「はい」

「すみません。こんな遅くの時間に」


 しぶとい夏の日が沈み切ってからの訪問だった。


 そのとき櫻子と肇は、夕食の片付けをしていた。一時期はどちらが片付けるか競い合ったりもしたけれど、結局「それでは食後に身が休まらない」ということで、食べ終えて少しゆっくりしてから二人で取り掛かることと今は決めている。


 そんなとき、店先の方で戸を叩く音がした。

 まずは私が、と肇が先を行くので、その後ろから灯りを持ってついていく。


 すると、戸を開けた先にいたのは郁の母――畔上だった。

 二人で少し驚いた後、まあ中に、と彼女を招き入れる。


 肇が指を鳴らすと、宵闇にまみれていた店の中に、ぱちりと明るく灯りが点く。何の灯りなのだかは知らないが、とにかくと櫻子は畔上に椅子を勧めた。


「ごめんなさい。仕事が遅くなったものだから、こんな時間の訪問になってしまって。お休みになられてましたよね」

「いえ、お気になさらず。最近は日も長くなって、親御さん方も働く時間が伸びてきてますからね。こういう時間のご訪問も珍しくはありませんよ」


 肇はさらりと畔上の謝罪を躱すと、


「それで、今日は何かご入用ですか」

「……実は、道具屋としてのお願いというより、この間のぬいぐるみの件に関するご相談に近くて」


 はあ、と頷いた。

 なるほど、と櫻子も頷きかけて、しかしその途中で止まった。


 本業の方、つまり妖の品にまつわる相談に来たのかと思ったけれど、そもそも畔上は『お守り人形』のときも、肇のはぐらかした説明に表面上の納得をしただけだ。妖のことなど、何も知らないのではなかったか。


「昼間、郁が――娘が、こちらに来ていたかと思うんですが」

「ああ、はい。来ていましたね」


 いつもありがとうございます、と畔上が頭を下げる。

 いやいやこちらこそ、と肇も頭を下げ返す。櫻子もその隣で「郁さん、とてもしっかりした子ですよね。いつもお行儀が良くて、お友達と一緒に来ているときも色々とこちらに気を遣ってくれて助かります」と伝える。畔上の顔が、わかりやすく綻んだ。


 そして強張る。

 懐から出てきたのは、今日の昼間に見たものだった。


「そのとき、この手紙をお見せしたかと思うんです」


 幸運の手紙だ。

 字体も、文面も全く同じ。郁が昼間、自分たちに見せてくれたのと同じものだ。


 ああ、と肇は気まずげな顔をした。


「あまりこういうものに関連して、物を売らないでほしいというご要望ですかね。私としてもどうしたものか迷ったんですが――」

「いえ、いえ! それはいいんです」


 畔上は大仰なくらいに畏まって言う。


「気持ちはわかりますから。私自身、郁にこれを教えてもらったときは、あんまり純粋なものだから、何も言い出せなくて……」

「そう言っていただけると。しかしでは、今日はどういったご用件で?」

「どうしても、」


 どうしても、と畔上が前のめりになっていく。

 机の上に拳を乗せて、ぐぐぐ、と頭は伏せて、肩が強張っていく。


 一体どうなってしまうんだろう、と口に手を当てて見守っていると、


「どうしても、こういう迷信が世にはびこるのが許せないんです……!」

 苦悶の表情で、彼女は顔を上げた。


「最見屋さん……というか、最見さん。同じ出版業界に身を置く者として、どうかこの手紙の真相究明、お手伝いいただけませんか!」


 ちらり、と櫻子は横目で肇を見る。

 耳が痛い、という顔をしていた。





「ほー。それで最見さんは出版社に連行されて一緒に取材会議ってわけなんだ」


 相変わらず何をしてるのかよくわからない人だね、と笑うのは真鍋。櫻子が通う料理教室の主催者で、駅周りで『よすが』という料理屋を開いている彼女だ。


 ちょうど畔上が訪ねてきた次の日が、料理教室の開かれる水曜日だった。

 昼間の子どもたちの相手を終えてすぐ、店は閉めることになる。櫻子は肇と同じバスに乗って、途中で別れた。肇は畔上に呼ばれたとおりに出版社へ。一方櫻子は、教室が開くまではしばらく時間があるから、昼時でも夕食時でもない落ち着いた『よすが』に立ち寄って、お茶を一杯飲んでいた。


 珍しいね、何かあったのと訊かれたから、そのまま答えた。

 もちろんどこまで話していいかの確認が、依頼主から取れている範囲で。


「真鍋さんは知ってますか。『幸運の手紙』」

「知ってるよ」


 あまりにもあっさり言うものだから、櫻子も驚いた。


 真鍋は「後よろしく」「うーす」と従業員とやり取りをして、割烹着を手に櫻子の向かいに座ってくる。


「私の頃はなかったけど、定期的に学校なんかで流行るみたいだね。ほら、ああいうのってやっぱり子どもの方が信じやすい……って。何だか四六時中子どもの相手をしてそうな春河さんの方が、私よりよくわかってるかもしれないけど」

「有名なんですか? 肇さんも最初から知っていたみたいで」

「どうなんだろう。ああいうのって、どこから流れてきてどこまで行くのかわからないからさ。でも、その手紙の内容は私が知ってるのよりだいぶ穏当だね」


 と言うと、と重ねて訊ねると、


「私が知ってるのだと、『何日以内に手紙を回さなかったら不幸なことが起こる』ってなってるんだよ」

「えっ。……それは、ちょっと」

「悪質だよね。まあ、だからかえって知ってるんだけど。『先生これどうしたらいいですか』って子どもたちが相談に来るから」

「どうしてるんですか」

「裏紙にして、使い終わったら捨ててる」


 流石、と櫻子が言えば、はは、と真鍋は笑った。


「あと人数も指定されてたな。九人とか十人とかに必ず回してくださいって」

「それ、ものすごい量が回っちゃいませんか?」

「それが意外とそうでもないみたい。やっぱ『馬鹿馬鹿しい』と思って止めちゃう人が多いのかな。あと、多分こういうのって、友達同士で回し合うから輪が閉じるんだろうね」

「あ、確かに。九人十人だと、教室でもすぐ回り切っちゃいますもんね」

「ね。にしたって、『不幸になります』はひどいけど」


 ですね、と櫻子は頷いた。


「確かにそれと比べて、私が見たのは結構良心的かもしれないです」

「いたずらはいたずらだけどね」


 真鍋は苦笑した。





「あ、それ私も知ってますよ」

 というのが、料理教室の片付け中に松波千枝に訊いてみた反応で、


「え、私も知ってます」

「私も私も」

「何、何の話?」

「『幸運の手紙』」

「何それ」

「あー、あれ? 私も貰ったことある」

「何か良いことありました?」

「お前に会えたよ……」


 というのが、他の生徒たちが寄って集ってきての反応だった。


 まずはみんな戻って片付けねと櫻子は促して、鍋を洗うのと並行しながら、千枝とだけ話を続けることにする。


「千枝さんのところでもあったんだ。最近?」

「そうですね。最近です」

「文面はどんなだった? 『何日以内に回さないと不幸になります』とか、そういうの?」

「え、何ですかそれ」

「真鍋先生が言うには、昔流行ってたのはそういう型なんだって」


 えー、と千枝は眉を顰めて、


「怖。それじゃ『幸運の手紙』っていうか『不幸の手紙』じゃないですか。よかったー。私たちの代はそんなんじゃなくて」

「ね。来たら嫌な気持ちになるもんね」

「ほんとですよ。ていうかそれ、友達から貰ったら結構へこむ……」


 絶対そんなの気まずくなりますよね、そうだよねえ、と二人は話す。

 それから櫻子はさらに、


「ちなみに、『何人に必ず回すこと』とかそういうのは書いてあった?」

「いや、『できれば誰かに回してね』くらいで。というか、そんなことまで書いてあるんですか? それもう嫌がらせじゃないですか」

「ね。聞いてるとそうだよね」


 そんな風に、それほど詳しいわけでもない様子の彼女とぽつぽつ話を続けていると、


「……ちなみに、春河先生」


 不意に、す、と距離を詰められた。

 肩と肩が触れ合うような距離。互いに皿を拭きながら、


「なんでそんなことを調べてるんですか」

「まあ、ちょっと色々あって」

「真鍋先生のあれのときも思ったんですけど。もしかして春河先生って、そっち系のことに詳しいんですか」


 隣を見る。

 好奇心と、ちょっとの怖いもの見たさが混じったような顔。


「ひょっとして、そういうのが専門の探偵だったり?」

「うーん……」


 そういうのではないかなあ、と櫻子は答える。


 よくよく考えてみて、でも、そんなに否定できない気もする。





 探偵と言われてその気になったわけではないけれど、櫻子は教室の帰りがけ、公民館の図書室に寄ってみることにした。手紙といえば書きものだから、同じく書きもの仲間同士、何かそのことについて記した本がないかと思ったのだ。


 夏休みなのもあってか、子どもが多い気もする。かりかりと鉛筆を走らせる音を聞きながら、棚の間から棚の間へのんびりと歩いて、櫻子は本の背表紙に『幸福の手紙』の文字を探す。


 けれど、やはりそれほど有名なものではないのだろうか。しっかりとした学術書の棚からそれを見つけることはできない。


 代わりに『ふしぎな手紙』という名前の、翻訳小説を見つけた。


 櫻子は試しにそれを手に取って、席に座って開いてみた。


 少し読み進めただけで、どうやらこれは『幸福の手紙』に関する小説ではなさそうだとわかった。しかし元々さした期待をしていたわけでもなかったし、背表紙に書かれていたのはその薄い一冊の、いくつも込められた短編のうちのほんの一篇の題名のことだとわかったから、どうせなら終わりまでとそれを読み続けてみることにした。


 子ども向けの話だろう。少し幻想的な雰囲気のある、爽やかな話だった。




 海辺の町。よく日に焼けた手足の細い少年が、熱い砂浜を裸足で歩いていると、一本の瓶が波打ち際に打ち上がっているのを見つける。


 瓶の中には、折り畳まれた古い紙が入っている。

 それは手紙だ。開いてみれば、こんな文面が書かれている。


『これを拾ったあなた。どうかわたしと、友達になってくれませんか』


 もちろん海には流れというものがあるから、たとえその瓶の中に同じように手紙を込めてみたって、相手の下には辿り着かない。


 けれどその返事を少年が流してみると、『うれしい』と、さらに同じ字で返事が浜辺にやってくる。


 どうしてなのだろう。考える少年の下に、いつも港で船を待つおじいさんがやって来て――




「櫻子さん」

「ひゃあっ」

 がたん、と椅子から転がり落ちるような勢いで櫻子は立ち上がった。


 机に後ろ手をついて、いきなり囁きかけられた耳を押さえる。どっどっどっど、と手のひらが脈打つのを感じながら、その声の主を見る。


 最初の一音の時点で、わかっていた人がいる。

 その人は「自分は何もしていません」と白を切るかのように両手を掲げて、なぜかやった本人だというのに、戸惑ったような顔すら見せて、


「ええと、」

 そっと言った。


「一緒に帰りませんかと、お誘いに来たんですが」


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