「夜に来ると、案外不気味なところですね」


 失礼ながら櫻子は、「この人って『不気味』とか感じる人だったんだなあ」と隣で思っていた。



 提灯明かりが、宵路をふらふらと鬼火のように歩いていく。最見屋から始まって、その火の通り道は橋を渡って川向こう。上流の方へと流れに逆らって進んでいけば、ざっざっと靴裏が荒れ道を踏み鳴らして、提灯の持ち手はどんどん夜に飲み込まれていく。


 確かに、と櫻子も口にした。


「ここから打ち上げるんじゃ、花火師さんたちも怖いかもしれませんね」

「ですね。それで幽霊騒ぎまであったんじゃあ、堪ったもんじゃない」


 一寸先も見えなくなるような道で、だから肇が持って帰ってきた話も道理だった。


 あの後。

 つまり、鴉の妖が来て、稲森も来て、二人とも去って、子どもたちが来て、肇も戻ってきて、今日も今日とて大繁盛を捌き切った後のこと。肇は言った。


「どうも今度は、松波さんから本業周りの仕事まで増やしてもらいまして。頼んだ花火師たちが、打ち上げ場所の近くで幽霊を見たと言うんですよ」


 さて、まず櫻子としては花火が打ち上がるというのも初耳だったけれど、肇が続けた話はこうだった。


 松波に連れられて行った先は、祭りの運営本部ともなっているあの公民館だ。一体なんですかと道中で訊いたのだが、松波は「まあまあまあ」「先入観があっても良くありませんから」と答えない。ずかずかと公民館の奥に上がり込んでいくと、青い法被を着た男が数人、所在なさげに座っている。松波が彼らを手のひらで指して、


「夏祭りでは、花火を打ち上げる予定で。自治会の伝手でわざわざ職人さんたちに来ていただきました」

「はあ、これはどうも」


 挨拶もそこそこに行うけれど、どうにも職人たちには元気がない。

 どうかされたんですかと訊くと、誰かに話したくてたまらなかったのだろう。すらすらと彼らの口が開く。


「それが昨日、打ち上げ場所の下見に行ったんだがね」


 当然のことではあるけれど、花火を祭りの会場のど真ん中から打ち上げるということはない。安全を確保するために、一定の距離を空けた場所で職人たちは仕事をするのだ。


 さいはて町はどうも町並みのまとまりがないというか、森やら家やらが虫食い気味に並ぶ町である。ある程度開けていて、かつ引火の危険もないところというと……。花火の企画人の松波は作業に適した場所を探すため、到着した職人らを引き連れて、早速町を練り歩く。すると幸い、会場からほど近いところに、具合の良い空き地を見つけたのだという。


「と言って、昼間の様子だけを見ていても良くない。実際打ち上げるのは夜なわけだから」

「はあ、確かに。それで?」

「だから昨日の晩、俺らだけでもう一度下見に行ったんだよ。そうしたら……」


 出たんだ、と。

 職人は、全くふざけた風でもなく言ったそうだ。



「でも、何が出たんですかね」

 ざっざっ、と隣を歩きながら、櫻子は肇に訊ねる。


「言うには『真っ白な幽霊』『火の玉』だそうですが。しかし、ちょっと眉唾ですね。幽霊って白くないんですよ」

「えっ?」

「あれは話の尾ひれでしょうね。ほら、幽霊話って大抵は夜や暗いところが選ばれるでしょう。だから大袈裟に話しているうちに、『なんでそんな細かいことまでわかるんだ』と野次が入るんです。すると気持ち良く話しているところを邪魔されたわけだから、話し手もムキになって『ぼうっと白く浮かび上がってたからわかる』とさらに話を大袈裟に……というのが本当のところじゃないですかね」


 そこじゃない。

 そこじゃないので、櫻子は、


「幽霊って、いるんですか」

「……? ええ、まあ。いますよ。いるところには」


 それは、確かに。

 確かに妖が訪れる店に勤めているのだから、肇のように「そんなの当たり前にいますよ」という態度を取っているのが正しいのかもしれないけれど。


 提灯を持つ手が、微かに震える。

 ごくりと息を呑んで、


「で、でも。幽霊じゃないかもしれないんですよね」

「実際見てみなければわかりませんけどね。……櫻子さん」

「はい?」

「もしかして、怖いですか」


 率直に訊かれて、言葉に詰まった。


 しかしそもそも、肇についてこないで家で待っていることもできたのだ。それでもついてきたのは、いくら何でもこの夜道を一人で行くのは危ないだろうと思ったから。


 自分で「ついていく」と言っておいて、「やっぱり怖くなりました」とは言えない。


 だから櫻子は、ぎゅっと提灯を強く握って、


「い、いえ。全然」

「もしあれでしたら……どうしようかな。背中のこのへんでも掴んで、後ろに隠れていてください。何が出ても、とりあえず私の傍にいてくれれば何も危害は及びませんから」

「だ、大丈夫ですっ」


 勢い付いて言うと、肇は笑った。


「ですか。まあ、確かに櫻子さんは頼りになりますからね。私の方が谷から滑落して助けてもらう羽目になるかも……っと、このへんかもな」


 進んだ先で、急に森が開けた。


「さいはて町は出入りが多い土地ですから。住んでいた人がふらっとよそへ消えて行って、たとえば元は住宅地だったのが、急に空き地になったりするんですよ。だからこんなところが残るんです」


 肇はそう言うけれど、住宅なんかは一つも見当たらない。

 目を凝らせば――凝らさなくても耳をすませば、近くに川が流れていることがわかる。岸辺の土はある程度平たく均されて、どうもこのあたりを昔は洗い場に使っていたのではないかとも思う。


 もう少し歩いた先で、肇はとうとう足を止めて周りを見渡す。櫻子もそれに倣えば、もしかするとと思うことがあった。


「ここ、元は畑でしょうか。家周りの」

「みたいですね。草がだいぶ茂ってるのは大丈夫なんでしょうか。引火しそうな気もしますが」

「後から刈るんじゃないですか? ほら、場所決めをしてから」


 大変だなあと肇は言って、それから、


「何もいませんね」

 きっぱりと言った。


 ほっと櫻子は安堵の息を吐きそうになるが、考えてみれば全くそうもいかない。


「『いませんでした』だけでは、職人さんたちも納得しませんよね」

「でしょうねえ。この場合、実際いるかいないかの問題ではなくて、『いそうかどうか』の問題ですから。花火の打ち上げ場所に火気の影があるのは、本職の方としても不安でしょうし」


 うーん、と肇は考え込んで、


「まあ、ちょっと待ってみましょうか」





「……でも、どうして松波さんは肇さんにこの仕事を頼んだんでしょう」


 何かしら幽霊と見間違えるような何かがあるのではないか、というのが肇の見立てだった。たとえば、腕を広げて飛び交うモモンガの群れとか。


 だからしばらくここで待ってみて、様子を見てみましょう――提灯の火を点けたままだらだらと佇んでいれば、二人の間に言葉は途切れず続く。


 昼間に妖の方が来て。

 へえ、鴉の妖には私も会ったことがありませんね。


 夏祭りに妖を呼んでくると仰っていたんですが、大丈夫でしょうか。

 稲森が止めなかったなら、まあ害はないんでしょう。それにしても櫻子さん、気に入られましたね。


 ……そんな風に話が繋がっていけば、やがては「そもそもどうして自分たちはここにいるのか」という点に話題が及ぶ。


「それを言ってませんでしたね。どうも松波さん、本当に昔からさいはて町にいるらしくて、お祖父さんがうちを知っていたみたいですよ」

「え、本当ですか?」

「ええ。うちの祖母さんは素直に怪しい店として営業していたらしく、当時を知っている人もよほどのことがない限りは寄り付く気が起きないみたいなんですが」


 櫻子が苦笑すると、肇は肩を竦めて、


「それでもこの手の怪しい話の解決は、ちゃんと相談されればやっていたみたいです。うちが今回の夏祭りに関わっているのを耳に挟んだようで、そのお祖父さんから『最見屋に頼むのがいいだろう』と」

「そうなんですか。じゃあ、いよいよ知名度も上がってきそうですね」

「ええ。しかし、祖母さんの仕事の一片がわかったのも収穫でした。やっぱりこういう頼みごとをコツコツ聞いて、いざというときの相談先としての地位を確保していたのかもしれませんね」

「じゃあ、今日のこのご依頼も頑張らないといけませんね」


 ええ、と肇は頷いてから、


「……それにしても、清々しいくらいに何も出ませんね」

 素直な声音で、そう零した。


 その声すらも、闇の中にしんと溶けていってしまうような静寂だ。夏の夜は、背中にのしかかるような重たさでそこに広がっている。


 顔を寄せ合って、


「もう何分くらい待ってます?」

「二十分くらいでしょうか」

「もう五分ほど待って何もないようなら、気は進みませんが森の奥の方に入って――」


 みましょうか、と続かない。

 二人揃って空を見上げて、手のひらを掲げたから。


「――今、降りましたか」


 肇が言うとおりのことを、櫻子も感じていた。


「ぽつっと。でも、晴れてますよね」

「天気雨かな」


 空は快晴だった。薄く小さな雲が、かろうじて月光に照らされるのみ。目を凝らしても、雨雲らしきものとは見えない。


 櫻子が不思議に思っていると、何にせよ、と肇は言った。


「開けた場所よりは、木の下にでもいた方が具合がいいでしょう。祭りを前に風邪をひいてしまっては仕方ありませんし」


 頷いて、二人は森の中に入っていく。

 幸いなのは、虫が寄ってこないことだ。最見屋には何でもあって、肇の傍にいる限りは虫刺されとは無縁で済む。ただでさえ暗いのがさらに枝葉に月光を遮られてしまうけれど、それでもとりあえず、頬に冷たいものが当たる気配はなくなった。


 その直後、さっと細い糸のように雨が降り出した。

 肇が溜息を吐く。


「すみません。もっと早く引き上げておけばよかったですね」

「いえ。でも、困りましたね。すぐ止むといいんですけど」

「そう願いましょう。ダメだったら、雨の中二人で走ってみるか、森の中を雨宿りしながら進むかのどちらかですね」


 どちらがマシだろう。

 考えるために、そもそも雨は森の中で本当に全て遮られるのかと、櫻子は顔を上げて確かめようとする。


「あれ、」

 そのとき、見つけた。


「どうしました?」

「……気のせいかもしれないんですが」


 あれ、と櫻子は指差そうとして、しかし指差してはいけないものなのではないかとそれを咄嗟に引っ込める。


「あそこだけ、周りと色が違いませんか」

「どこです?」

「見間違いかな。門縄みたいな……」


 櫻子が先に歩けば、肇も付いてくる。

 見間違えようのない距離にまで近付けば、櫻子も確信が持てたし、肇にもわかった。


「本当だ」


 森のずっと奥、木と木の間に白い縄が掛かっていた。


 それもずっと上の方だ。櫻子どころか、肇が目一杯腕を伸ばしたって届かないような高い場所に、古びた縄が渡されている。


 この先を丸く取り囲むように長く、ぐるりと。


「これは、どういう……」

「神域でしょう」


 いつものようにあっさり答えると、「知らなかったな」と肇は、


「こんなところにもあったんですね。少し昔の神の祀り方です。祠を立てて、その周りをぐるっとこういう縄で囲むんですよ。海や川の周りでは難しいやり方ですが、森林山間ではよく見られます」

「……神様って、」


 一応、と櫻子は思った。

 今度は事前に訊いておこうと、


「本当にいるんですか」

「定義によりますね。妖だって見様によれば神でしょう。人では及ばない怪しい技を使うわけですから。そう言ったら、犬だって人より鼻が利くので、神の仲間になってしまいますけど」


 そんな適当な、と櫻子は思う。

 思うが、専門家を相手にどうこう反論しようと思えるほど信心深くもなく、しかし「そうなんですね」と簡単に頷けるほど図太くもなく、結果として、


「えぇ~……」


 そういう言葉が自然と口から出てくると、


「――――、」

「っ?」

 肇がこっちを見た。


 何かあるのか。びっくりして櫻子は後ろを振り向いてみるが、何もいない。ああいや違くて、とちょっと遅れて肇が言って、


「今の櫻子さんの反応が、何だか良いなと思っただけです」

「……?」

「気にしないでください。本当に大したことじゃないので」


 はあ、としか言えない。

 今の反応というのはどのことだろう。訊き返してみたい気もするが、何だかそれも恥ずかしい。もう一回やってくださいなんて――言われないだろうけど――言われたら切羽詰まる。


 流そう、と思ったとき。


 ぱき、と遠くで枝を踏み折る音が聞こえた。


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