第八話 まつりまつれどまつるとき(下)



 昔々あるところに、一匹の狐がいた。



 本当に、本当に昔の話だ。

 人の世では誰も彼もが忘れ去り、今や書物にそのほんの名残だけが姿を現すような、古い時代のこと。


 それは、逃げていた。

 何から逃げていたのかは定かではない。狐自身すらも、もうとっくに覚えていないかもしれない。ただそれは遠くへ遠くへ逃げ続け、西の京から続く遥かな足跡を、大地の上に残していった。


 その足跡が、一瞬の雨に飲まれて呆気なく消えていく。


 狐は、軒の下からそれを見ていた。


 ぼろぼろの身体だ。傷だらけで、毛並みも棘のように乱れている。手負いの獣。鋭い牙だけはいつまでも健在で、険しい瞳で空を見上げている。


 雲一つない。

 晴れた日に、はらはらと嘘のように降り散る雨。


 太陽の眩しさに、目を細める。


「おや、先客だ」

 その視界に、不意に人の姿が映った。


 顔に傷のある女だった。着ているのはほんの粗末なもの。髪に水滴を散らし、濡れた肩口から覗く首周りは、夏の日差しを経て皮膚を固くしている。


 怯えた様子もないのは、もうすっかり狐が本来の姿を失っていたからか。

 それとも単にそういう気質の、物事に頓着しない女だったのか。


 雨の降り止むまでを、一匹と一人は同じ軒の下で待った。


 言葉は交わさない。雲の流れを当てにすることもできずに、目に見てはわからない雨と時の果てを、人知れず待ち続ける。


 狐はずっと、空を見ていた。

 それで初めて、この雨が降る理由を知った。


 やがて女は軒の下から手を出した。手のひらに何の滴も溜まらなくなったのを見て、よし、と続けて身体も出す。


 雨上がりの空は、宙に舞う塵も流れ落ちて、澄み渡っている。

 空気は湿り気を帯びて、遠い土の匂いを連れてくる。


 女が振り向いた。


「来るか?」


 答えを聞きもしないで歩き出す。

 狐はその背中を、じっと見つめている。


 どうしてその前足が、それから動き出したのか。

 遠い昔の話だから、狐自身もう、覚えてはいないのだろう。


 一人と一匹の足跡が、寄り添うように長く、長く続いていく。

 あまりにも長いものだから、それは途中から、一匹だけのものになる。


 ずっとずっと昔の――忘れてしまったって構わないような、遠い日々の話だ。





「……おい、お前。自分が何者か言ってみろ」

 肇が頭を抱えながら指図すると、対面したそれはぐっと胸を張って、


「ニンゲンデス」

「――人間のどこからそんな鋼みたいな髭が飛び出てるんだ。ええ?」


 祭りの日の朝のことだった。

 その日、櫻子はいつも以上に早く起きたけれど、肇の方がもっと早かった。大丈夫なんですか、夜も長いですしもう少し寝ていた方が。櫻子がそう言うと、肇はしかし首を横に振って言う。もうすぐ来ます。


 それから本当に、怒涛のように妖たちが店に現れ始めた。


 これには櫻子も思わず腰を抜かしそうになった。今まで出会った妖……稲森、登川の主、鴉のような者たちを想像していたら、全く違ったからだ。


 何せ全員、人間のふりができていない。

 一目顔を見れば、どう見たって何かの物の怪が人間のふりをしているだけだと、誰にだってわかってしまう。


「何だよ。うるさいな。人間だって髭くらい生えてるだろ」

「それから目。もろに猫の目が丸出しだ。耳も。お前、頭の耳を消したのはいいが人の耳をつけ忘れてる」

「こうか?」

「位置が違うだろ。横につけろ。大体――もう私のと同じでいいから、よく見て作れ。それなら貝殻を括りつけてた方がまだマシだぞ」


「ははは。獣の妖のくせして変化が不得手じゃあなあ。私を見習え、私を」

「岩。お前もだよ。正面はいいが横から見ると全く凹凸がない。鏡と骨格の見本を貸してやるから、しっかり見ながら作り直せ」

「何? ……おい、なんだこりゃ。これじゃ顔じゃなくて崖じゃないか」

「作った自分に言ってやれ」


「おい、最見屋。僕はどうだ? こいつらを見てたら不安になってきた」

「お前は大丈……待て。話すときは口を開けて話せ」

「こうか?」

「いや、『あいうえお』の音に気を付けながらもう少し連動させて……歯を作り忘れてるな。あと、舌も」

「よくわからんぞ。何も言わなかったらそれじゃダメか?」

「それならそれでもいいが……おい、そこの提灯! そんなびかびか顔を光らせながら外に行くつもりか!? 太陽の光が当たれば勝手に人間の顔は輝くんだから、中に火を入れるな!」


 どうもこういうのには、上手い下手があるらしいのだ。


 今まで出会った妖たちは、みな人慣れしていて、そこのところが上手かった。が、鴉が呼んできてくれたこの妖たちは「人里に降りるのなんて一体いつぶりだか」という者ばかり。


 逆に考えてみれば、と櫻子は理解できる。

 たとえば今から自分が猫か何かに化けてみるとして――もちろんそんなことはできないけれど最見屋の道具か何かを使うとして――、いきなり完璧な猫の姿になれるかというと、きっとそうはなれない。細かいところはわからないし、同じ猫からは「さてはこいつ……」と瞬く間に見破られてしまうに違いない。


 しかし、これからこの妖たちが向かう場所は、人間の群れの真っただ中である。


 だから肇は、朝から妖たちにここが違うそこも違うと、熱心に指導することしきりだった。


「肇さん、」

 それがいつまでも終わりそうにないから、櫻子は声を掛けた。


「あんまり終わらないようだったら、私が代わりに設営に行きましょうか。簡単な方なら大体わかりますよ」


 振り向いた肇は頭を抱えていて、


「大変ありがたい申し出なんですが、それでもちょっとどうにもなりません」

「……あ。工具を取りに来る人が?」

「そうなんですよ。貸出希望の方なんかは早ければ昼頃にはこっちに来てしまうでしょうし、いずれにせよこの妖たちをここに溜めておくわけにはいかないんです」


 岩の妖がそれを聞きつけて、


「おい、最見屋にしてはえらく礼儀正しいと思ったが、そういうところは歴代にそっくりだな。舐めるなよ、この程度の術、私はすぐにでも――あ、」

「練習中に頭をボロボロ落とすのはいいんだが、床に傷は付けんでくれよ。直すのは私なんだ」

「くぬっ、この程度、ほっ――」


 ごろん、とやはり頭が転がる。


 これで昼までにどうにかというのも難しかろう。だから櫻子は、


「場所を移しますか?」

 小さな声で、肇に言った。


「打ち上げ花火の場所が変わったじゃないですか。変わる前の、ほら、祠の近くのあそこなら、人もなかなか来ないと思いますし。そっちで肇さんに――」


 しかし言いながら、この方法の欠点にも気付いてしまう。


「これだと、店番がいなくなってしまうんですね」

「そうなんですよ。櫻子さんに設営の方に回ってもらって、私が稲森の祠の方に行くと、工具貸出をやれる人間がいなくなってしまって……うーん。誰かに店番だけ頼んでみましょうか」

「誰に?」

「……三田村さんが一番その手の理解がありそうなんですが、ご家族が帰ってこられたばかりなんですよね」

「幸多さん、家族みんなでお祭りに行くって言ってましたよ」


 うーん、とここで難題だった。

 そもそも妖を祠の方に移動させたところで、夏の桜を目印に妖たちは集ってくるのだ。店の方に何の事情も知らない人を残して、変化の未熟な姿と遭遇させては目も当てられない。


 何か良い方法はないかと、二人で頭を捻る。

 猫の妖は「おい、耳が見えないぞ」と文句を言い、岩の妖はちょうどそのとき頭を捻り落として、貝の妖は岩の後ろで何度も口を動かして言葉を発する練習を続けている。他にも種々、様々な妖が店の中で悪戦苦闘を繰り広げ、とうとう肇が「蔵から」と話し始めたとき、


 がらり、と戸が開いた。

 いらっしゃいませ、と反射的に櫻子は歓迎の挨拶を口にする。振り向く。知った顔。


「おお。なんだかすごいことになってますね」

 稲森だった。


 あ、とその幸運に櫻子は嬉しくなる。救いの主だ。


「稲森さん。実は今、ちょっと困っていて」

「ええ。何か手伝いましょうか。店番か、それかこの未熟者どもをどこか人目の付かないところに引っ張って見張っておくか」


 多くの妖は、狐とも面識があるらしかった。

 未熟者というその物言いに、口々に不満が飛ぶ。変化はお前の得意技だろうが。狐が変化できるのなんて鳥が空飛ぶようなもんだろう、鴉から言われるならともかくなんでお前が。調子に乗るな、まっすぐぶつかれば俺の方が強いぞ。


 はいはい、と稲森は苦笑して躱す。

 その間に櫻子は肇に、


「どうしますか。肇さんが設営に行った方が確実だと思うので、私が店番をして、稲森さんには祠の方に皆さんを連れて行ってもらう形がいいでしょうか」

「いや、もっと良い方法を思いつきました」

「どんな?」

「前に、二人で話したじゃありませんか」


 稲森、と彼は呼びかける。

 振り向くのを見れば、やわらかく笑った。


「おかげで思い出せた。ありがとうな」

「……どういたしまして?」


 稲森は首を傾げる。

 何の話ですか櫻子さん、とこっちに振ってくる。櫻子は首を傾げ返すほかなくて、だからその後、二人揃って肇を見る。


 彼は、自信満々に言った。


「お面を売りましょう」


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