三
あの花火の後、驚くべきことに何の進展もなかった。
何の変化もないまま、再び日常は戻ってきたのである。
夏祭りの片付けも、それから訪れた幾人ものお客の対応も、これまで通りに櫻子と肇はこなしてきた。段々と仕事に戸惑わなくなってきたとは思うけれど、それだけ。あの春の日から始まった日々は、あれからもただただ続いていった。
だから時々、櫻子はこんな風に思うこともあるのだ。
あれはやっぱり夢だったのではないか――いや、嘘だ。全然夢とは思っていない。夢であってほしくないから、そんなことは思わない。
本当は、こう思っている。
あんなことを言ってもいいのなら、自分も言いたい。
❀
「肇さん。入りますよ」
声を掛けてからもしばらく応答がないので、櫻子はそっと襖を開ける。
もう夕暮れ時だった。結局蔵から火温石を見つけることはできず、すごすごと櫻子は居宅の方に戻ってきた。そろそろ夕食の準備をする時間だ。あの広大な迷路を彷徨っている間に献立は考え付いていたけれど、作る方だけが楽しくて食べる方が険しいようでは話にならない。
だから、食欲はどうですかと訊ねにきた。
その訊ね先は、今は布団に横たわって目を瞑っている。
ちょっと不安になって、櫻子は傍まで寄った。
こう言っては何だが、死んだように眠る人だ。看病をしているうちにわかったけれど、肇の寝入りようは本当に穏やかで、ほとんど動きもしなければ寝息すら立てない。本当に生きているんだろうかと心配になることもしばしばで、人のいない土地に置かれた美しい石を思わせるようなところすらある。
つうっ、と額から汗が一筋流れて、それでようやくまだ生きていることがわかる。
ほっと櫻子は胸を撫で下ろして、それから、彼の顔を見つめた。
綺麗な人だ、と思う。
そしてそれよりも強く、この人は自分をどう思ってくれているんだろう、と思う気持ちも湧いてくる。
このことを思うたび、櫻子は極めて客観的になろうとする。客観的に見て、自分たちはどういう関係なのだろうと。そして、いつも信じられないような結論に達してしまう。
たぶん、すごく仲が良くて。
上手くやれていて。
順調にいけば、そのうちめでたく結婚してしまうのではないか、と。
つい一年前には、それこそ夢にも思わなかったようなことだ。しかし冷静に、できるだけ主観を排して、深く深く真剣に考えてみると、結婚する気のない人間はあの花火のときのような言動はしない。よっぽど底意地が悪くてこちらを傷つける意図があるなら別かもしれないけれど、しばらくの間を一緒に暮らして、たとえ想像の中でも肇をそこまで悪し様に思い描くことは櫻子にはできない。
だから、多分。
多分、自分は肇に好かれているのだと、そう思うのだけど。
どうしてなのかと考えると、みるみるうちに疑問が湧いてくる。
そうなってほしいとは当然思っていた。そうじゃなければ、結婚してくださいなんてことを自分から言ったりはしない。でも、いざそうなってみると喜びと同時に強い戸惑いも芽生える。
どうして自分なんかを?
そして、その疑問にもまた、極めて客観的な思考の末に櫻子は自分で答えを出している。
きっと、たまたまなのだ。
「――肇さん。起きてますか」
小さな声で、櫻子は語り掛ける。
反応はない。眠っているように見える。それでも二度三度、櫻子は彼の名前を囁いて、それが本当のことなのかを確かめる。
どうやら本当らしいとわかったら、櫻子はとうとう口を開いた。
「私も、ここに来てから幸せなことばかりです」
大きな声では、とても言えない。
自分で蒔いた種だけれど、結婚までには妙な留保を付けてしまったから。普通の婚約者みたいに、こんなことを声高に言うなんて、自分の素直な気持ちを思い切り伝えるなんて、とてもできそうにない。
でも、肇は花火に紛れてあんなことまで言ってきたのだから。
そう、ちょっとくらい……誰にも聞かれていないときくらい、小さな声で呟いてみてもいいのかもしれないと、そう思った。
「今までのことが嘘だったみたいに思うのも、同じです。ずっと新しい人に会うことに、新しい場所に行くことに怯えていたのが、今では信じられないくらい不思議に思えるんです。今はこんな風に、当たり前みたいに楽しく生きていられるから」
静かな静かな、冬の声。
でも、と続ける。
「それを不思議にも思うんです。だって私は、たまたまここに来ただけなんですから」
櫻子は、肇の顔をじっと見つめている。
閉じられた瞼。額に張り付いた髪。一年前には、その顔だって知らなかった人。
「肇さんに必要だったのは、偶然の一度目だけだったんだと思うんです。本当はあの日、最見屋の戸を叩くのは私じゃない誰でも良くて……ただあと一日、もう一日と続けていたら、肇さんはそれだけでよかったんだと、そう思っているんです」
思い浮かべるのは、自分ではない誰かがここにいる姿。
何の問題もないだろう、と櫻子は思う。肇は優しくて、何でもできて、誰とでも上手くやっていけるから。もしかすると、その戸を叩く人すら必要なかったかもしれない。肇は当てもない旅に出て、その先で知らない妖にでも出会って、それをきっかけに再びここに戻ってくるかもしれない。それとも今みたいに翻訳の仕事を見つけて、ひとまず店を続けてみる気長さを持てるようになるかもしれない。
きっと、それだってよかったのだ。
「でも、私」
だから、櫻子はわかっている。
これから口にするのは、ただの我がままだ。
「いつかあなたに、その偶然が私でよかったと思ってほしい」
私が「あなたでよかった」と思うみたいに、と。
そこまでの言葉は、やっぱり櫻子には言えなくて。
「…………あ、」
ふ、とそれで我に返る。
喋りすぎた。
そっと櫻子は、自分の口を手で押さえる。念のために、もう一度肇の顔を確かめてみる。ここでもし目が覚めていたら取り返しが付かないので、確かめる意味はさほどないのだけど、そうせずにはいられなくて、つい覗き込む。
動かない。
眠っている、とわかれば肩から力が抜ける。
そのまま櫻子は、考えていた。
いつか面と向かってこんなことを言える日が、来るのだろうか。
きっと言えまい。自嘲の笑みが零れる。天地がひっくり返ったってこんな大胆なことは自分には言えないし、これまでに天地がひっくり返ったのはあの春の日、たった一日の、ほんの数秒だけなのだから。
でも、その数秒のおかげで今がある。
そう考えれば、もう少しだけ思いも進む。
本当に必要なのは、きっと肇にそう思ってもらうことよりも、そう思ってもらっているはずだと胸を張れる自分になることだ。仕事も家事も、折角――折角という言い方もいかがなものかと自分で思うけれど――今は肇も手を付けられずにいるのだから、もう少し張り切ってやってみよう。
火温石を見つけるのもそうだけれど、まずは目の前の看病のことから。
この深い眠りようではしばらく目覚めはしないだろうから、食事の希望を訊くのは難しい。畔上から貰った食材は一旦脇に置いて、昼はうどんにしたから、夜はお粥をこしらえておくとしよう。卵を落として、それだけではお腹がすくようだったら、肇が食べている間に追加で何かを作ればいい。
何か簡単に作れるものはあったかな、と腰を浮かす。
その途中で、櫻子は気付いてしまった。
「…………」
布団から、肇の手が出ている。
いつからこうなっていたのだろう。最初からそうだったかもしれない。まあそれはいい。重要なのは『今そうなっている』という一点であり、櫻子の目はそこに釘付けになっている。
暑いから、外に出したのか。
しかしもはや冬の日と言って差し支えない夜が来るのだから、ここは布団の中に戻してあげるのが親切というものではないのか。
ほら、だって。
肇だってあの日、手を握ってきたわけだし。
いやしかし、と櫻子は思った。そんなことが許されるのだろうか? 一体今、自分はどこまでのことが許されているのか。あの後、肇は謝っていた。言ったことに対してなのか、それとも手を取ったことに対してなのかはもう随分前のことなので判然としなくはあるが、もし後者であるとするならば、彼の目線から見てあれは謝るに足る行為だったということになる。そうなると寝ている間にそんな行為に及ぶのは当然よろしくなく、でも本当に彼の目線に立つならば手を取るくらいのことは何とも思っていない可能性もあるわけで、
欲に負けた。
櫻子は生まれてこの方今日このときほど己の意志の弱さに失望したことはないが、しかし同時にそのことを異様に喜んでもいるという、有史以来もっとも複雑な感情の波に晒されて心が壊れかけていた。
そんな心すらもそっちのけで、たくさんの言い訳と共に櫻子の手は、肇の手を取った。
「あ、」
と声が出たのは、思ったよりも熱かったから。
自分の手が冷たいのかもしれないけれど、どうもやっぱり、風邪由来の熱のように思えた。もしかすると布団の中に戻さない方がいいのか。さっきまでの邪な気持ちが一切消え去って、櫻子は真剣に考え込む。
でも、やっぱり夜は冷えるから。
そうするのがいいだろうと思って、櫻子は肇の手を導いて、再び温かい布団の中に押し入れる。
その手を離すとき、一言だけ。
心からの言葉だから、自然と口をついて出た。
「早く元気になりますように」
「……やーっす。あれ……」
遠くで声が聞こえて、慌てて櫻子はその手を離した。
ただでさえ早鐘を打っていた心臓が、今ではどっくんどっくんと、この音で肇が起きてしまうのではないかというくらいに大きく跳ねている。今更右を見る。今更左を見る。誰もいない。
声は、店の方から聞こえてきた。
大声で呼ばれてしまう前にと、櫻子はそそくさ立ち上がって、戸を静かに開けて部屋を後にする。
ごろん、と。
それから珍しく、肇が寝返りを打った。
❀
「おー……っと、いたいた。忙しかった?」
「いえ。ちょっと奥の方にいたから、気付くのが遅れただけで。今、肇さんが風邪を引いて寝ているんです」
「えっ、ほん――」
しー、と人差し指を立てれば、おっと、と彼女も両手で口を押さえてくれる。
来客は、鴉だった。
彼女が大声を出して自分を呼ぶその直前、何とか間に合って櫻子は店まで出てくることができた。
「へー。あいつ、風邪とか引くんだ」
勘定台の上に腰掛けた鴉は、やっぱり櫻子や幸多が思ったのと同じような、素朴な感想を洩らした。
でも、今回はちょっと訳が違うんじゃないかと思って、
「歴代の『最見屋』さんは、やっぱり風邪を引いたりはしなかったんですか」
「え、どうだろ。たまに病気とかで死ぬ奴もいたから、別にそんなこともないと思うけど……でも、そういうのって治せる薬みたいなの持ってるんじゃないの? ここのことだし」
「それが、肇さんは『あるけど使わない』って言うんです」
「貴重なんだ」
あ、とそれで櫻子はちょっと驚いた。
てっきり何か肇なりのこだわりがあってそうしているのだろうと思っていたけれど、鴉が言ったその想像の方が、もしかするとよほど近いのかもしれないと思ったから。
病気を治せる妖の薬なんて、風邪どころじゃなく何もかもに効きそうだ。
そうなれば、風邪くらいに使うのはとてもじゃないが勿体ないと。案外事実というのは、このようにいつも単純なものなのかもしれない。
それで、と話は変わって、
「お久しぶりです。今日はどうされたんですか」
「最近寒くない? 今からこの調子じゃ今年、すごい寒くなりそうだからさあ。最見屋でそういう防寒に使えるやつが売ってたりしないかなって」
ちょうどだ、と櫻子は思った。
「あるにはあるんですけど。今、肇さんが寝込んでいて在庫の場所がわからなくて。売るまで少し、待ってもらえませんか」
「全然いーよ。あたしもしばらくこのへんにいるし。ちなみにどんなやつ?」
「火温石と言って、こう、持つと温かい懐炉のような石なんですが」
「あ、それ見たことある。狐が持ってるやつでしょ」
奪ってこようかな、と鴉が言う。
やめてあげてください、と櫻子は苦笑いをして、
「肇さんの風邪が治るか、私が在庫を見つけられるまで待ってもらえれば」
「櫻子、あの蔵の中に入ってるんだ。大変だねー、広いもん」
「あれ、鴉さんも入ったことがあるんですか」
「結構前に酔って盗みに入ろうとしてさ。あはは、あんときはこの世から跡形もなく消し去られるかと思ったわ」
今度は笑っていいのかすらわからない。
無言でいると、続けて鴉が、
「悪いことはするもんじゃないね。ちなみに、場所の目星はついてんの?」
「目録があるので、それを参考に探してはいるんですけど、なかなか。やっぱり思ったようには辿り着けなくて」
でも、と櫻子は言葉を繋いだ。
それはもちろん、さっきの決心によるものだ。
「明後日までに、見つけてみせます。これでも一応、この店の一員ですから」
頼もしい、と鴉が拍手をしてくれる。
その決心が功を奏したのか、そうでもないのか。
次の日の昼、櫻子は『火温石』を見つける。
探し物というのはいつも、見つかるときはあっさりしたものだ。
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