「よければこれ、最見さんに。前に牛乳が平気だと仰っていたので、寝る前に温めて飲んだりすると、寝つきが良くなりますから」

「わ、すみません。いただいちゃって」

「あとこっち、ほうれん草。うちの畑で作ってるやつなんだけど、一回あく抜きに茹でてから――」

「お母さん。櫻子さんの方が詳しいよ」


 あ、そうだね、と言葉を交わすのは、今度は畔上親子だった。三田村親子と同じで、昼の前頃に最見屋まで差し入れに来てくれたのだ。


 すみません、と謝られたのは昨日のうちに来られなかったこと。


「昨日も仕事で、あんまり遅くに行くとかえって迷惑かと思っちゃって」

「そんな。わざわざありがとうございます」

「いえいえ。最見さんには翻訳でも色々助けてもらってますし、娘もいつもお世話になってますから。ね?」


 呼び掛けられれば、うん、と郁は頷いた。

 それからこっちに向き直って、


「店長さん、大丈夫ですか?」

「うん。喉がちょっと嗄れちゃってるんだけど、熱は落ち着いてきたみたい。でも、しばらくはみんなに風邪を移しちゃうかもしれないから、お店は閉めたままかな」

「そうですか。お大事にしてください」

「うん。ありがとう、伝えておくね」


 櫻子が微笑めば、郁もちょっと安心したように笑みを零す。

 そういえば、と畔上が言った。


「春河さんって、水曜日は公民館の料理教室に通ってるんじゃありませんでしたっけ」

「ええ、そうです。あれ、話しましたっけ」

「この子が自分も通ってみたいって言ってるから、私も覚えちゃって」

「お母さん!」


 あれ、と畔上が口を押さえる。言っちゃダメだったの、と郁の顔色を窺う。一方で郁は櫻子の方を見てきて、複雑な年頃だなあと櫻子は微笑んで答える。


「……いいけど」

 その一言でどうにか話は元に戻って、畔上が、


「その教室、月火水で明々後日ですよね。もし行くのが難しいようなら、私が何かのついでに料理教室の方にお伝えしておきますけど。職場と近いですし」

「本当ですか? 助かります。実はそれ、困っていて。出席したら他の子たちに移してしまいそうですし……と、」


 櫻子は口を手で覆って、


「こうしてると、お二人にも移してしまうかもしれませんね。すみません」

「いえいえ。自分たちから来たんですから。でも、あんまり大変なところお邪魔しちゃ悪いから……郁。そろそろ行こっか」


 うん、と郁が頷く。

 しかし踵を返す直前、彼女は気付いたらしく、


「櫻子さんも、熱があるんですか?」

「え? ……あ。ううん、この汗はそういうのじゃなくて」


 言われて櫻子は、額の汗を袖で拭う。ちょっと腕まくりまでしてみて、


「ちょっとね。さっきまで奥の方で仕事してたから、それだけ」





『火温石』という名でそれは記されていた。

 意外とすぐに台帳から見つけられたのは、ひとえに肇の整理が几帳面だったためだろう。


 しかし困ったことに、肇はその名を持つ品こそがまさに稲森の求めるものだということは保証してくれても、それ以上のことは上手く伝えられなかった。最見屋の蔵の構造は異様に複雑で、おまけに肇は熱で頭が回らない。何となく断片的な方向だけは呑み込めたけれど、そもそも家の中にある空間で物を探すのに『方向』が有益な手掛かりになるのは、色々とおかしい。


 けれど、おかしなところで働いている以上、おかしなことを無事こなしてみる必要も出てくるわけで。


「ここ……? あれ、やっぱり違う……」

 櫻子は、迷路のような蔵の中に、たった一人で迷い込んでいた。


 夏の頃に来たときは涼しい場所だと思ったけれど、冬に来れば反対に、ほのかに暖かい。そんな奇妙な場所で、風邪に倒れた肇の代わりとして、櫻子は今日の昼から奮闘をしている。


 結果は、残念ながら芳しくはない。

 理由は単純で、方向がわかった程度で容易く踏破できるほど、この蔵は単純な構造をしていないからだ。


 幸いだったのは、入るに難く、出るに容易い構造であることだ。反対だったら今頃自分はこの蔵の中で遭難していたに違いないと櫻子は強く思う。なぜと言って、右の部屋に入って、それからすぐに左の部屋に入ると、なぜか全く見覚えのない品物が置かれているなんてことが平気で起こる場所だからだ。


 摩訶不思議と言って差し支えない。櫻子はもう、「きっとこの蔵自体が妖の品なんだろうなあ」なんてことをごく自然に思っている。思っていてもしかし、それだけで使い方がわかるようになるわけでもない。


 地道に、肇から貰った言葉を手掛かりに、蔵の中を探し回っている。

 そしてさっきのが、十三回目の「やっぱり違う」だった。


「…………」


 ふう、と流石に櫻子も溜息を吐く。理屈の上では「ここじゃない」とわかったならすぐに次の場所を目指すべきなのだけど、流石に足が鈍り始めていた。とにかくこの蔵は広いし、自分がどこにいるかわからないというのも、思った以上の徒労感をもたらすものである。


 だから、ちょっと休憩することにした。

 ちょうどそこに椅子もあることだし――といって、それもまた妖の品なのではないかと疑ってしまえば、座る気も起きないのだけど。


 磨り硝子越しに入ってくる日の光は、夏に見たそれよりは随分弱い。


 薄暗い部屋の片隅で、少しだけ櫻子は、静けさに身を委ねた。


 晩御飯は、何を作ろうか。

 ほうれん草と牛乳を貰ったから、もうこれは煮込んでみるしかないだろう。絶対に合う。問題は、そこに何を加えるかだ。肉類。豚肉、鶏肉。脂っぽいものはやっぱり消化に良くないだろうか。そうなると魚。匂いが強くなるだろうか。いや、牛乳は臭みも消すから……やっぱりきのこと卵にでもして、いっそお粥にしてみようか。いや待て、そもそも自分は煮込みに何の主食をつけるつもりだったんだろう。


 氷箱にどれくらいの買い置きがあったかを思い出しながら、何の気なしに、櫻子は一番近くの棚を覗き込む。


 別に、一つ一つ手で触れるわけでもない。ここに火温石はないとすでにわかっているし、何より以前――あの槐という鬼が『珠』を買い戻しに来たあの春のことだ――この蔵の中で不用意に品物に手を触れて、額をすこーんとやられた記憶があるから。肇は以前に「櫻子さんが入っても大丈夫なように調整しておきました」と言ってくれたが、危うきに近寄らないに越したことはない。


 しかし、本当の意味で何も期待していないかというと、そういうわけでもない。

 棚の前を行きながら、「薬を見つけられたらいいな」と、櫻子は少しだけ思っていた。


 肇が熱を出したとき、最初に櫻子は訊いたのである。こういうのは、妖の品の中にすぐに治せるものがあるんじゃないですか。もしよければ、場所だけ教えてもらえれば私が蔵から出してきますよ。


 しかし、肇は首を横に振った。そして言うことには、


「このくらいの風邪では、使うに及びません」


 その一言で櫻子は、素直に引き下がった。何かしら、肇の中でそういう薬を使うにあたってのこだわりのようなものがあるのかもしれない。新参者の自分が、わざわざ自分の疑問を解消するためだけに、病身の肇に言葉を尽くさせるのも良くはないだろう。


 けれど、仕事の途中で偶然見つけたなら、ひとまず枕元まで運んでいくくらいのお節介はしてもいいのではないかと思っている。


 だから櫻子は、棚の一番端にあったその箱に目を留めると、その表面をじっと見つめた。外装に説明書きを記しておくような几帳面の『最見屋』が買い付けたものだったら、これだけで中身がわかる。


 表面にはないから、立ち位置を少し変えて、裏面を覗く。


『日記』と書いてあった。


 どうしてこれが、最見屋の蔵に収められているのだろう。

 一番最初に思い浮かぶのは、妖が記した日記なのかもしれないということだ。稲森なんかはすらすらと文字を書くこともできるが、どうだろう。これはこれで希少なもので、好事家には高値で売れるかもしれない。


 あるいは、未来のことが記された日記とか。これはかなり夢があるし、最見屋に置いてあるのも納得だ。未来のことが知りたくてたまらないお客というのは、相当の数がいるだろう。その手の相手に、肇がこの道具を売るのかは定かではないけれど。


 他には、単純に古い日記なのかもしれない。

 遥か昔に西ノ丸の貴人が書いた日記は、今でも当時の史料として学者や学生に読み解かれている。最見屋はずっと古くからある店らしいから、あるいはそういう妖とは関係のない品すらも骨董品として保管しているかもしれない。


 触れなければその想像以上のことを知ることはできず、そして櫻子は、触れる気がない。薬を探すのも一旦は提案として却下されている以上、そこまで本気で取り組むことでもなく、ゆえに自然と思考は別のことに及んでいく。


 日記か。

 自分も、つけてみようか。


 何か確固とした理由があったわけではないが、ぼんやりとそんなことを思った。肇の翻訳の清書を手伝ううちに、字を書く楽しさに目覚めてきたからかもしれない。あるいはここに来てからの不思議な日々を思って、それを文章に起こしてくのも面白そうだと考えたからかもしれない。いずれにせよ、それは本当にぼんやりとした思いで、実際、また火温石を探して動き出したときには忘れてしまう程度の、他愛ない思考でしかなかった。


 でも、その後に思ったことだけは、それからもずっと頭に残る。

 肇は、日記を付けたことがあるのだろうか。


 思い出すのは、あの夏の日のことだった。夏祭り。花火。あのとき肇は、自分のことを語ってくれていた。『ここではないのかもしれない』と思っていたということ。実を言うとそれは櫻子にも心当たりのある思いであって、それならそういう考えに至るにあたって、肇はどういう子ども時代を経たのかとか、



 ――最近、あなたの夢ばかり見ます。



「…………」

 思い出さない方がいいことまで思い出されて、櫻子はしばらく動きを止めていた。


 じっ、と何かを堪えるような顔。瞼を瞑る。顔を手で覆う。冷たくなったそれで、熱を冷ます。そのまま何もかもを振り払うために彼女は、勢いよく蔵の中の捜索を再開する。


 それでも思う。

 あんなこと、言っていいのか。


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