二
「それがすっごい美形!!! もうありえないくらい美人!!」
こうなるんじゃないか、と予想したことが全て起こる水曜日だった。
料理教室は、毎週水曜日の夕方ごろに開かれる。
開催時間はその日に扱う料理次第ではあるけれど、大体九十分前後。場所は公民館の中の広い調理室で、建てたはいいものの滅多に使われることもないからと施設側からも歓迎されている。
その扉の前で、櫻子は中から聞こえてくる声にもう気圧されている。
すると続いて、こんな声も聞こえてくる。
「それ、絶対大袈裟に話してるでしょ」
「そんなことありません。何もかも事実」
「どう考えても妄想でしょ。そりゃあいたら嬉しいけど。雨の日にバスに乗ってまで春河先生のことを迎えに来て、相合傘で帰っていく……なんだっけ。掛け軸?」
「掛け軸から出てきたような美形」
「その表現は何?」
「文筆で身を立てようとしてます?」
「いや、本当なんだって! あなたたちも見たら絶対『ああ、これが千枝のやつが言っていた例の人か。確かに掛け軸から出てきたような美形だなあ』って思うから!」
「なんで私たちはそのとき感心しながらおじさんの口調になってるんですか?」
絶対にこういう流れになっていると思った。
別れ際に口止めでもしておけばよかったものをと思うが、口止めしていてもこうなったかもしれない。何せこの料理教室に来るのは、お喋りな女学生たちばかりなのだから。
元々は真鍋――この料理教室の主催者が個人的に後輩に料理を教えていただけの、もっとこじんまりとしたものだったのだという。
しかしそれが段々と膨らんでいった。彼女の話すところによると、料理指南は習い事の一つとして大きな需要がある。生徒が友達を誘ってくるだけではなく、噂を聞きつけて「私にも教えてください」と自ら訪れる者もいる。そして人が増えれば、段々と料理だけが問題ではなくなってくる。
ここは料理教室ではあるけれど、同時に、この近辺に住む女学生たちにとって交流の場の役割も果たしている。
そこに櫻子は「試しに一度だけでも」とのこのこ足を踏み入れて、真鍋の「基礎がしっかりされていて落ち着いた方だから、助手役もやってくれないかな。人が多くなると一人じゃ見切れなくて。もちろんその分のお給料は払うし、料理を教えるのもしっかりやるから」との言葉にうっかり頷いて、半保護者の立ち位置に収まってしまったのだ。
そして、今はこう。
「いや、千枝さんの妄想じゃないです。私たちも見ました」
「見た。あの『美術館かな?』って方でしょ」
「人が建物に喩えられることってあります?」
「掛け軸と美術館の共通点って何? その人は四角いの?」
「いやちょっと待って。私が言いたいのは掛け軸そのものってことじゃなくて、まるで掛け軸から抜け出てきた人のようだってことで」
「わからないわからない」
「千枝ちゃんの言うことっていつもよくわかりませんからね」
「おっと、いいのかな? 今ここで乙女の心に傷が付いたよ」
「いいんじゃない?」
どんどんと話は進行し、事実であることも事実でないことも様々に語られ始めてしまっている。
あまり早く教室に着くと囲まれると思ったから、開始時間のギリギリを狙ってここに来た。けれど自分がいないところで話がこういう風に盛り上がってしまうなら、むしろ早いうちから来てさっさと話を切り上げてしまった方が――人生は逡巡と後悔の連続であり、そういう今更どうしようもないことを、櫻子は考えていた。
考え終える。
ここまで来て帰るわけにもいかないのだからと、扉を開けた。
「こん、」
挨拶が途中で止まったのは、視線の量に圧倒されたからだ。一斉に皆が、こっちを見ている。
それで、思い出した。
知らない場所に入っていくときは、いつもこうだった。
「春河せんせーっ!」
千枝が駆け寄ってくる。
「このたわけ者たちに言ってやってください! 春河先生にはとんでもなく美形の旦那さん――恋人?がいるんだって!」
気を、どうにか保つ。
この一週間、こういうことになったときのためにと計画立てていた言葉を、懸命に思い出そうとする。
もしどういう関係なのか訊かれたら、どう答えればいいでしょうか。
どう答えてくださっても構いませんよ。もちろんそのまま『婚約者』でも構いませんし、櫻子さんがそちらで過ごしやすいようにしてください。
肇は、そう言ってくれた。
だから、そうだ。決めたはずだ。こう訊かれたときはこう答えよう。料理教室で生徒たちに思われているとおり、優しげに笑って、何でもないことのように、穏やかに答えよう。
ほら、
笑って、
「――親類の、縁があって」
ぽつり、と。
小さな声で、櫻子は言った。
「それで、お店の従業員として雇ってもらってるんです」
明らかに皆、拍子抜けしたような顔をした。
けれどそれも、長くは続かない。櫻子が「面白くなくてごめんね」と続けようとすると、すぐにがらりと、
「はい、こんにちは。時間になったから始めますよ」
真鍋が入ってきて、手を叩いたから。
ここの生徒たちは、真鍋によく懐いている。だから本当はもっと訊きたいことがあっただろうに、彼女の一言で空気は変わり、いつもどおりに教室は始まる。
そっと櫻子は、胸を撫で下ろす。
何も変わっていないんだろうか、と思った。
❀
「大変だったね。春河さん」
教室が終わって戸締りと後片付けを手伝っていると、不意に真鍋がそう言った。
「あの子たちもそういうのに敏感だから。でも春河さんって、ああやって騒がれるのあんまり得意じゃないでしょう」
振り向くと、彼女は手を止めてはいなかった。
厨房の使用報告書をさらさらと埋めている。櫻子はといえば、ちょうど火や窓の後始末を確認し終えた後だから、やることもなくなって、
「……ええ、はい」
「ねえ。人のことなんだから放っておけばいいのにって、私なんかは思っちゃうんだけど」
鉛筆の先が止まる。
よし、と真鍋は呟いて、
「私が結婚してない分、春河さんが一番身近な『大人の人』に見えてるから、その分興味津々になっちゃうみたい」
「大人の人、ですか」
「あんまり実感ない?」
はい、と櫻子が頷くと、もうやることもなくなっただろうに、真鍋はその場から動かずに、座ったままでいてくれる。
だから、続けた。
「結婚できる年にはなっていますけど、それだけで大人とは……すみません。考えが幼くて」
「そんなことないない。四十年くらい生きてるけどね、みんなそうだよ。『我こそは立派な大人でござい』なんて胸を張ってる人は、自分で自分の幼さに気付けもしないくらい未熟なだけ。成長すればするだけ、自分の至らないところも見えるようになるものだよ」
偏見だけどね、と彼女は笑う。
「でもやっぱり、『これをしたら大人』ってされているものがあるでしょう。みんな何となくそれを目標に暮らしてて、いつかはやるはずだって思ってるもの。そういうのってやっぱりちょっと怖いし、だからみんな、それが『楽しいものだよ』って教えてほしがってるっていうか……ごめん。これ、子どもたちの肩持ちすぎだね」
「いえ。……わかります」
ぽつり、櫻子は答えた。
『これをしたら大人』――結婚であったり、就職であったり。そういうものに惹かれる気持ちは、自分にもわかる。
それさえしていれば、一人前でいられるから。
それさえできれば、不足のない『普通の人』になれるんじゃないかと、そう思っていたから。
だから自分もまた、経理や家事を習得して、このさいはて町までやってきたのだろう。
「大丈夫です。その……大人ですから。普段は接客仕事もしていますし、ご心配には及びません」
「お、頼もしい。でも、嫌になったら言ってね。私も春河さんがいてくれると楽できるし、本業に支障のない範囲でいてもらえたら本当に助かるから」
いやあ、とわざとらしく真鍋が肩を回した。
「お姉さまお姉さまって慕われていい気になってたら、いつの間にかこんなところまで来ちゃったよ。最初は一人二人の料理下手の世話だったのになあ」
「たくさんいらっしゃいますもんね。生徒さん」
「そうなの。どう、春河さんも別で教室を開いてみない? 生徒も半分くらい持って行っちゃって」
櫻子は苦笑いして、
「この腕じゃ誰も来てくれませんよ」
「そんなことないと思うけど……ちょっと立ち入ったこと訊いていい?」
「あ、はい」
「なんで料理教室に来ようと思ったの? 前に『もっと上達したい』とは聞いたけど、春河さんはお店をやってるわけでもないし、今でもとっても上手だし。何かきっかけがあったのか気になっちゃって」
少し迷ってから、実は、と櫻子は切り出した。
「なるほどね、洋食かあ」
真鍋は唇を尖らせて、
「でもそれって、洋食慣れしてなくてびっくりしちゃったのもあるんじゃない? その店主さんがものすごく料理が上手いっていうだけの単純な話でもない気がするけどな」
「いえ。本当に上手なんです。手先がすごく器用な方で、何でもあっさりこなしてしまって」
そんなに、と半信半疑のように真鍋は言って、
「春河さんもお店出してないのが不思議なくらいの人だし、身近にそういう人がもう一人いるっていうのがあんまり想像できないけどなあ。それとも春河さんの本業って、実は飲食なんだっけ?」
「道具屋です」
「二人も料理人が揃ってるなら、そっちもやってみればいいのに。純喫茶とか。道具屋なら内装には困らないでしょ?」
いやいや、と櫻子は言う。
言いながら、笑っている自分に気が付いた。
「道具屋は道具屋ですから」
話しているうちに、少し気が楽になったのだと思う。
そっか、と真鍋は言った。
「でも、海の向こうに詳しい人がやってるお店って、私もちょっと気になるな。東ノ丸とか南崎の方ならともかく、このあたりにいるとあんまり外の料理の知識って入ってこないし。もしかして、舶来の食品も扱ってたりする?」
「ああ……どうでしょう。食品を扱っているところは見たことがないんですが、たまに料理のときに持ち出している食材が珍しいので、もしかしたら伝手はあるのかもしれません」
「ほほう。じゃあ、春河さんがその伝手を十分に使えるように、私も張り切って指導しなくちゃね」
よろしくお願いします、と頭を下げた。
うむ、と真鍋はいかにも先生らしく鷹揚に頷いて、それから破顔する。
「それじゃあ、今日はこれで失礼します」
「はーい。帰りも気を付けて。好奇心旺盛なちびっ子たちに捕まらないように」
はい、と笑って厨房を出た。
幸いなことに、真鍋が危惧していたようなことは起こらなかった。玄関広間に行っても、料理教室の生徒の姿はもうどこにもない。近いうちに試験があると言っていた気がするから、その関係だろうか。薄曇りの空の下、外に出る。
バス停に向かって歩き出そうとして、ようやくそこで気が付いた。
「傘、」
呟いて、踵を返す。
忘れていた。
梅雨の間は、朝の天気が曇りだろうが晴れだろうがずっと持ち歩いているのだ。そのおかげでこの間の午後からの雨もやり過ごせたけれど、しかしかえって雨の降らない日は、そうして持ってきたことを忘れてうっかりそのまま帰ってしまいそうになる。
空の手が妙に頼りなくて、それで気が付いた。そうだ。それに加えて今日は、千枝に返してもらった分もある。
櫻子は気持ち早足で、厨房の方に引き返していく。
もう真鍋は鍵を締めてしまっただろうか。だったら「忘れ物をした」と施設管理の窓口に言いに行かなくては――いや。真鍋なら忘れものを見つけて、自分のところで保管してくれているだろうか。
とにかく、確かめてみなければ始まらない。
厨房まであと四歩。手はもう、扉を開けるための形になっている。
どんっ、と音がして、その手と足が止まった。
何かがぶつかる音だった気がする。跳ねるような音だった気もする。厨房の扉の奥から、確かに何か、激しい音が聞こえてきていた。
立ち止まっていれば自然と感覚が研ぎ澄まされる。
こんな声も、一緒になって聞こえてきた。
「――だから、暴れるなって!」
真鍋の声だった。
しばらく櫻子は、その場でぴったりと身体の動きを止めている。何かを考えているようで、何も考えられていない。ただただ止まって、時の流れの中で心が落ち着くのを待っている。
やがて彼女は、それでも戻るわけにはいかないだろうと、扉を叩いた。
「はいっ」
慌てたような足音。
すぐに扉を開けて、真鍋が顔を出す。
「春河さんか。どうかした?」
「すみません、中に多分、傘を忘れてしまって。二本あるんですが」
「傘? ……ああ、うん。ちょっと待ってね」
ばたん、と再び扉が閉じる。
足音。遠ざかって、近付いて、また扉が開く。
「これ?」
差し出されたのがまさしくそれだったから、櫻子は頷いて受け取った。
立ち去るつもりだった。
何も言わずに――というわけではない。すみません、ありがとうございました。いつもの言葉を口にして、軽く頭を下げて、それだけで帰路に就くつもりだった。
なのに、
「春河さん」
真鍋は、僅かに開いた扉の隙間から、
「聞いた?」
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