「あ、春河先生」

 何かついでに食べ物を買って行ってあげようと本会場の方に出向いてみると、松波千枝がそこにいた。


「ほんとだ。先生、確かこっちの方ですもんね」

「こんばんは」

「一人ですか? 私たちと一緒に回りましょうよ」

「どなた?」

「料理教室の先生」


 友達数人と誘い合わせて、ここに訪れていたらしい。

 みな美しい色の浴衣に身を包んで、かき氷やら水風船やら、いかにも楽しんでいますという風情で、それぞれが両手を埋めている。こんばんは、と櫻子はそれに丁寧に挨拶を返して、


「折角のお誘いだけど、ごめんなさい。これからお店の方に行かなきゃいけなくて」


 言えば少しは残念がられたけれど、千枝は納得した様子だった。


「やっぱりそうですか。先生のところ、すごい繁盛してたらしいですもんね。お父さんが『助かってる』って言ってましたよ」

「料理教室の先生ということは、どこかで出店をやってらっしゃるんですか?」


 事情を知らないらしい一人から訊かれるのに、


「いえ、道具屋なんです。今ちょっと、お店に人を残してきてしまっているので、何か買って行ってあげようと」

「大変なんですね。お祭りの日もお仕事で」

「そりゃそうでしょ。こうやって私たちが遊べるのも働いてくれてる人がいるからなんだから」

「気楽なのは今だけかー」

「そうだ。さっき向こうで、真鍋先生がお店を出してましたよ」


 焼き鳥、と千枝が教えてくれたから、ありがとうねと別れを告げて、櫻子は素直にそこに向かってみることにした。


「あ、櫻子さん」

「あれ、みんな」


 すると店の近くで、畔上郁が同級生らとたむろしているのを見つける。こちらもまた、幾人かは華やかな浴衣に身を包んでいる。手にした林檎飴の大きさと顔の小ささが、ひどく可愛らしく見えた。


「店長さんは一緒じゃないんですか?」

「今、店番してもらってるの。だから何か買って帰ろうと思って。すみません、焼き鳥三本ください」

「はいよー。って、春河さんか。お疲れ様。お店の方は順調?」

「はい。おかげさまで」


 そりゃよかったと真鍋は笑って、一本おまけまで付けてくれた。

 さて、他に何を買って帰ろうか。もしそのまま二人で店にいるようなら主食もあった方がいいだろうか。でも肇が入れ替わりでこっちに来るようなら自分で店を回って色々と選びたいだろうし。そんなことを考えながら、


「みんなはこれから花火?」

 改めて話しかけると、子どもたちは元気よく頷いた。


「うん!」

「ねー、櫻子ちゃん。ここから綺麗に見える? 屋台で見えなくなっちゃわない?」

「どうだろうね。結構高く打ち上がるって話だったから、多分大丈夫だと思うんだけど。心配ならもうちょっと向こうの、ほら風船すくい。あっちの方が、周りの屋台の背が低くて見えやすいかもね」


 確かに、と子どもたちは言う。今のうちに場所取りにと足早に駆けていって、その途中で別の友達を見つければ、その手も取っていく。


「――櫻子さんって、」


 けれど、郁だけがまだ、傍に残っていた。


「さっきの屋台の人と知り合いなんですか?」

「ん? うん、そうだよ。駅の方の料理教室の先生でね。週に一回通わせてもらってるの」

「それって、この間お店に来たお姉さんも通ってるところですか」

「よく知ってるね、郁さん。そうだよ。駅の方の公民館でやってるの」

「お母さんが、そういうところがあるって言ってて。……楽しいですか?」

「うん。楽しいよ」

「……友達も、できますか?」


 その言いぶりにふと、櫻子は以前に真鍋に言われたことを思い出した。


 一番近くにいる大人。いつか自分が進む場所は楽しい場所だと、子どもは誰かに言ってほしがっている。そんな風に、彼女が言ったことを。


 気付くのは、きっとこの祭りに来ている人の多くを、郁はよく知らないだろうということだった。さいはて町の内外から来るこの人々を、郁だけじゃない、子どもたちはみないつも気にすることなく生きているのだろう。櫻子だってかつてはそうだった。家族と友達、それがこの世の全て。そう思い込んでいたというより、あの小さな背丈から見えた全ては、確かにそのとおりだったのだ。


 でも今日は、それだけじゃない。ほんの数年後には郁もそうなっているであろう、女学生たちの連れ立つ姿もある。


 いつもとは違う風景の中だから、きっと。

 自分がいる時間と場所に、心細さを覚えることもあるのだろう。


「うん」

 だから、櫻子は迷いなく頷いた。


「大丈夫。郁さんにも、これからもっと楽しい思い出ができていくよ」


 郁は、照れたように俯く。

 それから小さく、うん、と言った。





「あら、雨だ」

 ぱら、と頬を叩いたそれに、妖たちは顔を上げた。


 稲森もそれに続く。

 手のひらを皿にして空を見た。星の散る夜。明るい紺色の墨を引いたような晴れ空から、はらはらと霧雨のような滴が降ってきている。


 天気雨だ。


「おいおい。この後花火なんじゃなかったか?」

「湿気ってできなくなったらつまらねえなあ」

「というか、収まりが付かないよ。そのときはあたしらで鬼火でも飛ばす?」

「それより登川はどこ行ったんだよ。あいつが雨乞いしてんじゃないのか、また」


 懐かしい景色だな、と稲森は杯を取る手も止めて、それを眺めている。


「すぐ止むでしょ」

 とは、鴉が言った。


「あんたら、こんな小雨で焦りすぎ。大嵐じゃあるまいし。このくらいならいくらでも打ち上がるよ」

「詳しいね、鴉」

「そりゃね。何たってあたしって社交的だから。長生きしてる分、人間より人間の里のことに詳しいよ」

「ほんとかよ」

「お前、三日前のことも忘れるだろ」

「信用ならねえなあ」


 口々に言われるものだから、あっという間に鴉はぶすくれる。

 もう随分酒が回ってきているのだろう。流石に完璧な変化も解けかかって、首筋のあたりからはあの黒々とした美しい羽根が覗いている。


 がっ、と彼女は稲森の肩に翼を掛けた。


「うわ」

「狐、あんたも何か言ってやれ! 庇え、あたしを!」


 ぱしゃりと杯が揺れて、零れた酒が雨と共に地面に飲み込まれていく。

 勿体ないな、と稲森は苦笑して、


「このくらいなら花火はやりますよ。大人しく待っていましょう」

「ほらー!」

「ほんとかよ」

「狐なんて嘘吐くのが生き甲斐みたいなもんでしょ」

「むしろ信憑性が落ちたよ」


 ちょっと、と稲森は言い返す。


「随分人聞きが悪くないですか。僕、君たちと知り合ってからはそんなことしてませんよね」

「事あるごとに言ってるそれがもう怪しいんだよ」

「本当の正直者なら『君たちと知り合ってから』なんて前提は付けない」

「こいつも登川と同じで、いつから生きてるかよくわからんような奴だしな。大体人里に降りていってごそごそやってるような奴、全員怪しいわ。そのうち槍と弓を持って俺らの巣を攻めに来るぞ」

「は? ちょっと、今あたしのことも巻き添えで言わなかった? 鉄砲隊引き連れてあんたらのねぐらに攻め入ってやろうか?」

「ほら、やる気満々が一」

「洒落にならねえだろ。やめろやめろ」

「そういや狐って、いつからこのあたりを根城にしてんだ。ひょっとして登川より長えのか?」


 いや、と稲森は首を横に振った。

 地面に置かれた適当な酒杯をかっぱらって、口に付ける。微かな雨がその水面を揺らすのを感じながら、


「流石に登川の方が随分早いはずですよ。僕がこっちに来たときは、少なくとももう川の方がありましたし。しばらく面識はありませんでしたけど、向こうの方が早くに生まれていたと思うのが自然でしょう」

「こっちに来た?」

「ええ。元は西の京にいたんですよ」


 一気に妖たちの目が胡散臭げなものに変わる。

 さっきまでの戯れとは違う温度。いかにも、と納得するような表情。


「ますます怪しいな」

「古い時代の京落ちなんてろくでもない奴だと相場が決まってる」

「お前、最見屋に取り入って王になろうとでもしてるんじゃないだろうな」


 してませんって、とそれを揉み消すように稲森は笑った。


「それよりほら、祭りの場で昔話なんてしてたら芯から腐っていきますよ。飲めや歌えや、花火が上がるまでもっと盛り上がろうじゃありませんか」

「誤魔化したぞ」

「おい、右大臣の座は空けとけよ」

「お前が右大臣なら私は関白だな」

「やめとけやめとけ。宮仕えなんてろくなことにならないぞ。おれぁ少なくとも二度とごめんだ」

「ねえ、もう呑むものないのぉ?」

「こっちに残ってんぞー」

「うぅっ、雨冷たいっ!」


 ぶるぶるっ、と鴉がその身を震わせた。

 羽根から飛沫。一斉に周りから顰蹙を買うけれど、鴉は気にしない。もう一度空を見て、


「そもそも、なんで晴れてるのに降ってるわけ?」

「あれ、鴉。知らないんですか」

「何が?」

「天気雨の原理」


 原理ぃ、と鴉は顔を歪めた。


「あたしは難しい言葉のことは何も知らない。それがほんとの賢さだから」

「こいつ何言ってんだ?」

「まわってきた、まわってきた。ほら鴉、おかわり持ってきたよ」

「ありがとーっ」


 手渡されて、一瞬のうちに鴉は杯を乾かす。

 さらに目付きがとろみを帯びて、


「何の話してたっけ」

「こいつすごいな」

「本当に花火はやれるの? 鴉の言う通り?」

「やれますって。すぐに雨も止む……というか、多分もう止んでますから」


 狐が言えば、妖たちは怪訝な顔をした。


「見た目に出ないだけで泥酔か?」

「狐。賢い君をさらに賢くしてあげる。こうやって空から落ちてくる水のことを『雨』って言ってね。それに身体が濡れてる間を『降ってる』って言うの」

「ご親切にどうも。それじゃあお返しに、『雨』が『雲』から降るものだということを教えてあげましょう」


 狐は空を指差す。

 すると他の酔っ払いどもは単純なものだ。それに釣られて頭を上げる。


「残念だったな、狐。年で目を悪くしたのか知らないが、今の空に雲はないぞ」

「お前の原理とやらも当てにならんな」

「そういうときはどっちかです。目に見えないほど高い空に雲があるか、とっくに風に流されてしまったか」


 ず、と酒を啜って、


「雨は、落ちてくるまでに意外に時間がかかるんだそうです。薄い雲が雨を降らした後、風の向くままどこかに消えてしまったんですよ」

「そんなことあるか?」

「俺たちを騙して何の得があるんだよ」

「面白がってるでしょ? 正直に言いな」

「本当ですって」

「鴉、本当か?」

「知んない。なんであたしに訊くわけ」

「お前が鳥だからだろ」

「なんで空飛んでるのに知らねえんだよ」


 それからは、押し合い圧し合いのくだらない争いが始まる。


 狐と鴉なんて胡散臭いにも程がある組み合わせだとか、どう考えても賢くて頼りになる二人組でしょ肩組も肩とか、食べ物が足りない、飲み物が足りない、花火が始まってからじゃ遅い、本当に花火は始まるのか、雨が全然止まないじゃないか、誰か上まで飛んで見てきなよ、花火が当たって死ぬわとか、そういうこと。


 やがて追加の酒と食べ物が来れば、そんな会話も忘れ去られて、また皆は空を眺める。今か今かと待ちわびる。


 まだ少し、額にかかる雨。

 稲森は静かに、心の中で思う。


 雨はいつも、遅れて来る。

 降ったことに気付いたときには、もうそこにないのだ。





 がらり、と戸を開けるとやっぱりそこにいた。

 勘定台に頬杖を突いていた彼は、それでさっと背を起こす。


「あれ、何かありましたか」

「何かあったというわけではないんですけど。稲森さんが向こうは見ていてくれるとのことだったので、戻ってきちゃいました」


 店内には、明かりの一つも灯っていなかった。

 けれど遠くの祭りの眩さのおかげか、それでも全く不便ではない。少なくとも肇の表情は窺えて、かくかくしかじかと櫻子はここに至るまでの経緯を説明する。


 入れ替わりでお祭りの方に行きますか、と訊くと、


「いや、いいですよ。稲森がそう言うならそれ以上はないでしょう。それよりありがとうございます、食べ物。まだ食べてなくて。櫻子さんはもう済ませましたか?」

「あ、向こうでほんのちょっとだけ」

「お腹はまだ空いてます?」

「はい」

「じゃ、一緒に食べましょう。……ああ、でも」


 食べ物を受け取りながら、肇は窓の外を見た。

 遠い目。二秒。それからこっちに向き直って、


「折角ですし、花火を見ながら食べませんか」


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