三
よせばいいのに、時々はそういうことを考えてしまうのだ。
掃除の合間だったり、食事の準備をする間だったり、店番をしながら肇の帰りを待っている間だったり、散歩の途中や布団の中でうつらうつらしている時間、そういうときに不意に、やっぱり櫻子は思ってしまう。
自分がいて、邪魔じゃないだろうか。
押し掛けてきて、迷惑じゃないだろうか。
とんでもない、と肇は言った。言いながら、一番上の棚に載った箱に手を掛けた。
「重っ……。なんで下が軽くて上が重いんだ。逆だろ普通」
「普通ですね」
「祖母さんも自分でおかしいと……ん?」
ぴた、と肇の手が止まる。
不意に彼が、こっちを見た。
「今櫻子さん、なんて言いました?」
「んー」
「……櫻子さーん」
「そうですねえ」
「……あの、櫻子さん」
それを視界の端には捉えていたものの、「見られているなあ」と気付いたのは十秒くらいかかってからのことだった。
「――あ! すみません、適当に返事をしていました……」
気付いてからは、ちょっと慌てる。完全に気を抜いて話していた。
何が「んー」だ、と自分で思うし、恥ずかしくなる。
「何ですか? 何かありましたか」
「いや、すみません。かえって集中しているところ。櫻子さん、さっきなんて言いました?」
「え?」
櫻子は、記憶を探る。
一秒、三秒、七秒。
「……何か、言いましたっけ」
本気で思い出せない。
「失礼なことを言ってしまいましたか」
「そういう感じじゃなくて……櫻子さんが覚えていないならいいのかな」
「何て言いました?」
「いや、私も覚えてないんですよ。えーっと……そうだ。この箱が重いって話をする前。何かもっと、会話が続きそうな気配がありませんでしたか?」
「私から振った話題ですか?」
「どうだったかな……」
お互いに首を傾げ合う。
少なくとも当人同士は真剣だったけれど、傍から見れば間抜け極まりない光景。
それを自覚したから、櫻子はついおかしくなって頬を緩める。
すると肇も、肩の力を抜いて微笑んだ。
「また思い出したら、そのとき話しましょうか」
「そうですね」
肇が棚の方に向き直る。
櫻子もまた、どの部屋にも必ず一つは用意されている机の上、まだまだ終わらない箱の一つを手に取ろうとする。
不思議なもので、思い出そうとするのをやめたときになって、それは頭を過る。
――私、迷惑じゃありませんか。
「…………」
思い出したら思い出したで、今度は別の悩みがやってきてしまった。
これを肇に伝えるべきか否か。いや、自分の心情を考えれば完全に否だ。何でこんなことを言ってしまったのだろう。
ついもう一度、肇の方を見てしまう。
だから、気が付いた。
「あ、」
多分、彼の角度からは見えていないのだ。
棚の奥の方、彼が手を掛けている大きな箱の奥に、小さな箱が引っ掛かっている。あれでは大きな箱を引き抜いたときに、一緒に落ちてきてしまう。
櫻子は席を立った。
音に反応して、肇がこっちを見る。それだから余計に小さな箱には気付かない。箱は揺れている。
「肇さん、それ危ないです」
「何が――」
軽そうだから、自分でも支えられると思った。
櫻子は小走りで肇の傍まで駆けて行って、
「これ、」
「おお」
はっしと掴まえれば、大箱を持ったまま肇は驚きの声を上げた。
「後ろの方にあったんですね。助かりました」
「いえ、よかったです」
にっこりと肇が笑うから、嬉しくなって櫻子も笑い返す。
すると箱の中から飛び出してきた何かに、すこーん、と額を打たれた。
❀
油断と言えば、油断かもしれない。
が、いくら何でも理不尽なんじゃないかと珍しく憤りを覚えながら、櫻子は額を押さえた。
痛いか痛くないかで言えば、痛くない。
けれど額を赤くしているところを肇に見られたら恥ずかしい――いや違う、その前に自分は従業員なのだから、先に商品に何があったのかを確認しないと。
「――あれ」
手の中に握っていたはずの箱が、なくなっていることに気が付いた。
落としてしまったのだろうか。すみません、と櫻子は謝ろうとする。
正面を見ると今度は、肇もいなくなっていることに気が付いた。
「え? あ、あれ?」
右に左に、視線をやる。
さっきまでいたのと同じ部屋のはずだ。なのに、自分の手からあの商品の箱は消えているし、肇の姿はどこにもない。
からかわれているのだろうか、と最初は思った。
けれどそんな淡い希望は、普段の肇の態度から簡単に否定されてしまう。確かに飄々とした性質の人だから、ときどきその言動に驚かされることだってある。でも、こんな風に人を不安がらせるようなやり方は、きっとしない。
不安。
そう、不安だった。
「は、肇さん?」
呼びかけても答えはなく、いよいよ櫻子は目の前の状況に向き合わなければならなくなる。
いきなり箱から何かが飛び出してきて、額に当たった。
すると目の前にあったはずの物と人が消えて、一人きりになった。
実は自分はその「すこーん」の衝撃で気を失っていて、今は夢の中にいる……そのくらいのことだったら、まだいい。もっと悪いのは、ここは『最見屋』なのだと思ってしまうこと。
何が起きても不思議ではないと、そう思ってしまうこと。
「肇さん」
もう一度、櫻子は名を呼んだ。
何の声も返ってこないことを確かめてから、自分の足で歩き出す。
「先に私、外に出てしまいますね」
一応、そう言い残してから。
肇と離れてこの蔵を歩くのは初めてのことだから、おっかなびっくりだった。
しかし、足取りはそれほど重いものではない。一日目に肇から教えられていたのだ。「入るのは少しコツが要りますが、出るのは簡単ですよ」――その言葉を頼りに、不安を振り払うように櫻子は歩いていく。
出られなくなったりするかと思ったら、あっさりと外に出た。
もう一度肇の名前を呼んでみるけれど、やっぱり、返事はない。けれど耳を澄ませていたら、別のことに気が付いた。
どうも、静かすぎる気がする。
しばらく立ち止まって、櫻子は周りを観察してみた。
人の気配が全然ない……のは、留守番の日の最見屋ならそんなに珍しいことでない。けれど空を渡る鳥がいないのも、虫の声が全く聞こえないのも、ほんの一瞬のことだけならばともかく、何分も徹底したように続くものだから、胸の中の不安に名前が付き始める。
神隠し、と。
言葉だけなら、聞いたことがある。
消えたのは肇ではなく、ひょっとして自分の方なのだろうか?
もしかしたら、あの場を動かなかった方がよかったかもしれない。肇に見つけてもらえるのを待っていた方がよかったのかもしれない。けれど出るよりも入る方が難しい蔵の中にもう一度足を踏み入れる勇気はなくて、そのまま櫻子は家の中に戻って行く。
何かの手掛かりがないかと探した。
居間も、台所も、自分の部屋も。何も変わったところは見当たらない。いつもどおり。今からここで普通に暮らし始めたって、何の違和感も感じることはないだろう。
でも、一つだけ、窓の外を見たときに気が付いた。
雲一つない青い空を、唯一ひらりと横切っていく白い花びらを、櫻子は見た。
窓から離れた。今までの迷い歩くような足取りとは違う。明確にどこに行くのか、目標を決めて歩いていく。自分の部屋を出て長い廊下。渡って、上がり框でもう一度履物を突っかけて、帳場の奥の戸を開く。
最見屋の店頭。いつもと何も変わらない景色の、しかし窓の向こうに見えていた。
だから迷わずにその戸を開けて、庭へ出た。
桜だ。
桜の花が、それはそれは美しく咲き誇っている。
ざあっと風が吹けば嵐のように舞い散って、春の視界を真っ白に染める。
どうして咲いているのだろう。
自分が来てから、一度として蕾だって付けたことはなかったのに。なぜ今はこんな風に――自分の他に誰もいなくなった場所で、咲いているのだろう。
「こんにちは」
声がしたから、目を凝らした。
桜の向こうに、人影らしきものがある。
どうして気付かなかったのだろう。ずっとそこに立っていたようにも思えたし、今急に、何もない場所に姿を現したようにも見えた。
桜色の、美しい髪の人。
男とも女ともつかないぼんやりとした輪郭で、その人はそこに立っている。
「あの、ここはどこですか」
「え? そんなにはっきり……ああ。良い友達を持ったんだね」
桜色の人は、まるで答えになっていないことを言った。
何かを考えるべきなんだろうと、櫻子は思っている。
でも、何を? 徐々に思考がぼやけてきている。夢の中で、正しい判断ができないのと同じだ。全てが漠然とし始めて、身体も心もふわふわとその形を保っていられない。
ここは夢の中なのだろうか?
「まだ覚めないで」
その人は言う。
「悩みごとがあるんでしょう? お嬢さん」
「……なやみ、ごと?」
「見ていればわかるよ。君は人の心を知りたいと思っている。不安なんでしょう?」
その人は、いつの間にか手の中に箱を持っていた。
それは、蔵からあの人が持ち出してくるものとそっくりで。
あの人って、誰だったんだっけ。
「ほら。今、頭の中に思い浮かべた人のこと」
心を見透かしたように言って、箱を開く。
「何を考えているのか知りたい。相手が自分をどう思っているのか知りたい。もちろん、このお店にはそれを叶える道具もあるんだよ」
ほら、とその人が手に取ったのは、木製の筒だった。
筒の先端に、硝子が嵌め込まれている。
「この木筒を通して、知りたい人のことを見つめてみるといい。そうすれば、その人が何を考えているのか、あなたをどう思っているのか、その全てがわかるよ。素敵でしょう?」
微笑んだ、ように見える。
その人は悪意も何もなく、ただ親切心でそれを差し出しているように見えた。
けれど、
「――要りません」
どういうわけか、櫻子はあっさりとそう答えてしまう。
おや、とその人は不思議そうな声を上げた。
「どうして? あなたの願いはこれで全て叶うのに」
確かに、そのとおりだ。
そのことが櫻子にはわかる。この人の言う通りにこの道具を受け取れば、自分の望みは叶うだろう。気になる。知りたい。それを叶えることができる。どういうわけか、そのことが理解できる。
「でも、」
小さな、小さな。
微かな、自分でも自分のものと確かめられないような声で、唇を震わせる。
「信じることは、本当は、自分の心のことだから」
その言葉は、一体どういう意味だったのだろう。
呟いた自分ですらそのことがわからない。何を呟いたのかも、すぐに忘れてしまった。思考も言葉も、遥かに朧になっていく。もう、自分の名前すらも思い出せない。
「――そうかい」
けれど霞む視界の中で、その人は笑った気がした。
「それなら、二番目の望みを叶えてあげる。あなたの求める『珠』は『鬼の珠』。かつてこの家を襲った恐れ知らずの悪鬼が、若かりし頃の彼女によって引き剥がされた力の塊」
その人が、桜の嵐の中をゆっくりと歩いてくる。
いつの間にか目の前にいる。目を凝らすより先に、さっと手のひらで顔を隠されて、
「私に似た髪のあなた。この場所をなくさないでくれてありがとう。お礼に、二番目に知りたいことを教えてあげる」
にっ、と。
いたずらっぽく、口元が笑うのだけが見えた。
「ここ掘れワン、ワン」
❀
「大丈夫ですか?」
ぱち、と目を開けると肇の顔があった。
まだ頭が、全然起き上がっていない。
その証拠に、肇が言ったのはすごく短い言葉だったはずなのに、まだその意味を理解するのに時間が掛かっている。
「覚えてますか? 物がぶつかって、そのまま気を失ってしまったんです。頭なら動かさない方がいいかと思って、すみません。このままにしてしまったんですが」
下から見ても、こんなに綺麗な人がいるんだなあ。
のんきに、ぼんやり、櫻子は思う。そしてじわじわそう考えられるのはどういうわけなのか、何を言われたのか、頭に血が回るようにして理解が追い付いてくる。
下から顔が見えるのは、自分が寝転がっていて、肇が上から覗き込んでいるから。
じゃあ、頭の下が床よりもずっとやわらかいのはどうして?
「す――」
答え。
膝枕されてるから。
「すみませ――っ!」
「ああっ、あんまり急に動かないで!」
そっと頭に手を添えられる。櫻子の腹の力では、たったそれだけで容易く押し留められてしまう。
肇は、大層心配そうな目をしていた。
「気を失ってたんですから。無理はしないでください。もう少し様子を見て、大丈夫そうならゆっくり部屋に戻りましょう」
「は、はい……」
果たして、これが無理をしない様子見と言えるのだろうか。
頭の下の感触。下から見る、近い顔。自分は仰向けで、今、どんな表情になっているだろう。変じゃないだろうか。どきどきと胸が高鳴れば血がものすごい勢いでめぐって、かえってこれはとても身体に悪いんじゃないかと思わせる。
そうだ、おでこ。
赤くなっていないだろうか、腫れていないだろうか。気になって指先で触れてみると、ひんやりとした感触がある。
肇が言った。
「とりあえず、近くにあったものを使って冷やしておきました。痛くはないですか」
「はい、全然。むしろちょっとひんやりしてて……」
上がってきた体温を冷ますには、気持ち良いくらいで。
その冷感に感覚を向けていたら、少しずつ思い出せてきた。
「すみません。仕事の途中で」
「いやいや。気にしないでください」
「その、あまり覚えていないんですが、何があったんですか?」
ええ、と苦々しい顔を肇がする。
これです、と彼は傍らの何かを手に取った。
「覚えていますか。櫻子さんが気を失う前に、持っていた箱の中に入っていた道具なんですが」
木製の、筒のようなものだった。
櫻子はじっとそれを見つめて、
「……何となく、見覚えはあるような」
「これがどうも相当古いものだったらしく、封印が甘くなっていたようで。箱から飛び出してしまったんです。……たぶん櫻子さんの髪を染めている関係で、頭に向かって一直線で」
ええと、と考えて、
「あ。あれですか。火薬の周りで燐寸を擦るという」
「そうですね。申し訳ない。私がもっと気を付けておくべきでした」
「いえ。棚の方に行ったのは私の判断でしたから。……すみません。それ、壊れちゃってますね」
筒は、元は先端に硝子が嵌っていたと見えた。
しかしそれはぶつかったときの衝撃か、今は割れてしまっている。これでは肇が硝子細工まで手掛けない限り、道具として再び使うことはできないだろう。
「いいんですよ。道具より、櫻子さんの方が大事です」
それなのに、真顔で。
信じられないくらい衒いのない口調で、肇が言った。
櫻子は、それで一気に身の置き場がなくなった。勘違いだろうと自分を誤魔化したいが、この体勢ではその誤魔化しをするために我が身を逃がす場所がない。焦って、落ち着かなくなって、自然と手が頭に向かう。
さらりと流れるような指の心地。
視界の端に、白い色が映った。
「あ、そうです。髪」
肇が言った。
「妖の品とぶつかった衝撃で、一時的に『鴉の羽櫛』の力が抜けているようです。明日には戻ると思うんですが」
たぶん、本当はそれどころではなかったのだと思う。
あれだけ黒く染めたかった髪が、元の色に戻ってしまったのだから。明日には戻ると言われても呆然としてしまうのが、今までの自分にとっては普通の反応だっただろう。櫻子はそう思う。
でも、
「あの、肇さん」
優しい夢のような、あの花の色。
春の風に背中を押された気がして、櫻子は言う。
「桜の木の下を、掘ってみませんか」
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