二
「えぇっ? 大変だったでしょう。すみません、肝心なときに出払っていて」
夕食時。
質札を持ったお客が来たと伝えると、まずそう言って肇は己の不在を詫びた。
「いえ、留守番も店員の仕事ですから。それより、もし対応に不備があったらすみません」
「いやいや。伝えていなかった私の責任です。申し訳ない。そういうお客が来ると全く思ってませんでした」
肇は寿司を買ってきた。
というより、奢られてきたらしい。翻訳原稿を渡しに行った出版社で「奢るから晩飯でもどうか」と言われて、「家に人がいまして」と断ったら、それならまあこいつでもと寿司を持たされたそうである。「人徳です」と肇はにこにこ笑って帰ってきて、というわけで二人でそれを摘んでいる。
春の虫が、窓の外で涼やかに鳴いていた。
「流石に祖母も、質入れされたものをそのままに母に店を譲るのはマズいと思っていたらしくて、綺麗にそっちの仕事は整理を付けてから引退したようなんですよ。だからその手のお客が来るとは思いませんでした」
「そうなんですね。私、知らなかっただけでそっちの事業もやっていたのかと思ってしまって」
「質屋は貸せる金がないと始まらないですからねえ。私の代になってからは、何とも」
櫻子さん、さっきから遠慮してませんか。烏賊ばかり食べている。そんなことはないですよ。いやありますよ。何だか私ばかり鮪や雲丹を食べてます。それはそもそも、肇さんの方がたくさんお食べになりますし。いやいや。いやいやいや。
「しかし、そうなるとちょっと骨だな」
「やっぱり、これだけでは調べるのは難しいですか? 私も後になってから思ったんですが、『珠』だけじゃどんなものかわからないですよね」
「いや、それはそんなに問題ないと思います。流れた品物は結構蔵でも見るんですよ。そこに『誰々からの預け入れ』と一緒に書き留めてあるので、品物を見つけてしまいさえすればまさにこれだとわかるんです。ただ……」
汁物だけは、家で作った。
蛤の味噌汁に肇は唇を付けて、
「……広すぎて、在庫の整理が間に合ってないんですよねえ。正直なところ、まだ全然です」
日中、ほとんどの時間は蔵の整理をしているのに。
店先に出てきたときや翻訳原稿の一件を見ただけでも、仕事ぶりが一際ゆったりとしているわけでもなさそうなのに。
「期限も過ぎてますし、そもそも最見屋にない可能性もありますよね」
「そうなんですよ。しかしこの金額、無視するわけにもいかない……」
ううむ、と熟考するように肇は伝言書きを見た。
「元々の質入金額も相当なものですし、三十年分の利子も払うと言ってるんですよね」
「はい。あ、一度『普通にご購入いただいた方が安くなるかも』とお伝えしてしまったんですが」
「私も櫻子さんと同じことを言いますね。……でも、そうか。もしかしたらこの質入金額が破格に安くて、改めて購入しようとしたら三十年分の利子を合わせてもそっちの方が安くなるということもありうるか」
ああ、と櫻子も肇のその推測に頷く。
けれど、それより気になることがあって、
「あの、素人考えなんですが、」
切り出した。
「前に、夜中にいなくなった幸多さんを探すときに使った『ここ掘れ犬』があるじゃないですか。あれを使って探すのは難しいんですか?」
「……そこに気付くとは。流石ですね、櫻子さん」
言葉の割に、大して喜んだ顔をしていない。
察した。
「ダメなんですね」
「難しいですね。まず『ここ掘れ犬』を使うには、探すものの匂いと手掛かりになるものの匂いが類似していることが条件になるんですが、もう三十年以上前に預かったものですから。蔵にしまっている間に匂いが消えてしまった可能性があります。それにそのお客も、質札を持っているからといって品物の元の持ち主と関係ある方とは限りませんし」
「あ、そうですね。すみません。もう少し詳しく素性をお訊きしておけばよかったです」
「いやいや、難しいですよ。根掘り葉掘り訊かれるのを嫌がる人もいますし、この手のはさらっと対応してもらって、後から二人で考えましょう。それにそのお客、妖でしょうし。長生き者なら話のさわりを聞くのも一苦労かもしれませんよ」
何でもないことのように肇は言ったけれど、「えっ!」と櫻子は声を上げてしまった。
「そうなんですか? 確かに独特の雰囲気がある方だとは思いましたけど……」
「私もパッと見ではわかりませんけどね。しかし三十年も前の質札を持ってくるお客自体が怪しいですし、桜の木なんて私が生まれた頃にはもうあんな感じでしたよ。本人が知っているなら年を取らないんでしょうし、他から聞いたなら聞いたで、そんなに昔の目印を使うということは昔の時代の最見屋の噂を元に訪ねてきているわけで、いずれにせよそっちの関係です。この質入れしたという『珠』もまず間違いなくその関連でしょうね」
「確かにそうですけど……あ、」
肇さん、と。
ようやく櫻子は、訊くべき機会を捉えたように思った。
「あの桜の木って、もう枯れているんですか」
「いや、そういうわけでもないみたいです」
肇は、あっさりと答えてくれた。
「葉も付けるし、中身も腐ってるわけではないようで。ただ、私が知っている限りでは花を付けたことはないと思います。こんな家だしそういうこともあるかと流してしまっていましたが……すみません。自分の家のことなのに大して詳しくもなく」
「いえ。話を逸らしてすみません。えっと、」
どこまで話したんでしたっけ、と。
「そうだ。じゃあ、『ここ掘れ犬』を使って『珠』を探すのは難しいんですね。他の道具もダメなんですか?」
「……実はこれ、他の道具にも言えることなんですが」
肇は困ったように首に手を当てて、
「蔵の中で使うと、大変なことになるんですよ」
「……大変なこと?」
「たとえばなんですが、爆弾がたくさん眠っている場所で燐寸を擦ったらどうなると思います?」
さっと血の気の引くような思いがした。
「は、肇さん。そんなところで毎日仕事されてるんですか」
「いや、今のは物の喩えです。普通にしていればそんなに危険はないんですが、失せ物探しの道具はこっちの手を離れて思わぬ動きもしますから。念には念を入れてです」
全然。
全然、知らなかった。肇が日中にやっている仕事に、そんな危険が伴っているなんて。
「金額も大きいですし、ここは一つ気合を入れて、根気強く探してみますよ。櫻子さんも、もし今後も似たようなことがあれば同じように対応してください。防犯対策は十分にしていますが、下手に踏み込んで怖い思いもしてほしくありませんし……そうだ、今度防犯まわりの説明もしておきますね。そちらの方が安心でしょうし」
肇は言うと、残り三貫の寿司を前に視線を泳がせる。
「櫻子さん、後はどれを食べますか。交渉しましょう」
「肇さん」
「はい」
「私もその在庫確認の仕事、お手伝いできませんか」
肇の箸が止まる。
じっ、と真っ直ぐに櫻子は肇を見つめている。
❀
「正直に言うとですね、櫻子さん」
「……はい」
「すごく助かります」
断られるかと思ったけれど、案外すんなりと肇は頷いてくれた。
早速明くる日、珍しく朝方からのことだ。
朝食を食べ終えて準備万端。「こんなこともあろうかと出しておきました」と肇が渡してくれた手袋に指を通して、本宅から渡り廊下を歩いて行った先、蔵の前に立っている。
もちろん櫻子は、どきどきしている。
「普段は台帳との突き合わせとか、細々とした仕事が間に挟まるのでいいんですが、今回は時間の都合もあって箱を開けては閉める作業になりそうで。一人で蔵の中でそれをちまちまちまちま延々続けると思ったら、気が遠くなりそうだったんですよ」
「そ、そうですか。ならよかったです」
「ええ、本当に。もちろん店番がいなくなってしまうので毎日こうというわけにはいきませんが――ここで立っていてもなんですね。作業しながらお話ししましょうか」
さ、行きましょう。
気負いもなく肇は言って、物の喩えとして火薬庫が引き合いに出されるような場所の扉を、がらりと開けた。
何度見ても、と櫻子は思った。
「……そんなに広いようには見えませんよね」
「ねえ。外の広さと中の広さが一致してないんですよ。摩訶不思議です」
たまに肇を呼びにくるときなんかに、中を覗き込んだことがある。
一見すれば、どこにでもあるような蔵なのだ。
棚があり、そこにいくつも紙やら木やらで出来た箱が並んでいる。大きなものは棚に載せられることもなく、無秩序に壁や床に立てかけられている。嵌め殺しの窓は全て摺り硝子で、外の様子はほとんどわからないけれど、昼の間は少なくとも足元や手元の明るさに不自由しない程度には採光が確保されている。
問題は、そのまま奥に進んでいったとき。
戸があって、それを開けると奥にさらに部屋があるのだけど、それがいくつもいくつも続くのだ。
「一応、はぐれないように少し寄っていてくださいね。すぐに迎えに行きますが、見失ったら不安になるでしょうから」
「はい」
ゆっくりと歩く肇の後ろにぴったりと付きながら、櫻子は歩く。
本当に、どこまでも続いていく。
悪い夢の中にいるようだった。
外の広さと中の広さが一致してないと肇は言ったが、これは軽口でも何でもなく、実際にそうだと思う。蔵の周りをぐるりと歩くのなんて精々が五分もかからないだろうに、中に入ってみれば、十分歩いても向こう側の端まで着かないのだ。
窓は開けられないようにしてるんですよ、と肇は言っていた。
どうしてなのかは、訊いていない。
「ちょっとだけ、怖い話をしていいいですか」
「えっ、あっ、はい!」
「――実は祖母は、片付け下手なんです」
「…………そうですか」
何分歩いただろうか。棚の前で肇が足を止めたのは、今まで通った中でもかなり雑多に散らかって見える部屋だった。彼はいくつもある箱のうちの一つを手に取ると「うん」と頷く。
「祖母の筆跡です。三十年前となるとその頃ですから、このあたりから始めてみるのがいいでしょうね。……恐ろしいことにあの人、自分の専用の部屋も作らないで色んなところに物を放り込んでる節があるんですが」
分担しましょう、と肇は言った。
「私が物を出したり戻したりするので、櫻子さんは質入のときの覚書が付いていないか確認をお願いします。まずこの外箱を見てもらって、そこになければ一応箱を開けて中まで見てもらえれば。ついでに汚損を見つけたら、よけておいてもらえると助かります。暇を見つけて直しておきますから」
「はい。あの、肇さんも疲れたら言ってくださいね」
「ええ。結構重いものもありますし、櫻子さんも目が疲れるでしょうから。お互い休憩しつつ進めていきましょう」
疲れたら運ぶ方を代わりますよという意味だったのだけれど、実際に始めてみると、こっちはこっちで大儀な仕事だということがわかってきた。
肇が祖母の片付け下手を「怖い話」と呼んだことにも、得心が行った。
覚書の同梱の仕方に、規則性がないのだ。
箱の外側に直書きされていることもあれば、ぴったりと紙が底の方にくっついていることもある。酷いのは道具それ自体にぐるぐるに巻きつけてあったり、中に突っ込まれていたりする。「こういうことをして大丈夫なんですか」と不安になって肇に訊くと、肇は肇で渋い顔をする。
「本当はこういうのも全部直したいんですが……。時間もないですし、何だかんだ今まで暴発していない以上問題はないんでしょう。そのままにして、今はどんどん進めましょう」
櫻子は、肇の蔵の整理が一向に終わらない理由の一端を垣間見た気がした。
収納方法の多彩さのせいで、全く気が抜けない。根本的には同じことの繰り返しのくせに、やたらに集中力と観察力を要する。これが全部同じ大きさと形の箱の確認だったら、ただ自分を人形か何かだと思って決まった動きをさせるだけだから、もっと楽だろう。しかし気を抜くと、見つけられるはずのものを見逃がしてしまう。
総合的に言って、疲れる。
一日目に何の収穫もなく蔵を後にしたときは、肇もまた一日中動いて疲れていたのだろう。二人して夕飯時の時点でこっくりこっくりと夢うつつのまま、寝言みたいな会話をしていた。
二日目。昼頃にようやく一日目の続きが終わって、次の部屋に案内される。肇がした怖い話その二。「祖母が最見屋の店主を務めていた期間は何と――」怖すぎて震えてしまう。
三日、四日と続くとお互いに独り言が増えてきた。
うわ、見ただけでうんざりしてくるな。
ですね。
これわかんない、中どうやって見るんだろ。
どうでしょうねえ。
独り言は独り言で、別に誰に向けたものでもない。
お互いにそれはわかっていると思うのだけど、声がするとつい反応して相槌を打ってしまう。打つものの、自分の仕事に集中力を割いているからまともな会話になっていない。ときどき後になって自分の相槌を思い出しては、あまりの支離滅裂ぶりに笑ってしまって、びっくりしたもう片方に「どうしました?」と心配される。そういうことが、驚くべきことにお互いに数回あった。
と、思う。
と思うのだが、櫻子はその記憶にすらあまり自信がない。
何しろ同じような場所で一日中同じような仕事ばかりをして、他にすることといえば食事を摂って風呂に入って寝るばかり。そういうことも仕事の疲れに押されてほとんど夢見心地のままやっているものだから、昨日と今日の区別すら曖昧になってくる。
同じ動き、同じ部屋、同じ日々。
何だか、長い夢を見ているような気すらしてくる。
そういう気の緩みが、その一言を生み出してしまったのだと思う。
「私、迷惑じゃありませんか」
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