「なんだ、お前らか」

 と言って登場したのが知った顔で、櫻子はつくづく自分は遠いところまで来てしまったのだなあと感慨深くなった。


「雨の水辺でちゃぷちゃぷやってる阿呆がいると思ったら。お前だけならともかく、櫻子まで連れて来たらいかんだろ。危ない」

「急に雨が降り出したんだよ。というか、雲だってないんだぞ。流石に予想できない」

「さっきまで出てただろ。ちゃんと空を見てから動け。鈍いってわけでもないんだから」


 登川の主だ。

 彼女はいつもの調子で肇と言葉を交わした後、こっちを向いて、


「ほら、櫻子なんか可哀想に。肩の辺りがちょっと濡れてるじゃないか。寒くはないか?」

「寒くは…………」

「ん? どうした」


 言っていいのか悪いのか。

 しかしどうしても気になったから、じっとそこに視線を注いだまま、櫻子は訊いてしまう。


「歩けるん、ですか」

 言われて主は、ぽかんとする。


 それから自分の右足の裏、左足の裏と交互にひっくり返して見て、


「そりゃ、お前らだって水の中で泳げるんだから。あたしが陸を歩けない道理はないだろ」


 よくわかるような、わからないような理屈を押し通された。


「そうだ。もしかしてお前か?」

「何が」

「昨日、このへんで人が幽霊を見たって言ってたんだよ。それで頼まれて調べに来たんだ」

「ほー。いよいよやってることが最見屋らしくなってきた。めでたいじゃないか」

「どうも。で、昨日見たその幽霊っていうのがお前なんじゃないかってことなんだが」

「昨日?」


 主は拳を顎に当てて、


「このへんの話か?」

「らしい。ほら、あっちの広場の方があるだろ」

「広場ぁ?」

「開けたところ。元は畑か?」


 ああそこか、と言った。


「行ってない。昨日はずっと川にいた」

「人間の心配をしに行ったのが照れくさいから隠してるとかじゃなく?」

「誰が――あ、そうだお前。あのガキどもをちゃんと見張っておけ!」

「子ども? 何かあったのか」

「あいつらしょっちゅう橋の上から飛び込もうとしてるんだぞ。頭の骨を折って死ぬだろ、そんなの」

「ああ……わかった。ちょうど親御さんに伝手ができたから、そっちから伝えておくよ。悪かったな、面倒見てもらって」


 櫻子も一緒になって礼を言ってから、


「あの、じゃあ、登川の主さんは違うってことでいいんですよね?」

 話を戻すと、やはり主は頷いた。


「そんな奴らは知らん。というか、ここで花火をやるのか? 辺鄙だろう」

「打ち上げるのに使うから、辺鄙な場所からじゃないと困るんだよ。ちなみに、ここの他にどこかそういうのに使えそうな場所は知らないか?」

「そういう場所も何も、そんな場所だらけだろ。広くて何もなければどこでもいいのか?」

「詳しいところはわからん。が、もし知ってたらいくつか教えてくれ。花火職人がこの場所を怖がって近付けないみたいだから、代わりの候補地があれば助かるんだ。あ、それからここ、幽霊だけじゃなくて火の玉も出るらしいぞ」

「火の玉ぁ?」


 森が燃えるかもしれないから気を付けろよ、と肇は言う。しかし主の方はそれに対して耳を傾けておらず、思案顔になって、


「稲森じゃないか?」

「ん?」

「その幽霊。あいつ、たまにこのへんに来ることもあるぞ」


 驚いたのは、どうやら櫻子だけではなかった。

 肇もまた、不思議そうな顔をして、


「なんで」

「なんでって……。そんなのおれも知らないが。強いて言うなら、」


 あれじゃないか、と主は遠慮なく指差す。


 木と木の間に貼られた門縄。その奥。肇が神域と呼んだ場所の、向こうに続く暗がりを。


「あの奥にある祠、昔あいつを祀ってたやつだろう」





「いやー、失礼しました。行商でたまにこっちに伺うんですが、どうも記憶違いで森の中に迷い込んでしまいましてね。提灯一つで川の音を頼りにうろうろしてたんですよ」


 というのが、肇に公民館まで引っ張り出されてきて、花火師たちに対面した稲森の言。


「見てのとおり、ほら。洋装で上が白いでしょう。提灯の明かりもあって、それで幽霊みたいに浮き上がって見えたんじゃないですかね。ところで不安も解消されてすぐのところ恐縮なんですが、他にも打ち上げの候補地に心当たりがありまして――」


 というのが、その稲森を引っ張っていって、問題はこれで解決しましたと言わんばかりに丸め込みを始めた肇の言。



 そしてその二人の饒舌っぷりを後ろで黙って見ていた櫻子の、後になっての言は、こう。


「――何だかお二人って、兄弟みたいですよね」

「そうですか? 自分ではそんな感じはしないんですが」

「僕も同感です。でもさっきの方々、ちょっとびっくりしてましたね。僕はそういう風に化けているので当然ですが、肇くんと並ぶと得体の知れない雰囲気が増してしまって」


 さいはて町に来るとき、稲森は大抵駅の方に宿を取っているらしい。

 もしかしたら夏祭りの話を聞いて、それまではそこに滞在しているんじゃなかろうか。そう思い立った肇の動きは早く、昨日の今日で稲森を捕まえて公民館にまで連行すると、その場で花火師と松波ら自治会員たちに説明を終えてしまった。


 今は、日差しがいよいよ気合を入れ始める午前九時。

 まだ子どもたちも来ていないから、連れ帰ってきた稲森も含めて、店の中で話していた。


「それにしても、稲森さんって神様だったんですねえ」

「なかなか大したものでしょう? たまの親切はしておくものです」

「私も知らなかった……が、不思議でもないのか。登川の主だって上流の方に祠はあるしな。昔はこのあたりに定住してたのか?」

「どうでしょうね。しばらく住んでいたことはありますけど、人間の感覚で言ったらあれくらいでも定住になるのかな」


 すっかり遠い昔の話だ、と稲森が湯呑を取る。ず、と啜って、あち、と舌を出して、櫻子が思わず微笑んでしまえば、彼も笑う。


「稲森さん。わざわざ説明に来てくださって、ありがとうございます。おかげで助かりました」

「いやいや。元は僕がおどかしてしまったせいですからね。むしろ騒がせてしまって申し訳ない。肇くんも、大丈夫ですか? 夜な夜な徘徊している怪しい男と繋がりのある怪しい店だと思われてしまったのでは」

「今更だから、気にするな」


 今度は稲森と肇が笑った。

 稲森が湯呑を戻すと、もう随分中身が少なくなっている。櫻子が急須を手に取れば、「いやお構いなく」とそれを手で制した。


「そんなに長居をするつもりはありません。店も慌ただしいみたいですし……そういえば、言うのを忘れてたな。なかなか繁盛してるみたいじゃないですか、肇くん。櫻子さんのおかげですね」

「慧眼だな。そのとおりだ」

「い、いやいや」

「桜も咲きつつありますしね。今が五分咲きくらいですか?」

「そういえばお前、知ってたのか? あれが枯れてないって」

「それが全然。槐とかいうその鬼にも会ったことがないですよ。てっきり先代が枯らしたんだと思ってました。突拍子もない人だったので、いよいよそこまでやったのかと」


 肇は少し時間を空けてから、「まあ」と頷く。櫻子としてはしかし、その突拍子もないお祖母さんに対する印象は全く悪くない。おかげさまでここでこうしていられるわけで――いやでも肇はどうだろう、桜が満開になるのを楽しみにしているのは自分だけじゃないだろうかと、


「そうだ。稲森さんは、あちらで何をされてたんですか?」

 悩み始めてしまう前に、自分で話題を変えた。


「一昨日の夜ですか?」

「はい。何か用事があったのかなと思って。あ、もちろん答えにくいことならいいんですが」

「これ、答えなかったらそれはそれでやましいことをしていたみたいですよね」

「いえ、本当に」

「でも、大して面白いことではないですよ。単なる散歩です。ほら、」


 ぽん、と彼は尻尾を出して、


「狐ですからね。たまには森に帰りたくなるんですよ」

「よく言うな。お前みたいに人里で遊び散らかしてる妖、他に見たことがないぞ」

「いやいや。その鬼だって会社経営なんかしてるらしいじゃないですか。案外いるんですよ。肇くんの知り合いが少ないだけです」

「やっぱり、ご自分を祀られている祠の周りだと居心地が良かったりするんですか。その、何かこう、不思議な力で」


 訊けば、稲森は目線を横に逸らして考え込んで、


「……いや?」

 首を傾げた。


「僕も本物――たとえば肇くんみたいな人間が作った自分用の祠みたいなものがあるわけじゃないですから、よくわかりませんけど。そういう祠に霊的な力があると思ったことはないですね」

「あそこのって、そういうその……霊能の人が作ったものではないんですか?」

「そういう人がそもそも滅多にいませんからね。だから最見屋にあんなめちゃくちゃな数の妖の品が集まるんですよ」

「別に私も、自分のことを霊能と思ったことはないけどなあ」

「ついでに言うと、本物は大抵肇くんみたいに言います。他の人と自分がどう違ってるのかよくわかってませんから」

「へえ……」

「櫻子さんもですよ」


 いきなり稲森に矛先を向けられて、え、と櫻子は怯む。


「私ですか?」

「だって、妖が見えてるじゃないですか」

「……それは、姿を見せてもらっているなら、誰でもそうなんじゃありませんか」

「というのの延長線上に肇くんがいるんです。妖が見えたり何だりっていうのは、普通の人は霊能の仕事だと思うでしょう。しかし櫻子さんにとってはもう当たり前のことになっている。で、それが進んでいくと『自分を霊能だと思っていない霊能者』の完成というわけです」


 わかるような、わからないような。

 しかしそれにしても自分が霊能だという言われ方はしっくりこない。もう少しこの話題を掘り下げてみようかと、


「やーっす。櫻子いるー?」


 思った矢先のこと。

 ばさっと翼の羽ばたく音がして、外から一羽の鳥がコンコンと、嘴で窓を叩いてきた。


 姿でも何となくはわかるし、声まですればもう間違えようがない。櫻子がすぐに「あ、」と立ち上がると、「いたいた」と姿を消して、


「じゃーん、いらっしゃいませー」

 鴉が元気よく、店の中に入ってきた。


 自分で言っちゃった、と彼女が笑う。その明け透けな笑顔に釣られて、櫻子も笑った。


「いらっしゃいませ」

「あらら。櫻子さん、本当に懐かれちゃいましたね」

「いいじゃん。あたしに懐かれるって光栄なことだぞ? ていうかあんたは何。入り浸ってんの、ここ。あ、もしかして、」


 稲森が「用事があって」と答えるのを鴉はもう聞いてはいなかった。彼女の興味は早くも次なる対象に移っていたからだ。


 肇に向かって、


「あんたが今の最見屋? おっとこまえ~! やっぱあんたらの一族って何かの妖が人に化けてんの?」

「化けてませんよ。どうも初めまして。私は当代最見屋の――」

「あはは。最見屋のくせにちゃんと接客してやんの! あんた絶対苦労性……あれ? あたし、なんで今日ここに来たんだっけ」


 そして肇の自己紹介の途中で、さらに彼女はまた別のことに思考を飛ばしている。


 じっと宙を見つめると、一秒、二秒、三秒。


「――余計なこと言ってたら忘れちゃったじゃん! あんたらのせいなんだけど!」

「知りませんよ」

「知ったことかよ」

「あ、それは最見屋っぽい」

「あの、私に用事があったんじゃないですか?」


 入ってきたときに自分の名前を呼んでいたし、おそらくそうなのではないか。

 手掛かりがないなりにそう言ってみると、鴉は鳥の目でこっちを見る。それから口の先を指先で押さえて、窓の外を見る。一秒、二秒、三秒。


「そうそう、思い出した! この間言ったやつの話だ」

 ふふん、と机に身を乗り出して、ようやく本題に入った。


「祭り! いーっぱい声掛けてきたよ! もう当日、すごい数来ちゃうから。あたし友達多いもんね」

「本当ですかっ?」


 この間の別れ際、確かに鴉はそう言っていた。

 あんたのことが気に入った。だから最見屋の再開をまだ知らない妖たちを夏祭りに合わせて呼んできてやる――一方的な約束だったけれど、それをちゃんと守ってくれたのだ。


 だからそれが嬉しくなって、ありがとうございます、と櫻子は礼を言う。んふふ、とご満悦の顔で鴉が笑い返してくる。


 その横から、稲森が訊いた。


「鴉。どのくらい声を掛けたんですか?」

「どのくらいって」


 訊かれて鴉は、また記憶を探るように天井のあたりを見た。んー、と頭の中で数を数えるようにした後、何でもないことのように、


「百くらい?」


 ひゃ、と稲森が固まった。


「多い多い多い」

「でしょ? 何事もあたし、やりすぎってのが大事だと思ってるからさ。百にも報せれば多分当日はもっと来るでしょ。最見屋もなんか売りもの考えときなよ~」


 ぱちん、と鴉が片目を瞑る。稲森は呆れた顔をする。


「鴉くん」

 一方、肇は、


「お茶とお菓子はどうかな。最見屋は君を歓迎しよう」

「飲む! 食べる!」

「ちょっと肇くん。大丈夫なんですか百も来て」

「妖だろ? 人と違って接客に気を遣う必要もないし、いざとなったら紙人形でも何でも使うよ。櫻子さんも、あまり気負わずで平気ですよ。そっち側の話は、私が大抵どうにかできますから」


 そんな風に、やっぱりいつものようにあっさり言ってのけるから、一度は稲森と同じようにびっくりした櫻子も、素直に頷けた。


「はい。何か手伝えることがあったら言ってください」


 鴉がそれを横から見て言う。こいつこういうところは結構最見屋っぽいんだね。どういうところだろう、と櫻子は不思議に思う。どうも、と肇は肩を竦める。稲森は、こういう子なんですよ、なんて訳知り顔で言って、


「――っと、まずいな」

 それから窓の外を見て、呟いた。


「子どもたちが庭に入ってきた」


 見れば、確かにそのとおりだった。

 いつものように子どもたちが庭先に現れたのを櫻子は見つける。しかも今日は、それだけじゃない。幾人か背丈のずっと高いのが混じっていて、桜の木の前で立ち止まっている。親を連れてきたのか、それとも一見の客が迷っているのを案内してきてくれたか。いずれにせよ、多くの人がそう間を空けずに店の中に入ってくる。


 稲森が立ち上がった。


「鴉、もう出ますよ」 

「なんで? あの子ら登川と仲良いんでしょ? 普通にここにいて良くない?」

「君が登川と同じくらい慎みと愛情を持っていたら、僕も素直に頷けたんですけどね」


 行きますよ、と稲森が鴉の腕を掴む。しゃーないなあ、と案外彼女も素直に立ち上がる。ありがとうございました、とふたりにもう一度櫻子が礼を言えば、ふたりとも笑って答えてくれる。


 別れ際、肇が、


「鴉、それに稲森。まんじゅうだけでも持っていけ」

「お、ありがとっ」

「どうも。お二人も忙しいと思いますけど、あまり無理せず」

「はい。稲森さんも鴉さんも、今日も暑くなりそうですから身体にお気を付けて」


 勝手知ったる裏口へ向かう妖たちも素直に見送れば、後はいつもの二人だけ。慌ただしく開店準備を始めることになった。


 今日も祭りの準備は忙しくなりそうだ。埃を被らないようにと棚にかけている布を取り払って、並べるべきものがあれば並べ直して、玄関の鍵を開ける。


 がら、と入りやすいように戸まで開ければ、夏の日差しが一層眩く目に届く。


 雨なんて到底降りそうにもない、抜けるような青空。

 それを見たとき、ふと櫻子の心に疑問が浮かんだ。


 訊きそびれていたことだ。百という数字よりも前。鴉が来るよりも前。公民館から帰ってきて、稲森と一緒に話していたときの続き。そのとき思ったはずのこと。


 祠の周りにいても心地よくないと言うのなら、結局どうして稲森はあそこにいて、幽霊と間違えられたのだろう。


「来たよー!」

「はーい。いらっしゃいませ」


 しかし、そんな疑問は忙しさの中にすぐさま消えて行って、夜の頃には忘れてしまう。



 夏は盛り。暮らしはにわかに賑やかさを増す。


 祭りの日が、近付いていた。



(第七話・了)

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