第十話 座敷童の恋(前)
一
目が覚めると、誰もいなくなっていた。
すごく静かな朝だ。きんと耳が鳴るような、冷たい冬の朝。もう少しだけ、としばらく布団と戯れていたときのごそごそと布の擦れる音が、今でも残響のように鼓膜に残っている。
布団から起き上がる。
妙に部屋ががらんとしたように感じる。何の違和感なのだろう。首を傾げて、それでもわからずに、布団を畳んで部屋から出て行く。
襖を開く音が、やけに遠くまで響く。
廊下のちょっとした軋みが宙を打つ。寒さに肩を竦めながら歩くたび、一つ一つのことに気が付いていく。
鳥の声がしない。
虫の気配がない。
窓の外、ぼんやりと霞む空。雲が、風に流れていない。
こんなことがあった、と思った。
でも、それがいつのことだったのか、わからない。
居間に入る。いつものように、二人で作業するために置かれた紙の束。辞書。資料。万年筆。横目に見て、台所へ。
氷箱には、昨日入れたはずの食材が同じようにちゃんと入っている。昨日? 昨日って、いつのことだっけ。扉を閉める。ばたん、と余韻が残ってしばらく考え込む。
朝ごはんを作った方が、いいんだろうか。
その前に、やることがある気がする。
廊下に戻って、それから店に出た。
やっぱりここも、いつもと変わらない景色だ。開店前の静けさ。棚に被せた布。古びているようでいて、どこか落ち着く。帳場に座って、しばらく櫻子はその場に佇んでいる。
妙に明るい。
窓の外、庭の端に雪が融け残っているのを見つけた。
あれ、とそれで思う。確か、もう融けてしまったのではなかったか。誰かと一緒にそれが降るところを見ていて、雪だるまも作って、でもそれはもう、日々と共に過ぎ去ってしまったのではなかったか。
見ていると、ふと思い出した。
確か、あの日もこうだった。
あの日?
「…………?」
何かを忘れている気がした。
それは何だっただろう。雪を見ていて思い出すのだから、それに関連したものに決まっている。雪から連想するもの。白? 白色だけじゃない。その先にあるもの。
ああ、そうだ、と。
思い付くはずのその瞬間に、それが残雪ではなく、春の花びらだと気が付いた。
「や。久しぶり」
戸を開けて出て行くと、その人はそう言って片手を挙げていた。
庭の奥で、桜の花はこれ以上ないほどに咲き誇っていた。もうすっかり春めいて、空の水色すら染めようとしているように見える。
その人はこっちを見ている。顔は、ぼやけて窺えない。
でも、同じ言葉を返すべきだと、何となく思った。
「お久しぶりです」
花の帳の向こうで、笑った気がする。
「今日は、そろそろ教えておこうと思ってね。ほら、見てごらん」
腕が動く。指を差す。
桜色の髪の、すごく綺麗な人だ。その指まで光るようで、だから櫻子もその先を追い掛ける。でも、目に映るのは桜の花だけ。
「――って。ここだといつも満開だから、見ても意味がないのか。ごめん、帰ったら見てみて」
「帰る……?」
「ありゃ。今日はぼやけるのが早いみたいだ。季節の変わり目だからかな。そういえば、この間は風邪を引いてたけど、あれから大丈夫?」
風邪。
そういえば、そんなこともあった気がする。気がするけれど、風邪って一体、何だったっけ。よくわからない。
「ああいや。余計なことばかり話してる場合じゃないね。単刀直入に行こう」
重要なことは一つだけ、と。
指を立てて、桜の奥。その人は、いたずらっぽく笑って言った。
「もうすぐ咲くよ。ほら、あんまりいきなりだと、心の準備があるでしょう?」
ざあっと花が流れて、何もかも見えなくなっていく。
何だか、すごく良いことが起こる気がした。
なのにそれが、同じくらい不安なことにも思える。
花の嵐に目を瞑る。
何が、と思ったときには、もう忘れてしまった。
❀
「うーん……どうして色が抜けるんでしょうね」
と櫻子の後頭部を見つめて肇が悩んでいるのは、例の居間。奇しくもあの日、初めて髪を染めてもらったのと同じ場所でのことだった。
「肇さんでも、やっぱりわかりませんか」
「ええ。そういえば、一度は染まってしまったからあまり深くは追わなかったんですが、櫻子さんは普通の髪染めが効かないんですよね。それと何か関係があるのかな」
朝。起きて一番に顔を洗った櫻子は、それから鏡に映った自分の姿を見て、大層驚くことになる。
髪が、真っ白に戻っていたのだ。
「一応訊きますが、妖の品に近付いたりはしていないんですよね」
「はい。直近で心当たりはないんですが」
「そうなると前のときと同じで、蔵の中に入ったときに結びつきが緩んだのかな。『火温石』を探すとき、中で変な感じを覚えたりは?」
「特には、なかったように思いますけど」
それはもう、櫻子は驚きに驚いた。
声を失ったくらいだ。もしかしたら夢の中から覚めていないのかもしれないと頬まで抓ってしまって――
「あ、でも」
「何かありますか?」
「夢を、見たような気がします。どんな夢だったかは、全然覚えていないんですが」
肇が起き出してくるまでは、櫻子は気が気ではなかった。
ときどきは、急ぎの客が早朝に来ることもある。だから肇が起き出す前に誰も来ませんようにと祈りながら、しかしそのときのためにと頭巾なんかを引っ張り出して、久しぶりに鏡の前で髪をすっぽりと覆い隠したりしていた。
でも幸い、今日の肇は早起きだった。
ふうむと鏡越し、今は自分の後ろで顎に手を当てて考え込んでいる。
「前も、そんなことがありましたね」
言ったのは、『鬼の珠』の仕事のときのことだろう。
櫻子には全然記憶がない。けれどそのとき自分は言ったらしい。夢の中で、その『鬼の珠』が封じられている場所を知ったと。
そのときも、目覚めて髪は白く戻っていた。
「やっぱり、櫻子さんには霊感があるんですかね。霊夢に反応することでそれが励起して、髪色を戻してしまっているとか。ただ、前にも言ったんですが、それならこれまで妖と出くわしてないのが不思議です」
「でもそれ、前に稲森さんが言ってませんでしたか? 少しずつ霊能になっていく人もいるって。……違いましたっけ」
肇は、僅かに記憶を探る素振りをする。
いつのことだったかは櫻子もすぐには思い出せなかったけれど、肇はすぐに思い当たったらしい。ああ、と一つ頷いて、
「妖が見えるからどうだ、という話の流れでしたっけ」
「確か、はい」
「確かにそういう見方もないでもないんですが、ただ、鴉はあれで結構強烈な奴なんですよ。少なくとも私は『鴉の羽櫛』で一度髪を染めたら、道具なしには戻せる気がしません。失せ物探しの霊夢もそうですが、どうもやっていることが派手というか。こっちに来てから何かの切っ掛けで開花したにしても、どうも急すぎるような気がするんです」
しかし実際こうなっているわけで、と彼は首を傾げて、
「一種の天才なんですかね。霊感の」
「はあ」
言われても全くピンとは来なくて、気の抜けた返事。
実際、肇もそれが正解だとは思っていなかったのだろう。もう少し考えてみます、と言ってくれた。
「頻繁に色が抜けるようでは、櫻子さんも心配になりますもんね」
「いえ、色が抜けるのが寝ている間だけなら、そんなには。でも、起きているときに抜けることもあるんでしょうか」
「何とも断言はしがたいところです。それがわかれば本当に安心なんでしょうけどね。もう少し調べてみるか、そうじゃなければ鴉にもう少し気合を入れて、より強い力を持つ櫛を作ってもらうか」
いずれにせよ、と彼は言う。
「私が見たところ、特に今の時点で羽櫛を跳ねのけるような気配はないので、染めようと思えば染められると思いますよ。どうします?」
「肇さんは、お忙しくはありませんか」
「見ての通り、暇しています。先に朝ごはんを作られてしまったものですから」
ふふ、と笑えた自分に驚いた。
じゃあ、と鏡越しもなんだから、振り向いて櫻子は言う。
「お願いしてもいいですか。これだと、お店に立つのにも困っちゃいますし」
「かしこまりました、お客様。ただいま蔵から羽櫛の在庫を持ってまいります」
冗談めかして肇が立ち上がる。畳を足の裏が擦る音。襖に手を掛けて、
「でも、」
と足を止めた。
「前にも言いましたが。そちらの髪色も、とても素敵だと思いますよ」
櫻子はほんの一房、己の髪を摘んだ。
もう随分、長くなってきた。黒く染められるようになってからというもの、気兼ねなく伸ばしていたから。もしかすると今では、頭巾を被っていたって上手くは隠し切れないかもしれない。
何かを言おう、と思った。何か、けれど言葉を見つけ出すよりも先に、別の用事がやってくる。
どんどん、と店の方から戸を叩く音が聞こえてきた。
廊下に出た肇が、そっちの方を覗き込む。それからこっちに視線をくれるので、櫻子は頷いて返した。
「お客さんですね。私、こっちで待っています」
「長くなってしまったらすみません」
「いえ、こちらこそ」
すとん、と戸が閉まる。
他に誰もいなくなった部屋。朝日のよく差す窓辺に座る。肇の足音はまもなく聞こえなくなった。もう少しすれば彼は、帳場へと続く扉を開くのだろう。
鏡を覗き込むと、白い髪の女が映っている。
その女の前で、どういう気持ちになればいいのか、櫻子はわからずにいた。
元々はこうなのだ。だというのに、春からずっと、こうではなかった。
鏡に映る姿が変わったことで、ぎょっとするような驚きもある。一方で、やっぱりこれが本来の姿なのだと思えば、むしろこれまでがずっと歪な形をしていたかのような、遅れてきた違和感とでも言うべきものを感じたりもする。
肇は言った。
その髪色も、素敵だと。
それに対して自分は、一体どういう気持ちになればいいのだろう。
今、この胸の中にある思いは、本当はどんな色をしているのだろう?
櫻子は、す、と髪に手櫛を入れる。後ろにいくらか流してみる。普段はやらないから全く慣れたものではないけれど、上手く結べた姿を想像しながら、指を使って遊んでみる。
前と横はもう少し、下がっていた方が良くて。
首の周りがさっぱりするように、後ろは綺麗に結ってみて、いや、でも……。
本当は、どんな髪型にしたかったんだっけ。
そんなことを思っていると、足音が近付いてきた。
櫻子は髪から手を離す。何か他のことをしていたふりでもしようかと思ったけれど、何も思いつかなかった。ごく普通に襖の方を見て、開くのを待ち構えてしまう。
「櫻子さん」
部屋に戻ってきた肇はそんなことにも気付かずに、戸惑ったような顔をしている。
す、と彼は店の方を指差した。
「ご友人と仰る方が、ご来店されています」
「え?」
ご存じですか、という顔。
今日、誰かが訪ねてくる予定なんてなかった。だから櫻子も首を横に振って答えるけれど、友人と言われて思い浮かぶ存在は――肇がただ『友人』と呼ぶ程度の、彼に名前を知られていない人間と考えると、そう多くはない。
立ち上がってみれば、肇が先回りして言ってくれた。
「もし会いにくいようだったら、お顔の確認だけ。一応今、櫻子さんは出られるかわからないという体で話していますから」
「あ、じゃあ足音なんかも」
「ええ。控えめに」
二人揃って、廊下に出る。
そこからはもう、忍び足だ。息を殺して、うっかり壁なんかにぶつかって音を立てないように櫻子は行く。最見邸の廊下は長い。それなりの距離の末に、いつもの帳場の裏に辿り着く。
櫻子は、物陰から覗き込む。
どういうわけなのか、一目でわかった。
「エリカ?」
ぽつりと呟いたのは、決して独り言ではなかった。
喉が、その音を覚えていた。ひどく懐かしい、呼び掛けの言葉。震えて耳にまで届けば、それは櫻子の背中を押してくれる。
最見屋の店内に立っているのは、一人の女だ。
呑み込まれそうなほどに黒い。いかにも格式高く映る洋装は、手袋から洋靴、洋傘まで何もかもが黒く染まっている。喉元までを覆う高い襟。振り向くとき、その長く黒い髪が、静まり返る夜のように美しく翻った。
燃え上がるような、真っ赤な瞳。
目と目が合えば、何もかもが溢れ出すようで、
「――見惚れちゃったでしょ」
彼女は口の端を緩めて、大人びて笑った。
「久しぶり、櫻子」
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