第五話 雨よもっと



 さて、雨だった。


「おっとお? 降り出してきましたよ」

「あら、本当だ」


 洗い終えた皿を布巾で拭いて、水切り台の上に載せる。

 その最中にぽつぽつと窓を叩き始めた雨粒に、櫻子の隣にいた松波まつなみ千枝ちえが真っ先に気が付いた。


 櫻子は濡れた指で手拭いを取ると、窓辺まで寄っていって空を見る。


 すると、みるみるうちに雲が暗い。朝に見たときはいよいよ梅雨明けかと思ったけれど、どうやらあれはただの空の気まぐれ。束の間の晴れ間に過ぎなかったらしい。


「西の方まで雲が続いていますから、このまま本降りになりそうですね」

 言えば、ええ、と他の者たちも皿洗いを放り出して外の様子を確かめ始める。


 嘘お。傘持ってくるの忘れちゃった。まだ小雨だし、今すぐ出れば間に合うかな。バスがないでしょう、バスが。私は歩いて帰れるから。このあたりなら軒下を渡ってけば濡れずに帰れるんじゃない? あんたそれ、相当変な人に見えるからね。


 口々に不平が漏れてくるのは、ここしばらくじめじめした日々が続いていたのとそれほど無関係でもないのだろう。あーあ、梅雨も終わりだと思ったのに。何言ってんの、そしたら次は夏よ、夏。まだ梅雨の方がマシじゃない? マシじゃない。わたくし夏はお父様と避暑に参りますの、おほほ。実家に帰るだけでしょ、あの雪国。


 ここはいつ来ても話し声が絶えない。

 そのことは櫻子にとっては新鮮で、周りともそれなりに打ち解けているから、非常に居心地が良い。


 けれど、


「うわあ、本当だ。本降りになってきた」

「千枝さんも、傘は忘れちゃった?」

「忘れました。これ、待ってれば止み……ませんよね」

「それなら途中まで、私の傘に一緒に入っていく?」

「え、いいんですか?」


 隣に立つ千枝の嬉しそうな顔に向けて頷きながら、


「ありがとうございます、春河先生!」

「う、うん……」


 いまだにこの扱いには慣れない、と苦笑いをする。





 遡ろうと思えば春先まで遡れるが、直近だとあの『鬼の珠』の取引の後。

 最見屋で、そのきっかけは櫻子に降ってきた。


「あの、肇さん。いい加減私、もう台所に立てますよ」

「まあまあまあ。いいじゃありませんか。たまには」


 たまにはも何も、しょっちゅう肇は自分で台所に立つ。

 しかし頭を打って気を失ってからは、より一層の頻度でその役割を奪われるようになった。


 最初の頃は「まだご体調も優れないでしょうから、私にお任せください」。

 その次は「大取引の後で気疲れもあるでしょうから、私がやりますよ」。


 そしてその次が「まあまあ」。


 その次の次が「まあまあまあ」。


 櫻子が「まあまあまあまあ」と言って取り返す日もあるけれど、日々鎬を削るこの争いは一進一退。負けた方が台所の前で冬眠前の熊のようにうろうろうろうろ「何か手伝うことはありませんか」と徘徊する羽目になる。


 しかしこれが、櫻子にとっては歯がゆいものであった。


 心配してくれているのはわかる。肇自身、段々楽しくなってきちゃっているらしいこともわかる。しかしこちらとしては押し掛けているわけだから――もちろん自分の状況についてこういう風に考えるのは一朝一夕でやめられるものではない――身の回りの世話を『される側』になるというのは何とも落ち着かない。


 しかし正面からその理屈をぶつけても、肇には「何を仰る」「ご実家だと思って寛いでください」「そもそも櫻子さんが来てくださらなかったら今頃この家も更地ですから、更地」なんて躱されてしまうこと請け合いだ。その日も櫻子は舌戦に負け、にこにこ笑いながら料理をする肇の背中を恨めしく見守っていた。


 事件は、「いただきます」の後に起こる。

 衝撃が走った。


「今日はなかなか自信がありますよ。どうですか、櫻子さん」


 それは、洋食だった。


 料理の名前も櫻子は知っている。カレーライス。こっちでは駅の近辺で見るし、東ノ丸にいた頃にも洋食屋では定番の料理。肇は洋行の経験がそうさせるのか、あるいは珍しい道具を扱う店の主としての気質がそうさせるのか、こういう外国料理を作ることが多々ある。


 一口含んだとき、櫻子は本能的に「このままでは負ける」と思った。


 正直なところ、ちょっとした自信のようなものがあったのだ。

 確かに肇はやることなすこと卒がない。それは料理についても例外ではない。が、元々一人で暮らしていた頃の「どうせ自分が食べるだけだから」の名残なのか、盛り付けだったり下ごしらえだったり、ちょっとした脇の甘さのようなものが残っている。


 その点自分は学校を卒業してからというもの、一生誰のために役立てるわけでもないだろうにと思いながら、延々家事手伝いをしていたのだ。


 間違いなく料理に関して、自分の方が肇より優れている点があるはず。


 その自惚れが打ち砕かれる味だった。


 少し気の早い夏野菜が多く入っている。恐らく市販のカレー粉そのままではない。それを基に味の調節を加えているか、はたまた一から自分で香辛料の調合まで行ったか。


 複雑で、奥行きのある味。

 しかし食べた瞬間の「美味しい」の気持ちを決して損なわない、真っ直ぐさもある味。


 衝撃だった。

 考えてみれば当たり前の話なのだ。肇だって、ずっとその場で立ち止まっていてくれるわけではない。何でも器用にこなす人は、その器用さを実現するための成長の速さを同時に兼ね備えており、毎日やっていればその分どんどん上手くなっていく。


 このままでは負ける。


 あまりの衝撃に櫻子はもう一杯おかわりしてしまい、あまりよく眠れず、よって明朝さっさと起き出して郵便受けに差し込まれた新聞を肇よりも早く手に取る。その紙面の隅には、こんな言葉が書かれていた。


 料理教室、生徒募集。


 これだ、と思った。





「真鍋さん。言われたとおり教室の片付けを終わらせて、皆さんには解散してもらいました」

「お。ありがとう、春河さん。ごめんね、次の教室で使う食材の件で急に呼び出されちゃって。外、雨が降ってきちゃったけど、傘は持ってる?」

「はい。最近雨続きなので、家を出るときに私は一応」


 料理教室は、駅の方にある公民館の大きな調理室を借り切って行われる。主催者は、その近くにある定食屋『よすが』の店主。四十絡みの、真鍋まなべという女だ。


 櫻子がこの教室で同じ生徒たちから『春河先生』と呼ばれているのは、彼女に助手を頼まれたからである。


「ただ、鈴木さんと元島さんは傘がないそうで。『よすが』で雨宿りしたいそうです」

「夜まで止まなそうだけど、まあいっか。わかった。最後の確認だけしたら、私が連れて帰るよ」

「春河せんせー。終わりましたー?」

「あ、はーい。じゃあ、鍵をお渡しして、私はこれで失礼します。今日もありがとうございました」

「こちらこそありがとうございました。あ、お給料。少ないけど今度振り込んでおくから。またよろしくね」


 ありがとうございます、ともう一度頭を下げて櫻子は厨房を後にする。

 扉のすぐ脇、廊下には松波千枝が待っていた。お疲れさまです、いえいえ、と言葉を交わして、二人で歩き出す。


 窓硝子に、しとしとと雨が降っている。

 穏やかで、長く続きそうな雨だった。


「大丈夫? 千枝さん、バス停までは送っていけるけど」

「大丈夫です。うちバス停からは近いんで。……公民館から出るバスじゃ辿り着けないのが残念なところですけど」

「ね。このあたりの路線、全部繋いでくれたら楽なんだけど」

「学校に行くときもそうなんですよね。まあ『さいはて町』って名前のところにバスが通ってるだけマシと言えばマシなのか……ちなみに春河先生、自転車に乗ったことってありますか?」

「ううん。千枝さん、乗るの?」

「考え中です。あったら便利そうなんですよねー」


 駅の建設と抱き合わせるようにして設けられたこの公民館は、洋風建築の趣を強く持っている。


 畳敷きの部屋は櫻子が知る限りでは一つもなく、廊下の窓一つとってもどこか洒落たような造りがある。そのくせどこかしらで金が尽きたのか、応接間がなかったり調度品に乏しかったり、こうして二人が歩く廊下の床板はぎしぎしと湿気に軋む。いたいけな倹約精神の発露と見れば、多少の可愛げはあるだろうか。


「でも、」

 と千枝が言った。


「雨の日に自転車じゃ通学できないか」

「私は地元でたまに見たけどね。片手で傘を持って、もう片手で自転車に乗る人」

「危なくないですか?」

「危ないと思う。転んでた」


 あはは、と千枝が快活に笑う。


 二人が出た調理室は公民館の中でもかなり奥まった場所にあるから、入り口までは結構な距離がある。それでも図書室の入り口を過ぎれば、もうすぐだった。お手洗いを横に行けば玄関広間が見える。待ち合わせだろうか、そこでは幾人かが雨の音を背中にして、思い思いに過ごしている。


 見間違いかと思った。

 でも、よくよく見ても知っている人で、しかも顔を上げると自分の名前を呼んだ。


「櫻子さん」

「――肇さん?」


 一人掛けの椅子に座っていた彼は、読んでいた本をぱたりと閉じると立ち上がり、こっちに向かって歩いてくる。


 手には傘。

 もしかして、と思った。


「迎えに来てくださったんですか? あ、お店は?」

「この雨ですし、子どもたちも来ないので早めに閉めてしまいました。それに実は、出版社から受けてる仕事の関係で少しこっちの図書室に用がありまして……あれ。傘、持ってきてたんですか」

「え、ええ。はい」

「そうですか。てっきり忘れていったのかと」

「春河先生」


 つい、と袖を引かれた。


 振り向くと当然、千枝がいる。彼女はじっと、肇を見つめていた。


「こちらの方は?」

「ああ。そうですね。紹介します。えっと……」


 あれ、と櫻子はそこで行き詰った。


 何と言おう。何と言えば誤解も何も生まず、外堀も埋めず、適切な形で自分たちの関係を表現できるだろう。


「…………」

「さいはて町で『最見屋』という道具屋の店主をしている、最見肇と申します。初めまして」


 代わりに、肇が答えた。


「は、はあ。最見さん……えっと」

「料理教室の生徒さんですか。あ、もしかして傘をお忘れで?」

「え、あ、はい」


 いつも快活な千枝が、たじたじになっている。

 気持ちはわかる、と櫻子はそれを見ている。気持ちをわかっている場合ではない。


「では、よければこちらをお持ちください」

 肇が、千枝に傘を差し出した。


 あっぷあっぷの表情で、千枝が傘とこっちを交互に見る。気持ちはすごくわかるので、櫻子はひとまず頷いて返す。


 千枝が傘を手に取る。

 肇は柔和な笑みを浮かべる。


「雨の日はまだまだ寒いですから。お風邪など召されませんように」

 言うと、彼はこちらに視線を向けて、



「櫻子さん。そっちの傘に入れてもらえますか?」


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