第六話 宛先も差出人も不要です
一
「肇さん。出版社さんから見本の雑誌が届きましたよ」
「お。これはすみません」
雨は上がり、すっかり夏だった。
今年は特に暑いらしい。毎朝郵便受けに差し込まれる新聞はいつもぽかぽかに温まっているし、そのどこかには必ず『記録的猛暑』『暑さなお続く』の文字がある。蝉はじわじわと絶え間なく夏の緑葉を震わせて、昼前だというのにもう陽炎が立つ。
奥の蔵に茶封筒を持って入っていくと、流石に肇も額に汗を流していた。
「また翻訳が掲載されたんですか?」
「まあ……あ、いや。これは違うな。最近外国語の解説を頼まれたので、それが載ったみたいです。ほら、畔上さんのところから」
ここ、と肇が紙面を指差すから、櫻子もそれを「へええ」と覗き込む。
半頁ほどの論説で、一番最後に「最見 肇」と記名が入っていた。
「すごいじゃありませんか」
「いやいや。本業の方はどうなんだという話で……と。郵便が来たということは、そろそろ昼前ですか」
ぱたん、と肇は雑誌を閉じる。
「流石に気温も上がってきましたし、今日の蔵の整理はここまでにしておきましょうかね」
「そうですね。最近、肇さんも早起きされて朝から長いですから。それにそろそろ――」
「こんちはー!」
店の方から響いてきた、蝉にも負けない元気な声。
聞けば櫻子は肇と顔を見合わせる。
ちょっと笑う。
「常連さんが来ましたね」
❀
この夏、最見屋には子どもの常連客が増え始めていた。
夏といえば、何といっても夏休みである。学校から野に解き放たれた子どもたちの栄誉ある遊び場に、最見屋は選ばれたのだ。
最初は三田村幸多――川べりで子守唄を歌われた少年だけだった。
そのうち畔上郁――お守りぬいぐるみの少女も来るようになった。
そしてこのふたりは、どうも教室ではそれなりに中心に位置する子どもらしい。
いかにもお化け屋敷で不気味この上ない……なんて前評判は何のその。一度幸多や郁に連れられて店に来れば、その不思議な涼しさに子どもたちは虜になる。日中に暑さを凌げるところは駅の方を除いてはそう多くなく、何人かが入り浸るようになればもうあっという間だ。
ここに来れば、とりあえず誰かはいるだろう。
そんな風に自然に思うようになれば、気付けば夏休みの間、最見屋は子どもたちにとっての『怪しい教室』になっている。
「お、やっと来た。おそいー。接客がなってないぞー」
「そんな風に言わないの、失礼なんだから。こんにちは」
「はい、こんにちは。お待たせしちゃってごめんなさいね」
「おーおー。今日もちびっ子たちが揃いも揃って。今日こそはちゃんとお小遣いを持って何かを買いにきたのかね」
ひいふうみ、と櫻子は手早く人数を数える。
幸多と郁を含めて男の子が七人に、女の子が六人。郁がいる日なら、今日はそんなに大暴れということにはならないだろう。
「おれ持ってきてなーいっ!」
「胸を張ってるんじゃないよ」
「はいはいっ! わたし昨日お手伝いしてきたから、炭酸飲める! 炭酸!」
「炭酸? 櫻子さん、氷箱に入ってましたっけ」
「はい。何種類かあるから、見て選んでくれるかな」
「てんちょー、すごろく出してー」
「ぬいぐるみの続きくーださい!」
「てんちょー、すごろくの新作ないのー?」
「剣玉ー」
「なんかしょっぱいもん食いてー」
「ちょっと待て待て。君らの目にはなかなかわかりづらいかもしれないが、店長はここに一人しかいないんだよ」
「知ってるー」
「ばかにすんなー」
「ちょっと静かに! 店長さん困ってるでしょ」
帳場の奥で氷箱を開けながら、櫻子はその喧騒にくすくす笑う。
子どもたちの襲来に伴って、最見屋の業態も大きく様変わりした。いくらかの駄菓子や飲み物が置いてあるのはもちろんのこと、肇が蔵の奥から引っ張り出してきた玩具も、いくつも置いてある。
玩具については子どもたちの「買う金ない」という率直な一言で、買取ではなく貸出の形だ。遊技代・場所代として徴収しているのは、子どもたちのお小遣いから出るささやかな代金だけだけれど、
「――この子たちが来ると、どっと疲れます」
子どもたちの相手を済ませて戻ってきた肇は、苦笑交じりに溜息を吐いた。
ふふ、と櫻子も笑った。
「でも、何だかんだ売上には繋がってくれてますから」
「ご家族が『いつも助かります』でうちに来てくれますからね。確かにこの子たちを経由すると一気に知名度も上がってくれますが、それにしてもこんなに賑やかな最見屋は、祖母の代も含めたってきっと初めてですよ」
「頑張りましょう。夏休みの間だけですから」
「なんかわるだくみしてる?」
ひょこっと幸多が机の向こうから顔を出す。
失敬な、と肇は言った。
「こういうのはな、幸多くん。高度な経営戦略会議というのだ」
「ぼくたちからお金を巻き上げる作戦のことをそう言うの?」
「何を言う。巻き上げるというのは、必要以上にお金を取ることだ。もしこの店に来て我々がお金を巻き上げているように見えるのだったら、まだまだ君も経験不足ということだな」
「逆は?」
「ん?」
「巻き上げるの逆は?」
しばらく、肇は考えた。
「商売下手」
「んじゃこの間おとーさんがその心配してたよ。『最見さんのとこはあれでやれてるのか』って」
「…………」
無言のまま、肇は幸多の頬をぎゅむっと左右から挟み込んだ。
頬を柔らかくして幸多は、「んむむ」と言う。「やめてあげてください」と櫻子は止めに入る。肇は大人しくその手を放して、
「そうか。じゃあ今度お父さんにぜひ高額商品を買っていただけるよう、君からお願いしておいてくれ。給料が簡単に百倍になる道具などがおすすめだぞ」
「あ、それほしい! 幸多、おれにちょーだい! こづかい増やす!」
「宏くん。君が使ったところでお父さんお母さんの懐が瘦せ細るだけだ。もう少し大人になって、他のところでお金を稼げるようになったらまた来なさい」
肇が窘めれば、手を挙げた別の男の子は「ちぇっ」とすごろくの準備に取り掛かる。
一方で、
「ふふん。そんなのお父さんに言わなくても平気だね」
「いや言ってくれ」
「なぜなら、ぼくが高額商品を買ってしまうからだ!」
ばん、と。
勢い付けて、幸多はポケットから取り出したそれを勘定台の上に叩き付けた。
手がどけられれば、それが一体何だったのかわかる。
紙のお金。
紙幣。
おおおおおー、と一斉に歓声が上がった。
「すげー、富豪じゃん!」
「幸多くんそれで何買うの!? 焼肉!?」
「強盗!?」
「窃盗!?」
「ちょっと。幸多がかわいそうでしょ」
「君、意外と周りから信頼されてないな」
「ふふん。何とでも言うがいい」
ひれ伏せ、と幸多が紙幣を周囲に見せびらかす。
ははー、と律儀にひれ伏す子どももいて、あんまり良くない遊びだな、と櫻子は思う。
「というわけで!」
ばんっ、と幸多は満面の笑みでその紙幣を突き出してきて、
「封筒ちょーだい!」
「封筒?」
肇が訊くと、うん、と大きく幸多は頷いた。
「おかーさんたちがそろそろこっちに戻ってくるから、記念に手紙書こーと思って。さ、この店でいちばん高級なものをくれたまえよ」
当然肇はこちらを見たし、櫻子も肇を見た。
こくり、と頷き合って、
「幸多くん。この店で一番高い封筒というのはな、最低でも家が一軒立つようなものだ。残念ながら君のなけなしのお小遣いとやらでは、全く買えん」
「えっ」
「でも、一番良いものだったら、幸多さんのそのお金で十分買えるよ」
ごそごそと櫻子が勘定台の下から取り出すのは、仕事でもよく使う、少しばかりしっかりした作りの白封筒。
肇は立ち上がって陳列棚の方に向かうと、子どもたちのために新設した文房具の棚から、色鉛筆の筒を手に取った。
「これはなかなか子どもの立場だとわからないことだろうが、大人が子どもにかけてほしいのは、金よりも真心だ」
ほれ、と肇はそれを幸多の目の前に差し出す。
「封筒と色鉛筆、合わせてもお釣りがくるぞ。すごろくで遊ぶ時間を使って、自分で『一番良い封筒』を作ってみたらどうだ。案外、画伯の才能が見つかるかもしれないぞ」
「……えー」
ぱし、と幸多はそれを受け取りながらも、
「櫻子ちゃんに言われるならわかるけど、てんちょーに言われるとだまされてる気がする」
「幸多。失礼なこと言わない」
「はーい」
「幸多お絵描き?」
「わたしたちも手伝ってあげよっか」
「えー。きみらも封筒買ってやれよー」
「てんちょー封筒いくら?」
肇が値段を付ける。たっけえ、と子どもたちが文句を付ける。安いのもあるぞ、と続けて言ってしまうものだから、結局皆そっちで済ませてしまう。
でもひょっとしたら、幸多が取り出したあの紙幣をそのまま受け取るよりも、こっちの方がずっと利益にはなっているのかもしれない。お会計、とじゃらじゃら小銭が出てくるのを捌きながら、櫻子はそんなことを思っている。
「よっしゃ。あのへん使ってやろうぜ」
「幸多、色鉛筆貸してくんね。ちょっと払うから」
「幸多くん、私も」
「あたしもー」
「いーけど、それなら全員で割ってここ置いちゃおうよ。そしたらいつでもお絵描きできるじゃん」
「あ、それいい!」
「えー。おれ、金ねー」
「じゃあやっちゃんあれ作ってよ。釣り竿。あのすごいしなるやつ」
「あ、ほんと? あれでいい?」
「仲良くやれよー」
肇の一言で、子どもたちが店の一画に送り出されていく。けれど一人だけその場に留まって、その背を見送っている子どもがいた。
郁だ。
あ、と櫻子は不安になる。というのも、彼女もまた、今は家族と離れて暮らしているから。それに、前にそのことを聞いたときには、その離れて暮らしている祖母の体調が思わしくないと言っていたから。
もしかしたら、さっきのやり取りで悲しい気持ちになってしまったのかもしれない。
そう思って櫻子は、声を掛ける。
「郁さん、」
「――『幸運の手紙』って、知ってますか?」
けれど。
振り向いて、ひっそりとした声で語り出した郁の表情は、全く明るいものだった。
「『幸運の手紙』? ううん。知らないな」
戸惑いながらもそう答えれば、今度は郁の矛先は肇に向く。
「店長さんは?」
「知ってるが、日本では実物を見たことがないから、同じものかわからないな。郁くんが知っているのはどんな文面だい」
「本当ですか! 実は、どうしてもこの話がしたかったから、今日持ってきてて……」
郁はいつでも、小さな鞄を持って歩いている。
そこにはたとえばハンカチであったり、文房具であったり、絆創膏であったり、いかにも几帳面でしっかりした彼女らしいものが普段は詰め込まれている。そして今そこから取り出されたそれも、確かに彼女らしく一つの皺もなく保管されていた。
一枚の便箋。
「これなんですけど」
覗き込むと、そこにはこんな文章が書かれていた。
『この文章を受け取ったあなた。
あなたはとても幸運です。
この手紙は、受け取った人に幸運をもたらす「幸運の手紙」なのですから!
きっと、あなたはこの手紙のことを軽薄で、取るに足らないものだと思うでしょう。
しかし、覚えておいてください。
これから三日のうちに、あなたの下に幸運が舞い込みます。
それは些細なものかもしれませんし、決定的なものかもしれません。
それがどんなものなのかは、手紙を出している私にもわかりませんが……しかし、きっと訪れるのです!
もし、あなたがその幸福の中でこの手紙のことを思い出してくれたなら、ぜひこの「幸運の手紙」をもっと広めてください。
この文面と同じ内容の手紙を、他の人にも送ってあげてほしいのです。
一人でももちろん構いませんが、できれば二人、三人と送ってくだされば、もっとありがたいです。
ぜひあなたも、心から誰かの幸せを祈って!』
読み終えて、顔を上げる。
郁は、満面の笑みを浮かべていた。
「この手紙が届いてから、お祖母ちゃんがうちに帰ってくることが決まったんです! 店長さんが知ってるってことは、きっと本物なんですよね。……みんなには、こういうの信じてるって恥ずかしくて言えないんですけど」
ちら、と郁は背中を振り返る。
誰もこちらに聞き耳を立てていないことを確かめてから、
「私も、誰かに幸せのお裾分けができたらなと思って。封筒、売ってもらえますか」
今日何度目だろう。櫻子は、肇と顔を見合わせる。
その夜、郁の母が最見屋にやってきた。
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