃で。今の幸多さんや郁さんくらいの年齢の頃にできた友達だったんですけど」

「しかも、櫻子さんの髪を褒めたところから考えると、審美眼まであるわけですか」


 ふ、と櫻子は笑う。

 今でもその言葉は、正面からは受け止められなかった。


「でも、肇さんと同じですね。同じ学校に通っていたんですけど、その子も海外に出て行ってしまったんです」

「おや。ちょっと珍しいですね。私が言うのも何ですけど」

「元々、ご両親が海外の生まれだったそうで。こっちの国に来ていたのが一時的なものだったんだそうです。確か、結構良いお家の生まれらしくて……」

「お嬢様ですか」

「そんなところだったんだと思います。活発な子だったからそんな感じは……ううん。でも、確かに言われてみれば、そういうところもある子でした」


 少し間を置いたのは、きっと気を遣ってくれたのだろう。

 肇はさらに、自然に気になるだろうことを訊ねてくる。


「今は、ご連絡は取られていないんですか」

「しばらくは取っていったんです。でも、やっぱり国際郵便は時間が掛かるじゃありませんか」

「なかなか難しいですか」

「そうですね。少しずつ、間が空くようになってしまって」


 とは頷いてみたけれど、実際のところ櫻子にとっては、単にそれだけが手紙のやり取りが減っていった理由でもない。


 明るいことが書きにくかったからだ。年に数度のやり取りでは、どうしてもその『明るいこと』の不在が目立つ。季節の流れのような誰にでも訪れること、あるいは経理や料理のような黙々とした積み重ねの成果くらいなら言えたけれど、それ以外の近況が書きにくいというのは、どうしても気になるものがあった。


 向こうは向こうで優秀な子だったから、きっとそちらの日々も忙しくなっていったのだと思う。互いに手紙を送り返すまでの時間を延び合わせて、今では、


「年末年始に、互いに一通ずつ。もう、年賀状みたいなものですね」


 あ、とそれで思い付いた。


「そうだ。年賀状……それか年始回り。最見屋ではどうされるんですか。もし年賀状の方なら私、こつこつ書いておきますけど」

「安心してください。さいはて町には年始回りも年賀状もありません」

「あ、そうなんですか。それは楽……と言っていいのか」

「今になってみると、営業としてはどうかと思うところがないでもありませんが」


 肇は苦笑して、


「自治会なんかも、あまりこういう気楽なところを壊さないようにしてくれているみたいですから。率先して面倒ごとを増やすのも気が引けますし、ここは大人しく年末年始をのんびり過ごしましょう」


 わかりました、と櫻子は言ってから、ふと気が付いて口を押さえた。


「すみません。病気のところにまた仕事の話をしてしまって。つい」

「いえ、いいですよ。『仕事はありません』と口にするときほど心休まることもありません……というのは、普段の経営が順調になってきた今だからこそ言えることですが」


 ですね、と微笑みつつ、それでも仕事の話はここまで。


「じゃあ、年賀状はその友達に送る分だけですね。色々ありましたから、今回は書くことがいっぱいです」

「確かに、この一年は色々ありましたからね。って、まだ振り返るのには早いですが」


 すっかり年末気分に、とくすくす笑い合う。

 そうだ、と肇が言った。


「櫻子さんは、年末年始はご実家には戻られないんですか。つい、一緒にいる想定で話してしまいましたが」


 言われてから、櫻子も気が付いた。


「そ、そうですね。私もつい。今度、手紙を送って訊いてしまいます。うちは父の仕事の都合で、年始の休みがずれ込むことが多いので。肇さんこそ、ご両親とは?」

「さっぱりした家系ですから……と言えたらいいんですが。単純に母が怖がって、この家に寄り付けないんですよね。今も二人は海外ですし、年始にこだわらず帰国の際に顔を見せられればいいか、というところです」


 向こうは向こうで年始は忙しいんじゃないかな、と肇が言う。

 そうなんですか、と頷けば、ようやくそれで話は一段落。ちょうど肇も雑炊を食べ終えて、匙を置いた。


「ごちそうさまです。今日も大変美味しゅうございました」

「畔上さんからのいただきもののおかげですね」

「いやいや、櫻子さんの料理の腕も多分にです。それより、風邪っ引きの間はすみませんでした。食事の時間も櫻子さんが後からという形になってしまいましたし」


 しかし、と彼は腕まくりをして、


「この感じだと、明日には全快になるでしょうから。お世話になった分、明日からは家事も仕事も私にお任せください」

「結構です」

「えぇっ」


 くすくす笑いながら、櫻子は重ねて言う。


「ぶり返してもいけませんから、しばらくは大人しくしていてください。家事はこれからも私がやります」

「……櫻子さん、やっぱりちょっと楽しんでますよね」


 そんなことはありません、とうそぶいて盆を持つ。 

 けれど立ち上がる直前に櫻子はそれを置いて、ちょっと顔を逸らして、手で鼻と口を押さえた。


 くしゅん。

 すん、と鼻を啜って、


「すみません。急に」

「もしかして、移しましたか」

「いえ。ただの寒暖差だと思います。急に寒くなってきましたから」

「そうですか。蔵の出入りがちょっときつかったのかもしれませんね。櫻子さんもお気を付けください」

「はい。交代交代で倒れていたら、いつまでも終わらないですからね」


 あはは、と。

 病明けの気楽さで、二人揃って笑い飛ばした。





「…………」

 そして二日後、櫻子は自室に横たわって天井を眺めている。


 もう昼だ。

 昼まで寝ている理由というのは多くの人間にとってはいくつも考えられるものだけれど、櫻子にとっては非常に数少ない。


 そのうちの一つ。

 風邪。


「櫻子さん。入っても大丈夫ですか」

「……はい」


 返事をすると、肇が入ってくる。

 手には盆。布団の横までやってきて、「起き上がれますか」と訊ねられる。


 起きるしかない。

 身体を支えられるなんてことまでしたら、熱が上がりすぎて、一年くらい平熱に戻れなくなる。


 肇が持ってきたのは、野菜やら何やらを煮込みに煮込んだ、いっそ透き通ってすらいるスープだ。その横にはいかにも柔らかくて食べやすそうなパン。多分、ここ数日肇に付き合ってお粥やうどんばかり食べていたのを見透かされて、違うものを用意してくれたのだと思う。


 もぐもぐと噛んでみれば、確かにこれが食べやすい。スープは滋味に溢れていて、これなら多少身体がだるくても、少しずつ飲み干せる。ゆっくりゆっくりと、櫻子はそれを食べ進める。美味しいです、と零す。


 そうですか、と肇は笑った。

 満面で。


「…………」

「他にしてほしいことがあったら、何でも言ってくださいね。どんな些細なことでも、何でも」

「……あの、肇さん」

「はい。何ですか?」


 嬉しそうな顔を向けられて、櫻子はついつい言いたくなる。隠す努力をしてください。……でも、それを口にする直前で、思い直す。


 自分だって、傍から見ればこんな感じだったのかもしれない。


「そこにある薬って、」

 だから代わりに、肇が食事と一緒に持ってきた、食後に服用するのであろうその薬包に目を付けた。


「もしかして、蔵から出してきたものじゃないんですか」

「…………」

「お高いのでは」

「……櫻子さん。流石、風邪を引いていてもなお鋭いんですね」


 それなりに、と肇は言った。

 じゃあ、と櫻子も返すほかない。肇が使わなかったものを、自分ばかりが使うわけにもいかないし、


「風邪くらいで、そこまでしていただかなくても大丈夫です。その……」


 仕方なしに、こう言うしかなかった。


「普通に看病、していただければ」


 恥ずかしくなって、顔を見ることができない。

 ちょっとの沈黙の後、肇が言った。


「わかりました。喜んで……喜んじゃダメですね。失礼しました」


 もう、とちょうどよく笑って誤魔化せば、冬の日は暮れていく。


 この数日の看病で、随分学ばれてしまったらしい。ここまではやっても大丈夫と、肇は自分がされていたことを遠慮なくこっちにやってくる。


 櫻子もそれを嫌とは言えなくて、むしろ何だか嬉しくなって、パンを小分けにしてもらいながら、ひそかに考えている。



 これなら、手だって握ってもらえるかもしれない。

 寝ている間に、ひっそりと。



(第九話・了)

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