四
「ほう。仇の子孫を見るというのも、なかなか面白い体験だな」
「そうでしょう。なかなか良い男だと評判なんですよ」
約束の日の来客は、そんな調子で始まる。くくっ、と長い黒髪の男――槐は愉快そうに喉で笑ってみせた。
綺麗な快晴の日だった。
もうすぐ梅雨がやってくるという。その前にたっぷりと、雨の間も自分のことを忘れぬようにと教え諭すような日の光。春の陽気はさいはて町いっぱいに満ち満ちて、それは町の外れのこのお屋敷、最見屋でも全く例外ではない。
太陽を背負ってやってきた男は椅子を引くと、以前に訪ねてきたときよりもやや横柄だろうか。どっかりと座り込んで、袂からそれを引き出した。
「預けたものを取りにきた」
古い質札。
流質期限は三十年前。今の質素な最見屋の人間からすれば目を剥くような金額と、簡素な商品名が記されている。
拝見します、と肇はそれを手に取って、じっとその文字を眺める。それから、
「櫻子さん。お願いできますか」
はい、と頷いて櫻子は、帳場の奥へ入っていく。一番近い部屋の襖を開ける。小さな金庫に鍵を差し込んで、開く。小さな木箱の蓋を開けて、布を解いて中身を確かめる。
封じ直して再び帳場に戻れば、ほう、と槐は眉を上げた。
「本当に取ってあったのか。律儀なことだな」
「ええ。他にお売りするのも難しい品物ですからね。櫻子さん、こちらに」
櫻子は、それをそっと手渡す。
机の上に木箱は置かれ、手袋を嵌めた肇の手が、流麗な動きでその蓋を取る。
「『鬼の珠』でございます」
仰々しい出自の割に、小さな品物だ。
鶏の卵よりも二回りほど小さい。櫻子だって、手のひらに包んで隠せてしまうような程度の、つるりとした球体。
けれど、一目見ただけで尋常の品ではないとわかる。
宝石のように、黒く輝いているのだ。
一見すれば、墨で影を塗り潰したように黒い。しかし日の光に触れれば、それは瞳を傷つけるような鋭い光沢を放つ。たとえ妖の品だと知らなかったとしても、ただこの見目のために高値を付けて買い取るものもいるだろう。
漆黒の、美しい珠だ。
「お手に取って確かめられますか?」
「……最見屋。この珠がここに預けられた経緯を、お前は知っているか?」
槐はしかし、身じろぎもしなかった。
椅子に座ったまま『鬼の珠』を見つめる。ただそれだけで、肇に語り掛ける。
「いえ。先代の祖母とは引継ぎがあまり上手く行かず、特に質物関係のものはとんと教わっておりません」
「あの女らしい」
ふん、と槐は鼻で笑う。
その笑みが消えると、やはりその手も動かさないままで、言葉が続いた。
「……桜の花が、綺麗でな」
それは静かな、遠い場所に語り掛けるような声だった。
「美しいものは奪えばいい。そう思って挑んでみれば、逆に奪われた。しかし首を断つかと思えば、断たない。『これを担保に金をくれてやるから、もっと違う生き方をしてみろ』と訳のわからんことを言う。盗人に追い銭と洒落込むには、今にして思えば冗談のような大金だった」
ぽつ、ぽつ、と。
長い時間をかけて岩を穿つ雨だれのように、槐の言葉が店の中に広がっていく。
「そんな約束を馬鹿正直に守るつもりはなかった。再び力を蓄えて、俺を負かした女を今度こそ八つ裂きにしてやればいいだけの話だ。しかし――その力を蓄え直すのに、思いの外その金というのが役に立った」
ぎ、と椅子が軋む。
ようやく、槐は顔を上げた。
「小僧。これを俺の前に差し出して、自分が無事で済むとでも思っているのか?」
底冷えするような声と瞳だった。
地の底から這い上ってきた氷のような、凍て付く気配。みし、と屋敷が圧される音さえ響く。
「ええ」
けれど、肇はたじろぎもしない。
いつものあの薄く微笑むような顔で、槐の言葉を真っ向から受け止めた。
「そう信じていますよ」
びりびりと、震えるような沈黙があった。
何も言わずに、槐は視線を注ぎ続ける。肇は張り合わない。自然体で、ただ普通の客に対するように佇み続ける。
永遠にも思えるような拮抗。
「――ふ、」
やがて、頬を緩めて引き下がる。
引き下がった方は、こう言って次の話題を始めた。
「支払方法を決めるぞ。この場の一括がいいか?」
取引を終えると、槐は木箱を手にして立ち上がる。
肇は作り終えた契約書を相手に最後の確認をしていて、一方で金銭の勘定を終えた櫻子は手が空いているから、すぐに槐の動きに反応する。
これだけの金額の取引だ。外までの見送りは当然のことだろう。そう思って腰を上げれば、槐がこちらを見下ろしていた。
「娘」
彼は言う。
「すまなかったな。居心地が悪かっただろう」
「あ、いえ」
存外と、槐はこちらに向けては棘のない言葉を使う。
きっと、と櫻子は思う。これだけの金を稼ぐのに様々な技術や振る舞いを身に付けたのだろう。何せ普段は、西ノ丸で会社をやっているそうだから。
「詫びに一つ、良いことを教えてやる」
槐は、木箱を机の上に置き直す。
ぱかりと蓋を開ける。無造作に、それを掴み上げる。
自らの口の中に、それを放り込んだ。
驚きのあまり櫻子は声も出ず、口に手を当てるばかり。
がりごり、がり、と音を立てて槐はその珠を噛み砕く。何度か喉が動く。それほど長い時間をかけることもなく、最後にはごくん、と一際大きく飲み込んで、
「顔色一つ変えんか。可愛げのない小僧だ」
皮肉気に笑って、肇を見る。
肇は顔を上げると、やはり薄く微笑んで、
「ええ。お買い上げいただいたものの扱いは、お客様の自由ですから」
くっ、と。
槐は、今日初めて見せた笑いと同じように、喉で笑った。
「それはそうだ。娘」
「は、はい」
「確かめ終えた。俺も今、ここで知ったが――」
槐は踵を返す。
何を買ったでもないような、颯爽とした足取りで最見屋に背を向ける。
「結局、大いなる悪しき力などというものはな。
満ち足りた日々の前では、大して魅力的なものでもないのだ」
❀
「お疲れさまでした、櫻子さん」
「お、お疲れさまでした……」
疲労困憊の夜。
大取引の後片付けを終えて、散らかした蔵の最後の片付けも終えた後、帳場の奥で櫻子は胸を撫で下ろしていた。
「緊張しました……」
「ですよねえ。でも、おかげで助かりましたよ。随分私は気に入られていたみたいですが、櫻子さんがいてくれたおかげで空気が柔らかくなりました」
「あれでですか?」
「二人きりだったら、そのときはこの子たちの出番だったかもしれませんね」
笑って肇は、勘定台の上の動物ぬいぐるみたちの頭を撫でる。
どこまで本気なのか。しかし余裕ありげな肇の姿を見ていると、緊張が解けていくのも確かだった。
「肇さんはすごいですね。私、すっかり気圧されてしまって」
「いやいや。それよりも『鬼の珠』を見つけ出してくれた櫻子さんの方がずっとすごいですよ。もう、うちの稼ぎ頭です」
あれは、と櫻子は謙遜しようとする。
しかし、
「……何だったんでしょう。夢で見たって私は言ったんですよね?」
「あら。もうそこまで忘れてしまったんですか」
謙遜しようにも、そもそも何があったのかもほとんど覚えていない。
自分が何かを言って、その結果あの桜の木の下を掘り返してみることになって、そこであの『鬼の珠』を見つけた……その流れだけは確かなのだけど、そもそもどうしてそこにあると思ったのか、櫻子はもう、自分でもさっぱりわからない。
「……何だったんでしょう」
「霊夢だったんですかね」
霊夢、と訊き返せば肇は頷いた。
「神のお告げというと大仰ですが、何らかの人ならざる者からの言葉を受け取る、不思議な夢のことです。ただ……」
「ただ?」
「『鴉の羽櫛』から、その手の副効果は出ないと思うんですよ。額に当たった道具もぶつかった瞬間には割れていたでしょうし。そうなると櫻子さん自身に、そもそもそういった不思議を感じ取る感覚が備わっているんじゃないかと思うんですが……お湯が湧きましたね。あ、いいですよ。私がやります」
とぽぽ、と湯呑にお茶を注ぎながら、肇は言った。
「それならきっと生来のものなので、最見屋に来る前に妖やらなにやら、結構見慣れているはずだと思うんです」
なるほど、と頷きながら櫻子は肇と二人でお茶を啜る。
「じゃあ、不思議ですね」
「ええ。不思議ですねえ」
その温度で胃から身体が温まってきて。
窓の外の暗さに何だかいよいよ、今日一日を乗り切ったという実感が湧いてきた。
「……あ、そうだ」
そう思えば、気が緩んだのだろうか。
櫻子はふと、言わなくてはならないことがあると気が付いて、
「私だけじゃなくて、肇さんも大手柄じゃありませんか」
「おや。何かしましたっけ」
「木の下から掘り出すのだって私一人じゃできませんでしたし、掘り出したあの『珠』を見てどんなものなのかを推測するのだって、肇さんじゃなきゃできません」
いやいや。
いやいやいや。
すっかりお決まりのやり取りになり始めたから、たったの一往復でそれは終わって、会話は次へと流れていく。
「ところで、今回の収入のことなんですが」
肇から切り出した。
「これだけでかなり長いこと出費は賄えますし、稲森からの買い付けもできるようになりますから、品物を売るばかりで財産を切り売りしているのと変わらない状況からは脱せると思います」
「そうですよね。よかったです」
「それで、具体的な結婚の基準を二人で定められたらなと」
結婚。
……結婚。
「以前はそういうことを言える段階でもなかったので『暮らしの見通しが立てば』と曖昧な目標にしていましたが、いよいよ軌道に乗ってきましたから。具体的に『ここまで行ったらもうよかろう』と合意できる基準を決めたいと思いまして」
「…………」
「櫻子さん?」
おーい、と目の前で手が振られる。
振られているのに気付くのに、三秒かかった。
「――――わあ! す、すみません!」
気付いたら、飛び跳ねるくらい驚いてしまう。
「大丈夫ですか? やっぱりお疲れですかね」
「は、はい」
気遣わしげな肇の言葉にとりあえず櫻子は頷いてみせるけれど、別にぼんやりしていたわけではなかった。
驚いていたのだ。
結婚。自分で言い出したにもかかわらず、具体的な言葉が肇の口から出てきたことに。
そしてそれは、単純に照れくさいとか恥ずかしいとか、そういうことではない。
まだ自分の中で、整理が付けられていないのだ。
付けられない理由なら、いくらでもある。たとえばその根拠が自分たち以外の人間が交わした古い約束によるものであることだったり。一方的に自分が押し掛けていることだったり。肇が自分に向けてくれる優しさが、単に他人に向けられる一般的なものなのではないかという不安だったり。結局のところ自分に自信がなかったり――
あれ。
結局、自分の問題なのか。
「今日はやめておいて、またそのうち詰めましょうか。慌てて決めても仕方ないことではありますし」
肇が言う。
うっすらと頷きながら、しかし櫻子は今自分の頭に過った考えについて、ある一つの感覚を覚えている。
何だか、随分とすんなりその考えまで辿り着いた。
一度道筋を付けたことのある道を、歩くように。
それじゃあ、と肇が腰を上げようとする。
引き留めようとして、けれど自分の中にある何かに気付いたばかりでは言葉が浮かばなくて、上げかけた手が再び膝の上に戻ろうとする。
そのとき不意に、それが目に入った。
「――桜?」
え、と肇が同じ方を見る。
窓の外。すっかり暗闇になった夜の向こう。
「本当だ」
確かに二人の目には、桜の花びらが見えた。
どちらからともなく、店の入り口の方へと向かって行った。一度締めた鍵をもう一度開ける。がらり、と戸を開けば、その先にある。
目に見えて麗しい、花の嵐のようなものではない。
けれど確かに、桜の花びらが風に乗って、春の闇の中に舞っている。
どこから来ているのかと言えば、それはあの、ここに来て以来ずっと咲いているところを見なかった、庭先の桜の木だった。
「春も終わり、ですよね」
「――霊樹だったのか」
櫻子が窺うと、肇はこう言って説明してくれた。
「今の時期に訪れた槐が桜を目印にしようとしていた時点で、気付くべきでした。櫻子さん、あの桜は一年中咲く霊樹です。『鬼の珠』を埋めていたから、その力が封印の方に回されていただけだったんですよ」
だから『鬼の珠』を掘り起こしたのを機に、本来あるべき姿を取り戻した。
細かい理屈のことはよくわからないけれど、何となくそういう流れなのだろうと大掴みに櫻子は理解して、
「でも、」
それを見つめて、さらに訊ねる。
「まだ、満開じゃないみたいです」
「きっと、長く封印に力を使っていたのと、最見屋が閉まっていたせいだと思います」
こういうのは、と肇は言う。
「大体、その土地の隆盛と繋がっているものです。……わかってきました。地元の人間ならともかく、長生きの妖たちがうちを訪ねに来ないのはどうも変だと思っていたんです。たぶん、あれを目印にしていたせいで最見屋は完全に潰れたと思われていたんだ。来るのは稲森みたいにまめなのと、槐のように半信半疑でも踏み込んでくる執念があるのだけ」
やりましたね、と肇は櫻子を見て笑った。
「霊樹が復活したなら、どんどん巡り合わせが良くなります。これも櫻子さんのお手柄ですよ」
櫻子は一方で、その桜の花を見て、不意に思い出すことがあった。
別に、何もかもを思い出したわけではない。あの忘れてしまった夢。その記憶のことを、直接に全て取り戻せたわけでははない。
でも、あのとき自分の心に触れたものがあったことは、思い出した。
結局は、相手がどうこうではなく、自分の問題なのだ。
祖父母が決めた結婚だ。
でも、一度はしっかりと断られて、肇が申し込みを受け直してくれたのはその後のことだ。
一方的に自分が押し掛けている。
でも、肇は「喜んで」と受け入れてくれたし、毎日たくさんの感謝の言葉を口にしてくれる。
その多くの言葉と態度が肇の優しさから来るもので、自分が無理やりそうさせているのではないかと思える。
……でも、それは結局、自分の心の問題なのだ。
「肇さん」
「はい?」
ぎゅっと櫻子は拳を握る。
決心の気持ちがどこにも行ってしまわないように、手のひらの中にしっかりと掴まえている。
肇はもう、十分以上のものを自分に見せてくれている。
それを受け入れるのは――信じるのは。結局、自分がそうしようと決められるかどうかにかかっている。きっと、結婚したって変わらない。一生ずっと、誰かと関わり続ける限りそれは続くのだ。
「あの花が、」
だから、
「あの花が満開になったら、改めて、結婚のことを考えてもらえませんか」
その日が来るまでに、この人のことを目一杯信じてみようと思った。
答えが返ってくるのを、そのまま俯いて待っていてもよかった。
それでも顔を上げたのは、あの初めて出会った日には遠く及ばないだろうけど、一種の勇気によるものだったのだと思う。
「……いつも先に言われてしまうな」
肇は、やっぱり笑っていた。
「喜んで。櫻子さん」
その顔があんまり綺麗なものだから。
結局恥ずかしくなって、櫻子は俯いてしまった。
「さて、それじゃあ良いこともあったことですし」
「…………」
「踊りは得意ですか?」
「…………」
七秒くらい経つ。
「え?」
顔を上げた。
「踊りです。得意ですか?」
「……い、いや。全然」
「じゃあ私とお揃いですね。はい、手袋をどうぞ」
いきなり渡される。
蔵の整理をすることになったときに渡されたもの。嵌めて嵌めて、と言われるから、言われたとおりに櫻子は手袋を嵌める。
嵌めてしまう。
嵌めない方がよかったのかも、と気付く。
「あの、私本当に全然――」
「まあまあ、やってみましょう。櫻子さんはお綺麗ですから、いつかそういう場に出ることもあるかもしれませんし。練習と思って」
「いや――え、そっちのなんですかっ? あの、一人で踊るのではなくて?」
「大丈夫です。気の赴くままに手や足を動かすだけですから。どこ流でも大して変わりませんよ」
そんなわけがない。
そんなわけがないのに、肇が動き出せばその後に付いて行ってしまう。
待ってくださいと言えばいつでも待ってくれるはずなのに、今日だけは待ってくれない。
何が一体琴線に触れたのか、いつも以上ににこにこと笑う彼の顔が嬉しそうだから、恥ずかしくて戸惑っているはずなのに、そっぽを向いて家に戻るなんてことが、櫻子にはとてもできずにいる。
踊りが得意じゃないって、本当なんだろうか。
何でもできる人なのにこれだけできないというのも不思議な気がするけれど、確かに肇の動きは拙くて、昔に東ノ丸で見たようなあの優雅な手つきや足取りからは程遠い。
でもそれはかえって、誰に見られるわけでもなく好きでそうしているような、拙さなんて気にならないような真っ直ぐな楽しさがある。
手足を右に左にと大袈裟に動き出せば、ぎこちない動きのはずなのに、やわらかい笑顔が零れ出してしまう。
それだけじゃない。
声も、気持ちも、
何もかもが、溢れ出して――
春の終わりの、暖かい夜。
桜の木の下で、二人は踊っていた。
(第四話・了)
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