最見屋――というか、最見家の屋敷はかなりの広さがある。

 店頭やあの無尽の蔵はもちろんのこと、普通の生活場所だってかなりのもので、だから当然、これから上がるはずの花火を一望できるような絶好の縁側だって持っている。


 食べ物と飲み物を背中側に置いて、二人は並んで座る。


 空は雲一つない快晴。星と祭りの灯りに照らされて、月は自分を目掛けて放たれる華やかな炎を、今か今かと待っている。


「こっちで食べるなら、もう少し色々見てくればよかったですね。お饅頭とか、手軽そうなものばかり買ってきちゃいました」

「いいじゃないですか。あんまり食べるのに忙しいと花火が見られなくなっちゃいますし。それにしても今日は……というか、祭りの日までの全部ですね。慌ただしくて疲れました」

「お疲れさまでした、肇さん」

「櫻子さんも、お疲れさまでした。では、お茶ですが」


 乾杯、と肇が湯呑を寄せてくるから、櫻子も湯呑を掲げてそれを迎え入れる。

 こつん、と当てれば口へ運ぶ。昼に飲むには熱い茶だけれど、こうして夜になれば、夏と言っても流石に心地良い。


「そういえば、向こうでかき氷が売ってましたよ。いちごやレモンの味の。肇さんはお好きですか?」

「私、抹茶金時が好きなんですよ。でもあれ、単体で食べると腹が冷えますよね」

「ですね。その後お茶を飲んだりすると、熱いやら冷たいやらで。今、ちょうどお茶を飲んでいて思い出しました」

「花火が終わってまだやっているようだったら、買いに行ってみます?」


 言ってから、二人は後ろを見る。

 とりあえずこれを平らげてから考えましょうか、という話になった。


「花火、そろそろですよね」

「ええ。櫻子さんは見たことありますか?」

「ありますよ。ただ、祭りの会場に行ったことは今までなくて。だから今日はてんやわんやでした」

「おや、そうなんですか。それならゆっくり回ってもらう時間を作れればよかったですね」

「いえ、いいんです。遊ぶ側じゃなく、作る側に立ってみるのも面白かったですから」


 振り向いて、焼き鳥の袋を手に取る。

 箸で外してもいいですかと訊ねれば、すぐに肇は頷く。私がやりますよと言うけれど、残念ながらその申し出は聞いてあげない。


 代わりに、櫻子は言った。


「忙しい日々でしたけど、成功してよかったですね。お祭り」


 顔を上げられなかったのは、少し踏み込んだつもりの発言だったからだ。

 もう少し思い切ってもよかったかもしれない、とも自分で思う。「成功してよかったですね」は「人も妖もたくさん来てくれてよかったですね」の言い換えだ。そして本当に言いたいのは「これからどんどんお客さんが来てくれるようになるといいですね」だし、「最見屋がもっと繁盛するといいですね」でもある。


 さらにその先には、個人的な思いがあって、


「――桜の花が、だいぶ開いてきましたね」

 それを知ってか知らずか、肇はそう言って繋げた。


 驚いたけれど、櫻子はそれを表には出さない。縁側からは祭りを覆う夜空が見えるのはもちろんのこと、庭先を通して見るものだから、自然とそれは目に入る。


 桜の木。

 春の終わりに、「あれが満開になったなら」と誓いを立てたあの花が。


「……そうですね」

 無難な言葉でそれを受けて、ちらりと櫻子はその花の様子を窺う。


 新たなお客が来るたびに戸惑いを生んでいる、年中枯れないあの桜。今見えるのは、六分咲き程度だろうか。あれからの進みを思えば、もしかすると次の春を待たずに満開になることもあるかもしれない。


 肇はそれを、どう思っているだろう。

 満開になれば結婚の話をと伝えたのを、彼はどう受け止めてくれているのだろう。


「それにしても櫻子さんって、物怖じしない方ですよねえ」

 そうして話が逸れたことに、だから内心、櫻子は安堵するような気持ちもあった。


 いきなり答えを知ってしまうのは怖かった。それが自分にとって都合の良いことばかりではないだろうと思えてしまうのなら、なおさら。


「そうですか?」

 話題振りに乗っかって、会話を繋げる。


「そうですよ。あんなに妖が来て、櫻子さんは全然動じないんですから」

「そんなことありませんよ。ただ、少しずつ慣れてきていただけで……はい。串、外しましたよ」

「どうもありがとうございます」


 箸でその鶏の一切れを摘んで、肇はさらに言う。


「その慣れるというのがすごいんですよ。私と違って、ずっと昔からこういうのがあると知っていたわけでもないんですから。櫻子さんもどうぞ。遠慮せず」

「はい。そうだ、これ真鍋先生のお店で買ってきたんですよ」

「ん、道理で美味いわけだ」


 ぱくぱくと、二人で箸は進む。

 これじゃ花火を見ているときに食べるものがなくなっちゃいますね、と笑い合って、


「さらに褒め言葉なんですが、櫻子さんは商売上手ですよね」

「どこがですか」

「そりゃもう、結果が物を言ってますよ。祭りのこともそうですけど、こうしてそれに取り組むだけの下準備も、ほとんど櫻子さんにしていただいたようなものですし……ちょっとだけ、情けない話をしてもいいですか」

「はい、何ですか?」

「ずっと、『ここではないのかもしれない』と思っていたんです」


 櫻子は、肇を見た。

 彼はこちらを見るでもない。どこか遠くを見るような眼差しで、祭りの向こう、これから鮮やかに輝くだろう空を見つめている。


 ちょっとだけ、照れたようにはにかんだ。


「すみません、いきなり真面目になってしまって」

「い、いえ」


 大丈夫ですと櫻子が言えば、それではお言葉に甘えてと、


「昔の……というか、昔からの話です」

 そんな風に、彼は言った。


「私は妖を見ることができますが、妖そのものではありません。人のつもりですが、人が使えない術を使えます。思春期に海の外に出ていたのもあってか、ずっと思っていたんです。自分がいるべき場所は『ここではないのかもしれない』――」


 挙句の果てに、と目を瞑って、


「その真ん中くらいにあるだろう最見屋の店主としての立ち位置も、経営の才覚が全くない。これはもう、一生自分はこのままなのかもしれないと思いました」


 櫻子は、それを黙って聞いていた。

 自分がそうしている理由を、それを聞いている自分の心のことを、櫻子自身くまなく理解できていたわけではないけれど、きっと驚いていたのだと思う。


 それは、いつも飄々とした調子の肇がそんなことを言うなんて思わなかったからか。

 あるいはその『ここではないのかもしれない』という感覚に、自分もまた心当たりがあったからか。


 どっちなのかはやっぱり、よくわからないけれど。


「なのに、櫻子さんが来てからはあっという間です。今までのことが嘘みたいに、こうして何もかもが上手く運ぶようになった」

「それは、偶然だと思います」


 けれど、それだけは口を挟んだ。


「私は大したことはしてません。ほとんどのことは、肇さんが最初からできていたことじゃないですか」

「『できる』と『できた』の間には、大きな溝があるんですよ。物は『持っている』ことではなく、『届ける』ことが大事なんです」


 私は、と思い返すように肇は言う。


「その届け方がわかりませんでした。最後に残った場所も『ここではないのかもしれない』と投げ出して、当てのない旅にでも出ようと思っていました。……でも、その日にあなたが来たんです」


 櫻子さん、と肇が名を呼ぶ。

 呼ばれなくたって、ずっとずっと、櫻子は彼を見ている。夜の星明かり。照らされた額と頬、輪郭。その全てから、目を離せないでいる。


 私、と肇の唇が動く。


「あなたが――」

 どん、と花火の音が重なった。





 音と光が夜空を彩っている。

 それに紛れるようにして、稲森は人垣を縫って歩いていた。


 祠近くの広場では、妖たちは一斉に花火に釘付けになって、何の世話も要らなくなった。だから交代するならここだろう。そろそろ登川の主も、人の目のないところでゆっくり飲み食いをしていい頃合いだ。


 自分がこっちの見張りは代わろうと、そう言うために稲森は、祭りの本会場に赴いている。


 面を被っているのは、登川がそうしたのと同じ理由。変化の上手い自分たちも被っているところを見せた方が、「こんなもん要らねえや」なんて妙な自信過剰をこじらせた妖たちへの示しになると思ったから。


 しかし今ならどの妖も、変化なんかしなくたって会場に潜り込めたかもしれない。

 なぜと言って、地上を見ている人間なんてほとんどいない。


 皆が皆、じっと空を見つめている。


 火花が散って、空に花の絵を描く。さっきまでの天気雨なんか、もうどこかに吹き飛ばされてしまった。一人一人の瞳が彩られ、宝石をちりばめたようにきらきらと輝いている。焼き鳥を焼く手が止まる。金魚が尾びれを返す。かき氷のための氷は削られることを忘れ、丸々とした身体を夏の熱に溶かして、水風船の浮かんだ水面は、花の国の盛りのように揺れていた。


 一番良い位置に、登川の姿を見つける。


「や」

「ん」


 短い言葉でこっちの存在を知らせて、


「向こうが大人しくなったから抜けてきました。こっちは僕が見てますから、戻っても大丈夫ですよ」

「そうか」


 ありがとう、と登川は言う。

 言ってから、


「もう少ししたら、そうする」


 稲森はそれで、登川がどこにいたのかを改めて見た。

 子どもたちの傍だ。知っている頭ばかり。最見屋の店の中や、登川のほとりでこの夏を過ごした、さいはて町の子どもたち。


 面白いことに、登川はその子の一人に袖を掴まれている。


「ふ、」

「何を笑ってる」

「いや、懐かれたものだなと」

「よくその口で言えたな。『守り神』様」

「もうずっと昔のことですよ。今じゃ、末裔がいるのかさえ知りません」

「それで片っ端からか?」


 勘弁してください、と笑って稲森はその場を後にする。

 どん、どん、と花火は打ち上がる。随分豪華だ。もう少し良い場所で見ようか。それとも祠の方に戻って、またあの酔っ払いどもの面倒でも見てみようか。


 考えながら歩いていたから、うっかり避け損ねた。

 とん、と肩が当たる。





 しばらく二人で、花火を見ていた。

 庭の向こう、空に大きく描かれたあの光に驚いて、ずっと眺め続けていた。


 ふ、と先に零したのは肇の方。


「今の、聞こえました?」

「いえ。ちょうど、花火の音が重なってしまって」

「ですよね。今の、自分でも聞こえませんでした。一発目だけ随分大きな音でしたもんね」


 はい、と櫻子は頷く。


 次々に花火が上がっていく。本当に肇の言う通り一発目だけが大きかったのか、それとも単純に耳が慣れたのか。それでも明かりは一発一発と地面も肌を震わせるように大きく、そして途切れることなく爆ぜていく。


「櫻子さん」

「はい」

「聞こえなかったとのことなので、もう一度言います」

「え、」


 自然の流れではあるが、どうしても驚いた。

 何なら最初の花火よりも驚いたかもしれない。けれど肇はそんなのどこ吹く風で、


「あなたが来てから、私は幸せなことばかりです」

 そんな風に、言ってのけてしまう。


 言いすぎだと思うから、櫻子は、


「わ、私はあまり関係ないと思いますけど」

「でも、あなたが来てくれたあの日から、全部が変わったんですよ」


 肇が言う。

 いつの間にか、彼は花火を見ていない。こっちを見ている。そしてそれに気が付いている以上、こっちこそいつの間になのだろう、櫻子も今は花火を見ていない。


 見つめ合っている。


「あのとき櫻子さんが喜んでくれて、初めて私は自分がここにいることの意味を掴まえた気がしました。それだけでもすごいことなのに」


 肇の頬に、髪に、花火の色が映っている。

 それだけじゃない。瞳にも。瞳の中に自分が映り込んでいて、それだって同じように、あの星よりも鮮やかな光に輝いている。


「あなたは約束と、日々までくれた。櫻子さん。私、」


 最初に会ったときを、思い出す。





「最近、あなたの夢ばかり見ます」

 そっと、二人の手が重なった。





 永遠みたいな時間だった。

 花火の音がなければ、きっと本気で勘違いしていたと思う。何もかもが止まった時間。目も、手も、一つだって動かせない。心はどこかに隠れてしまったみたいで、自分のもののはずなのに、いつまで経っても見つけられない。


 手。

 熱。


 燃えるようなそればかりが今、櫻子が感じられることで、


「――ごめんなさい。ちょっと、意地が悪かったですね」

 ぱ、と肇がそれを離した。


 いつもの調子に戻っている。一見してちょっと底知れないような、けれど触れ合っていくうちにただ柔和なだけだとわかり始めたあの表情。


 彼はばつが悪そうにして、


「約束も果たす前から、こんなことをするつもりじゃなかったんです。すみません」

「……い、いえ。あの、特に」


 しどろもどろになって櫻子は答える。

 花火がまだ上がり続けているのが、どれだけの幸いに思えることか。これが静かな夜だったら、この戸惑いにも沈黙にも、きっと耐えられなかったに違いない。


 そう言ってもらえると、と肇は笑って、


「この後、ちょっと屋台の方に行きませんか」

「あ、は、はい。足りなかったですよね」

「それもありますけど、二人で回りたいなと思って。もし、お疲れでなければ」


 前半と後半の、どっちに答えればいいかわからない。

 やっぱりまた、答えに詰まる。いつもなら先回りして助け舟を出してくれる肇は、今日に限ってはにこにこと隣で笑っているばかり。


 それどころか、ふっと目を逸らして、


「花火、綺麗ですねえ」


 二つが三つに増えれば、もう言葉なんてまとまるわけがない。

 はい、とその一言を口にするまでの、長い長い間。


 この花火が永遠に続いてくれないものかと、そんな無茶なことを、櫻子はいつまでも願っていた。





「あ、ごめんなさい」

「いえ、こちらこそ」

 肩をぶつけた相手は、一人の女だった。


 特に、何ということもない相手だ。稲森はそれを気にしない。一言互いに謝って、すれ違っていく。


 花火は続く。

 狐の面を被った狐は、その祭りの灯りに紛れて、どこか遠くへ進んでいく。


 そのはずだったのに、振り向いたのはどういうわけだったのだろう。

 何の前触れもないことだ。稲森も自分自身、どうしてそうしたのかわからない。道の端でほんの少し足を止めて、ほんの半身で振り返る。


 すると、向こうもこっちを見ていた。

 目が合う。夜だといって、これだけ光が溢れていればそれほど見難いものでもない。


 似ても似つかない顔。


 少しは、と狐は思った。

 幽霊にでもなっていたなら、少しは可愛げがあるものを。


「おい、狐」

「――ん? ああ」


 呼ばれて振り向けば、買い出しに来たらしい妖がそこにいる。


「どうしました」

「もうちょっと買いたいから、お前これ持ってくれ。腕を三本生やすわけにもいかんだろ」

「はいはい。後は酒ですか?」

「もうないのか」

「ええ。あの調子じゃ、朝までかもしれませんね」


 言いながら、稲森は妖と二人で歩き出す。


 もう一度振り向いた理由は、今度は自分でわかる。

 そこにはもういないことを、確かめるためだ。


「どうした?」

「いや」


 確かめ終われば、また稲森はいつもの調子に戻る。

 少しだけ大股になって、一歩を進む。


「また手紙でも書こうかなと、思っただけです」


 なんだそりゃ、と妖が言うから。

 なんでしょうね、と稲森は笑った。



(第八話・了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る