「『安貞』という刀鍛冶が打った作品ですね」


 後日。

 夜の最見屋で、いよいよその品物は月の光に露わになった。


「確かに外箱はうちで扱っているものと似ていますが、そちらで使い込まれて年月も経つようですし、売買記録までは追えませんでした」


 それは、包丁だった。

 白い包帯でぐるぐる巻きにされていたそれを、肇は丁寧に解き放って、今はその峰に指を滑らせている。


「暴れ出すようになったのはいつ頃からですか?」

「いつ……というわけでも。父から譲り受けたときにはもうそういうものだと聞いていたので、てっきり元からこうなのかと思ってました。違うんですか?」

「恐らくは。最初から暴れるようだったら、真鍋さんの代になるまで手入れの方法が伝わっていると思います。封印布は緊急の処置であって、本当はもっと丁寧なやり方があるんですよ。大変だったでしょう。これを扱うのは」


 肇が笑いかけると、真鍋も明るく笑い返した。


「そうなんです。切れ味は本当に良いんですけど、おかげで店の方じゃ使えなくて、広い場所を借りてこそこそと……春河さんには見抜かれてしまいましたけど」

「お怪我をされる前に、うちにご相談に来ていただけて良かったです。推測になりますが、肉食が流行って大型の動物の調理にまで用いるようになったのが原因かもしれませんね。よろしれば来週水曜まで、うちにお預けください。沈静化の処理を施して、櫻子さん……うちの者に持たせますから」


 名前を呼ばれて、櫻子は小さく頭を下げる。

 真鍋は、不思議そうな顔で見ていた。肇の言うことに半信半疑なのか、しかしそれでも彼の手の上で大人しくしている包丁を見ると、一つ頷いて、


「わかりました、お願いします。……ちなみに、処理っていうのはどうやって?」


 肇も、同じく頷いた。

 それからいつもの、あのやわらかいような、怪しいような笑みを浮かべて、


「月光に浸すんです」





「ではこちら、お約束の『安貞』の包丁です。お確かめください」


 梅雨明け。

 いよいよ以て何もせずとも額に汗かく季節がやってきて、水曜日。


 料理教室が終わった後、他に誰もいなくなった厨房で櫻子は、真鍋に小箱を渡していた。


 ありがとうと受け取った彼女は、早速調理台の上にそれを置いて、警戒気味にそうっとその蓋を開ける。


「わ、包帯取っちゃったんだ。でも本当だ。動いてない」

「手入れの方法なんですが、月に一回、晴れた日に月光の下で水洗いしてください。そうすれば、前みたいに暴れることはなくなります」

「水洗い? 研ぐんじゃなくて?」

「はい。あまり研ぎが必要になるものでもありませんし、さっと軽く洗うだけでも結構です。本当は半年に一回も洗えばそれでいいんですが、何か不測の事態が起こる可能性もありますし、こういうのはうっかり忘れてしまうと危ないですから。定期的に洗う習慣をつけておいてください」


 ははあ、と真鍋は頷く。

 いまだに梅雨の名残でじめついた部屋の中、包丁を手に取って、


「変わったところで働いてるんだねえ。春河さん」


 しみじみと言うから、はい、と櫻子も思わず素直に答えてしまった。


「うん。色々ありがとうございました」

 真鍋はそう言って、箱の中に丁寧にそれをしまい込む。


「春河さんのお店って、チラシとか作ってる?」

「え? いえ。どうしてですか?」

「あればうちの店に貼らせてもらおうかなと思って。こんな便利な道具を売ってくれるところ、みんなが知らないままでいたら勿体ないでしょう」

「本当ですかっ」


 喜んだはいいものの、ないものはないわけだから、


「来週までに作っておきます」

「はは、そこで『発注してみます』じゃなくて『作っておきます』なところがあのお店らしいかも」

「あ、あとこちら。請求書です。お店の経費として落とすなら、こちらをお使いください。修理代金を振り込んでいただいたら、領収書も出しますので」

「ご丁寧にどうもありがとう。それじゃあ……後は、特にないかな?」


 二人揃って、頭の中を整理する。

 目と目が合えば、お互い気持ちも通じ合う。忘れていることは、とりあえず何もない。


「個人的なことなんですが、」

 けれど、訊きたいと思っていたことがあったから、この機会にと櫻子は口に出した。


「その包丁、これまでは扱いに相当苦労されてましたよね。外まで暴れる音が聞こえたりしていましたし」

「やっぱり聞こえてた?」

「はい。……実は」

「だと思ったんだよねえ。春河さん、ちょっとあれから距離あったし」

「あ、え、そうですか? すみません」

「いや、いいよ。私も逆の立場だったら『この人何やってんだろ』ってなってたと思うし」


 それで、と真鍋が促してくれるから、


「そこまでその包丁にこだわる理由が、気になって」

「ああ。確かにここまで扱いに苦労するなら、普通の包丁を使った方が絶対楽だし確実に見えるよね」

「はい」

「たまにね、上手くいっちゃってたんだよ」


 真鍋は、少し照れくさそうにして言った。


「ほら、あのビーフシチュー。あれ、猪肉を使ったって言ったでしょ?」

「はい。とても美味しかったです」


 その件は、結局そういうことだった。


 あれだけ疑り深くなっていたのが、今では自分で恥ずかしい。ビーフ―シチュー『みたいなもの』と言ったのは単に別の肉を使っていただけ。公民館の職員の一人に、定期的にそうした獣肉を猟師から譲り受ける者がいて、以前にあった仕入れ関係の呼び出しは「今回は食べ切れないほどの量を貰ってしまったから、料理教室の方で使う当てはないか」との相談だったらしい。


「煮込みが丁寧だったからか、獣臭さも控えめで、すごくやわらかくて」

「あの包丁で切ると、たまにその『すごくやわらかい』のができるんだよ」


 切れ味が良いんだな、と真鍋は箱を軽く叩いて、


「肉の繊維をスパッと断ち切れるから、噛み応えがすごく柔らかくなる。特に獣肉なんかの硬いのを扱うときは、それが重宝もので……そんなに難しいことじゃなくてさ。ただ美味しいものを作るのに便利だから、使いこなそうと頑張ってただけ」


 見惚れるような美しい表情で、笑った。


「料理が好きなんだよ。ちょっとおかしく見えるだろうけど、本当にただそれだけ。参考になった?」

「……はい」


 それで不思議なくらい胸が空くような気持ちになって、櫻子は、


「とても、素敵だと思います」


 今度の教室ではビーフシチューを教えてください、とお願いする。

 まだまだなんだけどな、と苦笑いする真鍋に、そんなこと言わずに、と念押しもする。


 これでダメなら、千枝も味方に付けてみようと思う。

 彼女も、すごく気に入っていたみたいだから。





 ふと思い立って、櫻子は公民館の図書室に寄ってみた。


 いつも通りがかるのに、考えてみれば一度も中に入ったことがない。仕事が終わって気が楽になったのもあってか、真鍋と別れてからの帰りがけ、そのままふらりと立ち寄ってみた。


 意外と、と言うと失礼かもしれないが、蔵書の多い図書室である。

 肇がたまに仕事で使うというのも頷ける。国語による学術の棚の充実はもちろんのこと、洋書もあれば料理本のような実用書も、それから小説のような娯楽本まで置いてある。郷土資料なんかもちらほら見るから、もしかしたら副業の翻訳の方だけじゃなく、本業の調べものにも使えるのかもしれない。


 特に何かを借りていくつもりはなかった。ただ一通り、ここにはこんなものがあるのだなと観光するだけの時間。経理の本があれば、これは実家でも使っていたなと奇妙な嬉しさを覚えたりする。


 その奥の机に女学生が二人、隣り合って座っていた。

 料理教室で一緒の生徒たちだ。机に向かって集中していて、こっちに気付く様子はない。


 昔、と櫻子は思い出した。


 昔自分も、ああして一心に勉強をしていたことがある。


 将来のことが不安だった。人に馴染むことができない。友人もほとんどいない。結婚だって多分、一生できやしない。だから母のように仕事ができる人間になろうと、『使える』人間になれば、それで『足りていない』自分を誤魔化せるんじゃないかと、そう思っていた。


 あの頃の努力が、何もかも間違いだったとは思わない。

 あの鬱屈が、今の自分の生活に繋がっていることもまた、疑わない。


 けれどこの町に来てから人々と触れ合うにつれて、櫻子はこうも思う。


 あの頃の動機だけで全てが割り切れるほど――『普通でいなくちゃ』なんて考えだけが全てと言えるほど、世の中や、人や、暮らしというものは、単純なものなのだろうか。


 ぽつ、と雨垂れの微かな音が耳に届いた。


 図書室にいた誰も彼もが、同じように頭を上げる。窓を見ると、ぽつぽつと柔らかい雨が硝子を打っていた。考えてみれば当然の話で、梅雨が明けても雨は降る。


「あ、春河先生」

 それで、女学生のうちの片方がこちらに気が付いた。


 お互いに頭を下げ合って、


「春河先生、傘持ってきてます?」

「ううん。今日は持ってきてなくて。二人は?」

「ないんですけど、いつもうちの父が駅からここの前を通って帰るんです。どうせ駅で傘を買うだろうから、そこを待ち伏せして強奪しましょうって、二人で」

「山賊です、私たち」


 ふ、と櫻子が思わず笑ってしまうと、二人も嬉しそうに笑った。

 するとそれが切っ掛けになったのか、急に片方が悪戯っぽい顔になって、


「春河先生はお迎えが……?」

「あ、こら」


 もう片方が諫める。そういうこと言わないの。でもさ。そんな他愛のない、子どもたちの会話。


 だから櫻子は、戸惑うことなく、焦ることなく、大人らしく。

 余裕たっぷりで、こう返した。


「ひみつ」




 廊下を行った先で、熱くなった顔をぱたぱたと仰ぎながら櫻子は深く息を吐いている。

 あんなのでよかっただろうか。はいともいいえとも言っていない誤魔化し。それらしく見えただろうか。後になって自分と肇の間に不都合が生じたとして、生徒たちが「ああ、じゃあ春河先生は私たちに合わせてはぐらかしてただけなんだな」と――最低でも「勘違いした女が勝手に言っていただけか」と思ってくれるような出来になっていただろうか。


 いや、なっていたかどうかじゃない。

 なるようにするのだ。


 来週の水曜日は早く来ようか、遅く来ようか。考えながら歩いていると、それほど図書室から玄関までの距離は遠くない。すぐに広間に着く。


 窓から空を見上げた。


 少しだけ、雨勢は強まったように見える。これから一層激しくなるようなら、多少濡れてもバス停に急いで行くのが良さそうだ。そう思うから、ふう、と櫻子は息を落ち着ける。


 髪を一房、指で摘む。

 大丈夫だとは思うけれど、雨に濡れたことで色が落ちたりはしないだろうか。


「――?」

 考えていると、不意に耳に届いた音があった。


 鈴の音だ。澄んだ音。どこから聞こえたのだろうと探せば、視線は下に落ちる。


 玄関入口近くの傘立て。

 和傘が一本差してあって、持ち手に小さな鈴と、一枚の厚紙の札が取り付けられている。


 その札には、こう書かれている。



『どうぞご自由にお持ちください』



 ひどく見慣れた字だったから、櫻子は疑いもせずにそれを手に取る。外に出て、それを広げて軒下から出ていく。


 その人を見つけたのは、見つけたかったから。

 その人に駆け寄ったのは、同じ傘に入りたかったからだ。


 櫻子は、いまだに色んなことがわからない。

 大人と呼ばれるのに十分な年齢に達したはずなのに、自分が何を考えているのかだって、本当のところはわからない。


 でも、いつか。

「みんなそんなものだ」と言えるくらいの大人に、なれるだろうか。




 二人並んで雨の町、家路を辿る傘一つ。


 今度一緒にと言ったのは、肩を並べて笑ったり、慌てたりしてみたかったから。

 雨よもっとと思うのは、もう少し、傍にいたかったから。



(第五話・了)

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