第九話 どうぞあなたもお大事に



「氷嚢、もうだいぶ溶けてきてしまったので替えますね」

「すみません……」

「おでこ、冷やしすぎて痛くなっていませんか」


 最見邸居宅。

 布団を被って横たわる肇の横で、櫻子は畳に膝を付き、溶けた氷嚢の中身を盥に流し、新しく台所から持ってきた氷を代わりに詰め入れている。


 秋の景色も紅葉と共に散り始める頃。冬の気配が漂う、薄曇りの日のことだ。

 櫻子は手拭いを冷水で絞ると、濡れたそれで肇の顔を拭った。


「汗もだいぶ掻いてしまってますね。お着替え……は、流石に手伝うわけにもいかなくて、申し訳ないです」

「いや、大丈夫です。そこまでしてもらうと、かえって熱が上がってしまいますから」

「はい。今からお粥を作りますけど、何か食べたいものはありますか」

「……卵」

「わかりました。でも、ご飯までに眠れそうだったら、そのまま寝てしまっても大丈夫ですからね」


 手拭いを顔から離す。

 そうっと氷嚢を額に置き直して、


「それじゃあ、作ったらまた、すぐに戻ってきます」

「……櫻子さん」

「はい。何ですか?」

「何だかちょっと、楽しんでませんか?」


 図星を突かれて、櫻子は。

 いかにも慈しみに溢れた笑顔で固まって、固めたまま部屋から出ていく。





 季節の変わり目は体調を崩しやすいものではあるが、驚くべきことに肇の方が風邪を引いた。


 蔵の整理で汗をかいたりしていたのが良くなかったのではないかと櫻子は思っている。一昨日の夕飯時、何だか受け答えがぼんやりしているなあと見ていたら、次の日の朝にはもう顔が赤い。今日は少し休みます、と早めに対処してみた甲斐もなく、その日のうちに熱が出て、次の日になったらもう本格的だ。


 幸い熱が出るばかりで、他の症状はそれほどでもない。

 ゆっくり寝ていれば治るだろうということで、そのために櫻子は、率先して彼の看病を引き受けている。


 今は、台所で皿洗い。

 濡れた指が、空気に触れれば凍るような心地のする季節だ。ひー、と呟きながら最後の皿を水切り籠に置いて、肇と共用のあかぎれ防止の軟膏をじっくりと両手に馴染ませる。


 さてそれじゃあまた肇の部屋にと思ったら、りぃん、と鈴の鳴る音がした。

 はーい、と返事をして、聞こえただろうか。櫻子は早足で台所から廊下へ出る。広さのために底冷えするこの家こそが、真の風邪の原因かもしれない。ここ二週間で櫻子の上着は、二枚ほど増えた。


 店に出ると、三田村親子が立っていた。


「いらっしゃいませ。珍しいですね、三田村さんも」

「ええ。息子から最見さんが風邪のご様子だと聞きまして。これ、妻の実家が作っているものなんですが、お見舞いに」


 紙袋。受け取って中身を見て、


「柚子。いいんですか?」

「ええ。いつもお世話になっていますから。浴槽に入れて……というのは風邪の最中だと難しいでしょうが。鍋でも蜂蜜漬けでも、良かったら召し上がってください」

「ぜったいお粥にしない方がいいよ。おいしくないから」


 こら、と窘められる幸多に、櫻子は苦笑いをする。わからないでもないと思った。自分でもやってみたことがないから想像だけれど、お粥にすればなかなか好き嫌いの出る味になるだろう。そして子どもは大抵の場合、大人よりも好き嫌いが多いものだ。


 鍋はまだ無理そうだけれど、今夜のうどんの風味を柚子塩にしてみるのもいいかもしれない。そう献立を考えていると、


「てんちょー、まだ熱あるの?」

 父からのお叱りも何のその、幸多はそのまま続ける。


「うん。昨日より高くなっちゃって。結構ぐったりしちゃってるの」

「風邪とか引くんだね」

「ね」


 つい頷いてしまうのは、やっぱりどこか肇が浮世離れして見えるからなのだと思う。人間である以上、風邪なんか引くに決まっている。でも、何となくどんな状況でもけろっとしていそうな、そんな印象もあるのだ。


 だからあんな風に、一気に弱るとは思っていなくて、


「櫻子ちゃんさ、」

「何?」

「なんか、喜んでない?」


 さっ、と櫻子は自分で自分の顔を押さえる。

 うっすら頬が上がっていたような気がしなくもない。第三者の意見を仰ごうと、三田村の方を見る。幸多は幸多で、「ね」と言って父を見上げている。


「…………あー」

 三田村は、いかにも困った顔で、


「何にせよ、お大事に」





「見えますか。嬉しそうに」

「まあ、なんだか上機嫌な風には見えますよね」


 うそだ、とやっぱり櫻子が自分の頬を揉むのは、稲森の前。

 三田村親子が去ってから、夕方ごろに彼が訪れてきて、店の中だった。


「そんなに顔に出ますか、私」

「嬉しそうなのは否定しないんですか」

「…………」


 まあ。

 嬉しがってないと言えば、嘘になると言えなくもないのだろう。


 もちろん、心配をしていないというわけではないのだ。季節の変わり目に引いた風邪だし、長引いたりすると体力も持っていかれる。だから早く治ればいいなと思うし、そのためにできることはできる限りしてあげたいと思っている。


 しかし、その『してあげる』という行為自体が櫻子にとっては大変に――


「ところで稲森さん、今日はどうされたんですか。お見舞いだったら、肇さんも今は起きてますけど」

「……何も言わずにおきましょう」


 稲森は言うと、ごそごそと外套の懐を探って、


「今日は商売の話で来たんです。肇くんが風邪を引いているとは知らなくて」


 これなんですけど、と丸っこい灰色の石を取り出した。


「何ですか、これ」

「今で言う懐炉です。たぶん元は、火山の妖あたりから譲り受けたものだと思うんですが」

「『たぶん』ということは、稲森さんが自分で得られたものではないんですか?」


 ええ、と稲森は頷いた。


「昔に最見屋で買った、というか別の品と引き換えたものなんですよ。ちょっと触ってみてもらえますか」

「あ。あったかい」

「でしょう。何の手入れをしなくてもこの通り暖を取るのに使えて、火の心配も要らないんです。行商先の妖にこれを見せたら、もう間もなく冬になるでしょう。もしあれば売って欲しいという話をされまして」

「うちに在庫があれば、という話ですね。訊いてみますけど……すみません」

「肇くんがくたばってるとなると、どこにあるかわかりませんよね」


 くたばるまでは行ってません、と櫻子は一応言っておく。

 へたばっているの方が当たり障りなかったですかね、と稲森は笑う。


「ま、それならそれでもいいんです。さっきも言った通り、どうせ火山にまつわる妖だと思いますから、最悪自分で取りに行ってもいいですし。ただ肇くんが在庫を持っていたら楽ができると思ったので……そうですね、ちょっとこのあたりもまた回るので、」


 三日後かな、と稲森は腰を浮かせた。


「また来ますので、そのときまでにもしあるようなら。出しておいてもらえれば」

「わかりました。できる限り探してみます」

「そう無理なさらなくても……と言いたいところなんですが、あった方がありがたいです。この手の火山石を扱う妖って、近場で心当たりがないんですよ」

「そうですよね。その場合、やっぱりご自分で遠出されるんですか」

「ええ。といっても、それもあまり気が進みません。前に入ったその火山、ちょっと得体が知れなくて怖いんですよ」


 驚いて、櫻子は訊き返した。


「怖いって、稲森さんがですか?」

「言葉を話す妖はそんなに怖くないんですけどね。言葉がない、名前がない、姿がないというのはちょっと。固まってないものはどこまで奥行きがあるかわからないし、理屈も通らない。こういうのは自分の方が一度言葉や理屈を覚えてしまうと、どうやったって多少は怖くなる」


 ひらりと稲森は、その恐怖心とやらを払うように平手を軽く振って、


「怖いというより、面倒と言う方が正しいかもしれませんが。そこの火山、そういうのがないのがちらほらいるんですよ。噴火なり何なりで、あまり人が長く居着かなかったのもあって」


 というわけでよろしくお願いします、と稲森は頭を下げてくる。

 ああいえいえ、と櫻子も下げ返して、


「引き留めてしまってすみません。ではその懐炉、三日後までに探してみます」





「…………」

 そうして懐炉の在処について訊ねてから、もう二分くらいが経つ。

 訊ねた先の肇は、天井をじっと見つめたまま、何も喋らずにいる。


「……あの、肇さん」

「……今、懸命に思い出そうとしているんですが。自分でも切なくなるほど頭が働きません」


 それはそうだろうという答えが返ってきたので、櫻子としてもそれ以上深く訊ねてみようという気にはならなかった。


 わかりました、とそれを受け入れる。想定通りと言えば想定通りでもある。だから次の案。


「在庫台帳を見せてもらってもいいですか。私の方で調べてみます」

「台帳はそこに。すみません、頼りっきりで」

「気にしないでください。こういうときのために台帳をつけてるんですから」


 肇の部屋も櫻子の部屋も、大して内装は変わらない。

 文机が置いてあるのも同じだ。肇が指差した通り、翻訳の資料と辞書と原稿とが几帳面に積み重なったその机の横から、櫻子はそれを探し出す。


 どかっ、と音がするような厚みだ。

 これで分冊だというのだからたまらない。台帳を捲るだけで三日が終わってしまいそうだと思いながら、早速一頁、二頁と目を通し始めると、


「櫻子さん」

「はい」


 何かしてほしいことがあるのかな、と振り向く。

 肇は微妙な顔をしていて、


「この部屋で読まれるんですか」

「あ、邪魔でしたか。すみません」

「いえ、いいんですけど。ただ、同じ部屋にいると風邪が移るのではと」


 ああ、と櫻子は頷く。


「でも、移すと治るとも言いますから」

「櫻子さんに移してまで治そうとは思いませんよ。あとそれ、迷信です」

「そうなんですか?」

「単純に、時間的な問題でしょう。移されて症状が出るまでの間に、移してきた人が……」


 けほ、と掠れたような咳を肇がしたので、櫻子は大人しく部屋から出て行くことにした。もちろん去り際には湯呑に白湯を淹れて、さらにはすぐに台所まで行って、貰った柚子と蜂蜜をお湯で溶かした飲み物を別で持っていくのも忘れない。


 しばらく自室でぱらぱらと捲り続けて、あっという間に外が暗くなってくる。


 秋の日はつるべ落としとよく言われるものだが、夏の日のあれだけ長かったことを思うと、寂しさすらも感じる。今のうちにと台所に行って、夕食の準備もしてしまう。


 それから襖の前で呼び掛けて、返事を受けて中に入った。


「お肉が食べられそうということだったので、おうどんにしてみました。起きられますか?」


 ええ、と肇はひどく億劫そうに身体を起こす。


「ちょうどよかったです。ちょっと寒くなってきてしまって」

「お布団、もう一枚出しますか」

「……そうですね。食べ終わったら、お願いできますか。ついでに着替えもしてしまいます。どちらかというと、汗が冷えてきてしまって」

「あ、それじゃあ敷布団も替えてしまいましょうか。いっぱいありますし、今使っているのは明日干しておきますよ」

「すみません、何から何まで」

「いえ、気にしないでください」


 それは後でやるとして食べてしまいましょう、と櫻子は土鍋の蓋を開ける。

 我ながらなかなかよくできた。柚子と塩と鶏、それぞれの匂いがふわっと豊潤に広がって、自分も食欲が湧いてくる。肇もまだ鼻の通りは良いのか、それとも単に目で見ただけでそうなったのか、ふ、と気を緩めたように顔を綻ばせた。


「美味しそうですね」


 その顔がいけなかったのだと思う。

 結論から言うと、櫻子は少し調子に乗った。


 良くないことだと自分で思う。風邪で弱っている人の前でそういう振る舞いをするのは、良くない。別に弱っていることを心の底から喜んでいるとか、そういう話ではないのだ。ぐったりしているのを見ていると心配にはなるし、早く治ってくれればいいともちろん本気で思う。


 なのにこれだけ尽くせる理由を目の前に並べられると、つい嬉しくなってしまって、


「一人で食べられますか?」

 櫻子は、すごいことを訊いた。


 びた、と綺麗に肇の動きが止まった。

 もう櫻子は、自分で思っているほど自分を誤魔化せていない――というか、全く取り繕えていない。にこにこと微笑みかけながら、肇を覗き込んでいる。


 その顔を、肇が見つめ返した。


「櫻子さん」

「はい」

「私、猫舌で。麺類は冷ましながらじゃないと食べられないんですよ」


 じゃあ、と櫻子は言いかけた。


 そして、実際に今頭の中で思い浮かべていることを実行するとどういう絵面になるのか、すんでのところで気が付いた。


「……小皿に、ちょっとずつ分けますね」

「冗談です。でも、そうしてもらえるとありがたいですね」


 はい、と何事もなかったかのように櫻子は答えて、今の想像を忘れるように黙々とうどんを小皿に盛っていく。


 そして結局、途中から元の笑顔になってしまう。うどんを小分けにして、白湯やら水やら渡したり、それが終われば布団を出したり、何だりして。


 しみじみ思う。


 申し訳ないが、こんなに楽しいことはなかなかない。


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