久しぶりに会った弟妹は、思った以上に大きくなっていた。


 それが面白くて三田村幸多はここ最近ずっとはしゃぎ通しで、そこに夏祭りが重なればもう、有頂天と言っていい。


 今日なんかもう、日が昇る前から目を覚ましている。

 だというのに、全く眠くない。


 祭りには家族で行くことになっていた。ぼく背負う、と母に言えば、無茶を言うなとあっさり躱される。最見屋で買ってきた乳母車に弟妹は乗せられる。これを見るたびに自分も乗ってみたいとちょっとだけ幸多は思うけれど、しかしそれを遠慮するだけの気持ちはある。そのうち学校の友達と、乗り回せる何かを作ってみよう。あの店の何でも知ってるてんちょーに、作り方を訊いてみるのもいいかもしれない。


 家を出る頃には、もう夕方だ。

 本音を言えばお祭りなんて、朝から晩まで楽しみたい。だけどこの時間からしか出店がやっていないというんだからしょうがない。橙色に焦げ付くいつもの道を、幸多は母を先導するようにして歩いていく。


 見慣れた通りが、少しずつ知らない形に変わっていく。

 いくつもの飾り提灯が、祭りへ続く道を彩っていた。日が落ちていくにつれて徐々に明かりが灯り始め、夜の闇もいよいよ迫り始めれば、何だかこれから全く知らない世界に迷い込むような気がしてくる。何度も振り返ったのは、不安になったからでも怖くなったからでもない。家族を知らない場所に、置いて行かないように。


 会場に着くと、何もかもが夢みたいだった。


 見知らぬ場所というわけでもないはずだ。この町の色んなところを幸多は遊び尽くしている。けれどそこに食べ物の匂いが、かき氷の色が、水に浮かんだ風船が、海の向こうから渡ってきたおもちゃの群れが加われば、もう二度と訪れない季節のような、少し瞼を動かせばそれだけで消えてしまいそうな、そんな場所に変わってしまう。


 父はすぐに見つかった。

 会社で出しているらしい屋台の向こう側。こっちに気付くと手を挙げて、「もうすぐ終わる」と言う。父の作る焼きそばはいつも美味しい。焼きそばの他はそこまで美味しくないのが、たまに傷だけれど。


 仕事を終えてこっちにやってきた父は、法被を着ていた。祭りに合わせて作られたものらしく、いいないいな、と言うと「そう言うと思って」と子ども用の小さいのをくれるから、喜んでそれに腕を通す。母が言う。途中で抜けてきちゃって大丈夫なの、仕事は。父が答える。設営と下準備と後片付けが仕事だよ、明日の朝もちょっと出るつもりだ。


 兄らしくいられたのも最初のうちだけ。

 同級生の何人かとすれ違ううちにうずうずと始まって、両親から「行っていいよ」「会場から離れないようにな」と言われれば、もうあっという間だった。


 友達と合流して、とにかく遊び尽くす。


 まずはお腹いっぱいになるまで食べるのだ。今日はこれ用のおこづかいももらったし、自分はケーカクテキだからこの間の封筒のお釣りもこのために残しておいた。そしてお腹いっぱいになったら、そこからまたお腹がすくまで遊び倒す。射的、輪投げ、型抜き、風船すくい。途中で会った郁はとても綺麗な色の浴衣を着ていて、大人の人みたいでちょっと緊張した。いくつか言葉を交わして、すぐに「またね」と別れてしまう。


 そうだ、と林檎飴を買いながら、幸多は思った。最見屋は来ているだろうか。忙しそうだったけど、櫻子ちゃんとてんちょーなら面白い出し物をしているに違いない――


 そう思って、友達と連れ立ってきょろきょろと歩いているときだった。


「わ、」

 とん、と人にぶつかってしまった。


 幸い、飴が向こうの着物に付くことはない。しかし意外と人が混んできたのもあって、上手く避け切れなかった。すぐに謝ろうと、幸多は顔を上げる。


 お面の人が、そこに立っている。


「……川のおねーちゃん?」

「んなっ、」


 言えば、その奥から聞き慣れた声がした。


 なんでなんで、と訊ねる。すると彼女は「しっ」とお面の前に指を立てる。ここじゃ邪魔になるからと、通路から少し外れたところに幸多を連れ出す。


 一瞬のうちに、友達とは別れてしまった。

 だからだろうか。昼間は滅多に出てきてくれない彼女は、幸多と同じ目線になるまで屈み込むと、簡単に面を押し上げて顔を見せてくれた。


「よく気付いたな、お前」

 登川の主だ。


 なんでなんで、ともう一度幸多は訊ねる。なんでここにいるの、なんで川から出られるの。主は「それ、この間櫻子にも言われたな」と零してから、


「別に、様子を見に来ただけだよ。祭りなんていつぶりかわからないからな」

「一緒にまわる?」

「回らない。あとお前、こういう面をした奴には話しかけるなよ」


 こういう、のところで主が指差したのは、自らの額にかけた木彫りのお面。

 幸多は素直に、


「なんで?」

「危な……くはないが、まあ、そういう奴らだからだ」

「妖怪?」

「あんまり言うな。目立ったら面倒くさい」


 幸多は主から視線を外して、通りの方を見る。


 確かに、それは幾人もいた。どうして今まで気付かなかったのだろう? 道を歩く人の三人に一人は、それを顔に嵌めている。一度気付けばこんなにもわかりやすく、こんなにも溢れているのに。


 そういう不思議なものに、ちょっとだけ心当たりがある。


「てんちょーのとこの?」

「まあな。この調子なら大事にはならないと思うが、ま、気を付けろ。特にお前らは無鉄砲だからな。間違ってもあいつらの面を外そうなんて思うんじゃないぞ」


 じゃあな、と主は立ち上がる。

 踵を返そうとするその裾を、幸多は掴まえた。


「なんだ」

「花火。いっしょに見よーよ」

「友達と見ろ」

「みんなといっしょに」


 じっ、と幸多は主を見つめてみた。

 主は眉間に皺を寄せる。何かを考え込むような仕草。試しに幸多は、その裾をもう一度小さく引っ張ってみる。


 はあ、と溜息を吐いた。


「後で、ちょっとだけな」





 何やかんやと言って上手く行った。

 と、言ってしまっていいものか。


「おーい。焼きそばが来たぞ。食いたい奴はこっちに取りに来い」

「お、いいな」

「また食い物か。もっと酒はないのか、酒は」

「さっき酒を取りにいった奴らが戻ってこんのだ」

「誰か迎えにいけばいいでしょうに」

「迎えにいった奴も帰ってこんのだ」

「全員向こうでくたばったか?」

「どうせへべれけになるまで屋台の先で呑んでんだろう。変化も解けてたりしてなあ」

「笑いごとか?」


 祠近くの妖の酒盛りは、のんべんだらりと進んでいた。


 変化は解けて、すっかり気色は百鬼夜行だ。これまで見たこともない存在ばかりが目に入って、櫻子は夢心地でそれを見つめている。


 肇が使おうと言ったお面は、当然と言うべきか、ただのお面ではなかった。

 最見屋の蔵の中から引っ張り出してきて妖に被せようというのだ。これが何の変哲もない単なる木彫りの面だった方が驚きである。形も色も不揃いの、見ようによっては不気味に見えなくもない怪しいお面。


 被れば、とりあえず目立たなくはなる。

 おまけに一番人が違和感を覚えやすい『顔』という部分を覆い隠すことができる。そうなれば妖たちも、後は身体の形と歩き方を覚えるだけ。それだって多少不自然なくらいじゃ誰にも気にされない。


 飛ぶように売れた。


 ただし、対価は馴染み深い金銭ではなく、「己が関わりの不思議の品、しかる後にお譲り申す」というざっくばらんな約束だけだけれど。


 でも、きっと。

 最見屋をやっていくなら、こういうことの積み重ねが大切なんだろうなと櫻子は思うし。


 祭りまでの数日の間に町の人々から得た売上と、知名度と、そういうのを合わせて、少しばかり良い気分になっていたりもする。


 妖の祭り場の、その片隅でのことだ。


「よっ、櫻子! 楽しんでるぅ?」

「わっ」


 たす、と肩に手を掛けられた。


 隣を見れば、鴉だ。手……というかほとんど翼に戻ってしまった腕の先には、かろうじて酒瓶が握られている。顔は赤い。酒の匂い。平時にも増してへらへらと上機嫌な様子で、


「やっぱ人でも妖でもたくさん集まってるところって面白いわ! みんな呼んできてよかったでしょ!」

「それはもう。ありがとうございました、鴉さん」

「いいっていいって、あたしたちの仲じゃん! って、あれ? 櫻子、飲み物は? 何も呑んでない? ようし、ここはあたしの――」

「こら。絡まない」


 とす、とその頭に手を置いて諫めたのは稲森だ。

 ぶるる、と鴉は頭を振る。おいおい、と稲森は呆れた顔をして、


「だいぶ回ってますね、君。大丈夫ですか? いざってときにここを誤魔化すのは僕か登川か君なんですけど」

「だいじょうぶ、だいじょーぶ! あたし、ほら、酔っぱらっても口は回るからさあ!」

「口が滑るの間違いじゃないといいんですけどね」


 あんだとぉ、と据わった目で鴉が稲森を見る。


「あたしの口を滑らせたいなら、もっと美味い酒を持ってこい、酒をっ。それか食い物。肉。魚」

「どうせまたすぐ――ほら来た」


 稲森が言った方を見ると、確かに森の向こうからいくつかの影がやってくる。


 櫻子は、いつもそれを見るたびに緊張する。ひょっとすると人なのではないか。この宴会場を見て、驚きのあまり大声を響かせてしまうのではないか。……が、今回も助かった。お面を付けた人影たちは、森を出るやそれを外して、思い思いの姿になってこちらにやってくる。


「よーし、いいぞぉ!」


 鴉は叫ぶと、彼らが祭りから持ち帰ってきた土産に突撃して行った。ばさ、と翼がはためく音すらする。勢い込んだのが止まらずに、あれは何の妖だろう。見上げるような高さのそれに首根っこを掴まれて、へらへらと笑い声を上げている。


 楽しそう、とその様子に櫻子が笑みを零せば、隣で稲森が言った。


「あれだけ酔っても変化の術が完全に解けないのは、相当すごいことなんですけどね」


 苦笑交じりの彼は、それからこっちを見て、


「ところで、ずっとここにいても退屈じゃありませんか?」

「いえ。大丈夫です。お気遣いなく」

「そうですか? ここは大丈夫なので、肇くんの方に行ってあげてもらえるといいかなと思ったんですが」


 櫻子は、返答に困った。

 自分一人の問題なら「いえそんな」でそのまま居座っていたと思う。実際ここの空気は賑やかで、多少はらはらすることこそあれ、居心地は良い。しかし肇は、遅れて来た妖たちに面を渡すため、設営の手伝いが終わってからは自分と入れ替わりで店番に残っているのだ。


 一人でずっとそこに残しておくというのも、なんだか気が引ける。

 それなら自分と入れ替わりで、こっちに連れてきてあげた方がいい気がする。


「……本当にこっちは、大丈夫でしょうか」

「何とかなりますよ。何だかんだ鴉も人に馴染みやすいのを呼んできてくれたみたいですし、いざというときは僕もいますから」


 確かに稲森の言うとおり、今日この祭りを訪ねてきた妖は、みな自分にも友好的だった。多少はしゃいでいる様子こそあれ、この場で大喧嘩なんてことは起こりそうにない。


 それなら、と櫻子は、


「こっちでも本会場の方でも、何かあれば呼んでもらえますか。すぐに入れ替わって肇さんにこっちに来てもらいますから、そんなに長く空けることにはならないと思うんですが」

「いや、いいですよそんな。二人でゆっくりしてきてください。本会場の方も、さっきから登川が戻ってきてませんしね。あれは変化が上手いですから、向こうで見張りも兼ねて楽しんでるんでしょう。放っておいたって平気です」


 それに、と彼は微笑んだ。


「そんなに何もかも背負い込む必要はありませんよ。最見屋なんですから、無責任なくらいがちょうどいいんです。妖は妖でこれまでやってこれていますし、いきなり何もかもダメになったりはしませんから」


 もう少しだけ、櫻子は悩んだ。

 この場所に来たなりの責任感を覚えていたから。けれど心はもうすっかり傾いていて、だから結局、


「じゃあ、」

 と切り出すことになる。


「お言葉に甘えて、家に戻ってみます。肇さんと相談して……こっちの方が賑やかですから、もしかしたら二人で戻ってくるかもしれませんけど」

「そのときは歓迎しますよ。でも、戻ってこなくてもこっちは勝手に三々五々に散りますから。お構いなく」


 はい、と腰を浮かすその直前、


「稲森さん」

「はい」

「ありがとうございます」


 はにかんで言えば、稲森も笑った。


「どういたしまして。良い夜を」


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