第四話 この花が満開になる頃に
一
「おお。お店が明るくなっている」
久しぶりに現れた稲森は、最見屋に入るや、まずそう言った。
春の、そろそろ終わりに差し掛かる頃だ。お客が来たことだから、と櫻子は掃除の手を止めて、「いらっしゃいませ」と挨拶をする。
「何だか前よりだいぶ採光が良くなった……棚の位置を変えたんですか。かなり印象が変わりましたね」
「そうなんです。最近、家族連れの方が来てくれるようになったので、店の雰囲気を明るくしようと思って」
「家族連れが?」
へえ、と勝手知ったる様子で稲森は接客用の椅子に座る。
お茶の準備をしながら、櫻子は続けた。
「ええ。幸多さんと、それからほら、この間の自由市。稲森さんが買ってくださった後に、本当に何人かお客さんが来てくださって。そのときの親御さんの一人が新聞社勤めで、小さく広告を出してくださったんです」
「なんて?」
「……『よろず修理承ります』」
はは、と爽やかに彼は笑った。
「適材適所だ。あの子、大抵のことはやれますからね。今度は『お困りごとよろず請け負います』がいいですよ。経営指南以外は何でもできるでしょう」
あはは、と一方櫻子は苦笑いをして、
「肇さんは『流石に何もかもは無理ですよ』なんて言ってたんですが」
「そういうところが真面目すぎて良くないんですよ。いざとなったら妖の品で誤魔化せるんだから、いくらでもふかせばいいんです。と、そうだ。今日は肇くんは?」
「あ、ごめんなさい。今、駅の方の出版社に」
「出版社?」
「その記者さんからのご縁で、ほら、肇さんって外国で暮らしていた時期があるじゃないですか。そうしたらちょうど翻訳の手が欲しかったそうで、今日は出来上がった原稿を持ち込みに」
今度こそ、稲森は大笑いした。
「道具屋の店主が一番向いてないな!」
「…………」
「……おほん、失礼。真剣にご結婚をかけて奮闘中のお二人に言うことではございませんでした」
「い、いえ。それはいいんですが」
「いいんですか?」
「……良くは、ないんですが」
消え入るような声で言えば、
「ま、肇くんも見た目に取っつきづらいのが悪さしてるだけで、営業下手というわけでもないですから。案外その出版社で上手いことやって、また店の宣伝を持って帰ってくるかもしれませんよ。期待しておきましょう」
「はい。……あ、それで不思議だったことがあって。お訊ねしてもいいですか」
「何です?」
「肇さんってお店では愛想も良くて接客もお上手ですよね。私が来るまでに、外で営業はされてなかったのかなと。ご本人にもちょっと訊きづらくて」
ああ、と頷く。
僕もずっと見ていたわけではないので詳しいことはわかりませんが、と稲森は言った。
「あんまりこういう方面を考えなかったんじゃないですかね」
「こういう方面?」
「普通の道具屋と並行しながら地道にやっていく方向がです。先々代……あの子の母親は全部放っぽり出していたので実質先代ですが、あれは僕の目から見ても怪しい人でしたからね。子どもの頃から知っているのにですよ? ああいうのを見てたら、こういう真面目な方向はそもそも思いつかないでしょう」
妖の稲森の目から見ても、なお怪しい人。
果たしてどんな人だったのだろうと櫻子は不思議に思う。肇の祖母。一度も会ったことはないけれど、祖父からもたびたび話には聞いていたので、とても気にはなる。
いつか、肇に訊いてみようか。
「それにあの子、結構売り買いする相手を選ぶ性質じゃないですか」
「え、そうなんですか?」
「お。そう見えないってことは、今の方向で上手くいってるんですね。たぶんあの子、『不思議な道具で楽して得したい』みたいな人間は嫌がりますよ。それはそれで良いことなんですけどね。そういうところを疎かにして『儲かれば何でもいいや』で野放図にやっていると、結局性質の悪いのに囲われて潰れていく……というのも珍しい話じゃありませんから」
そういう店も見てきましたよ、と稲森は言う。
淡々とした口調だけれど、不意に櫻子は背筋が寒くなった。
確かに、と今更思ったのだ。
店頭に持ち出されてくるのは大抵、不思議なところがなかったり少なかったりする品物ばかり。けれど、この最見屋に来てから見たいくつかの道具の見事な効果を見れば、もっともっと『使える』ものがあってもおかしくない。
あの広い蔵の奥には、他に一体何があるのだろう。
それを抱えて取引をするということは、どういうことなのだろう。
「ま、しかしあの子の商売っ気の薄さなら平気でしょう」
そんな不安を払うように、稲森はさっぱりと言った。
「欲の薄いところが玉に瑕な子ですが、穏やかですし、穏やかさを保つ術も十分以上に持っていますから。櫻子さんが来てからは血色も良くなりましたし、今の感じが肌に合うんでしょうね。気長にのんびり、楽しくやってください。応援しますよ」
「……はい、ありがとうございます」
礼を言えば、しかし少しだけ稲森は考え込むようにして、
「って、うら若き乙女の櫻子さんからすればすぐに結婚を決めたいか」
「あ、いや。それはその、」
「というか店だの何だのまどろっこしいこと言わずに、さっさと結婚しちゃえばいいのに。店が潰れたって、あれなら翻訳でも職人でも何でも不自由なく生きていけるでしょう。どうせ幸せにはなれますよ」
とても魅力的な提案をされる。
思わないでもない。それは常々、最見屋としての本業以外でじわじわと生活が軌道に乗ってきている現状、時たま頭に過らないでもない。
が、もちろん、そういう問題でもないのだ。
「――約束しましたから! 一緒に店を立て直しましょうって!」
「あらら。困ったことにお似合いだ」
誘惑を振り切ってそう言えば、「それじゃあこれで」と稲森はさっさと店を去って行ってしまった。後に残されて、櫻子はつい気もそぞろになる。嵐のようにやって来て、嵐のように心をかき乱された。
思わないでもないのだ、と。
はたきで壁の埃を落としながら、なお櫻子は考えている。
客観的に見て、今の暮らしの始まり方はめちゃくちゃだ。自分が生まれるよりも前になされた婚約だけを頼りに――するのはまあ、それほど珍しい話でもないかもしれないけれど。それでも他の婚約と比べてずっと曖昧なそれだけを胸にずかずかと一方的に押し掛けて、一方的に告白をして、一方的にそのまま住み込んでいる。はっきり言って迷惑以外の何物でもないのではないか。そんな風に自分を思うことも、結構ある。
だというのに、妙に暮らしは落ち着いている。
流れていく時間は穏やかだし、細々とではあるけれど経営も好転している。稲森が言った肇の血色だって――傍で毎日見ているからわかるけれど――着実に良くなっている。
それに、自惚れでなければ、たぶん。
肇も自分のことを、憎からずは――
「わ、わ」
手元がおろそかになって、はたきが指から零れていく。空中で掴み取ろうとしたけれど叶わず、手首に当たってからんからん、と床に落ちた。火照っていた思考が、それで急に冷静になる。しゃがみこんでしばらくそのまま、じっと櫻子は考えていた。
自惚れを事実として受け取るだけの自信が、自分には、ない。
楽観的な思考がやってくるのと同じくらいの頻度で、そんな風に、その逆にある気持ちも心に浮かぶのだ。
色恋の機微なんて、これまでしたことがないから、ひとつもわからない。自分がいちいち胸を高鳴らせている肇の言葉も仕草も、彼にとっては何でもないことなのかもしれない。肇が優しくしてくれるのだって彼にとっては普通のことで、好意でも何でもなくて、ただの勘違いで、もっと悪ければただただ彼の祖母が交わした約束を律儀に守っているだけで、本当は自分の扱いにもほとほと困って疲れ果てていて――
「――失礼する」
その声が響いたとき、すうっと背筋に寒気が走った。
戸惑いながら、しかし櫻子はすぐさま腰を上げる。いらっしゃいませとお決まりの挨拶を口にして、店に入ってきた新たな客の方を向く。
黒く長い髪の、若い男だった。
細身で、気難しげな、繊細な顔立ちをしている。幸多の父――三田村も神経質そうな顔立ちをしているが、またこちらは種類が違う。端正と言えば端正だけれど、印象としては険しさが勝つ。
何だろう、と櫻子は思う。
何だかこのお客が入ってきてから、店の中が寒くなった気がする。
「こちらは『あの』最見屋で間違いないか」
男は落ち着き払った声で言う。
その言いぶりで、櫻子も察さずにはいられなかった。
本業の方のお客だ。
「はい。一時休業も挟みましたが、こちらで長く営業しておりますので、お客様がご存じの最見屋かと思います」
「そうか」
男は頷くと、しかし櫻子から視線を外す。
彼は窓から、庭先を見た。
「……桜の木が」
「はい?」
「枯れたのかと思ってな。あれを目印にしていたから、戸惑った」
ああ、と櫻子も相槌を打つ。
そういえば、前から気になっていたのに、日々の仕事に紛れてしまって肇に訊きそびれてしまっている。庭先のあの桜は、いつ咲くものなのだろう。それともとっくに枯れていて、伐っていないだけなのか。
「――今は関係のないことか。それより、お前が当代の最見屋か」
男が訊ねてくるのに、
「いえ、店主の最見はただいま出ております。もうすぐ戻ると思いますが……」
「そうか。なら言伝を頼みたい。どうせこの場ですぐに終わる話でもないからな」
男は懐に手を差し入れる。
するりと取り出したのは、一枚の紙札だった。
「質に入れていた品を、買い戻したい」
驚いた素振りを櫻子が見せなかったのは、単に接客中の自制心の賜物だった。その紙札――質札を、何とここで働き始めて櫻子は、初めて見たのだから。
やってるんだ、そういうの。
道具の売り買いだけじゃなくて、質屋も兼ねてたんだ。
「はい。かしこまりました。拝見いたしますね」
そんな驚きをおくびにも出さず、櫻子はその質札を見る。
「
走り書きのような字だ。
槐と読めたのも正直なところ当てずっぽうで、男が頷いたときには難所を潜り抜けた気分だった。珠、と読み上げたときも何が何やらで、しかしその先、とうとう櫻子も無視できない箇所を見つけてしまう。
「あの、こちら。流質期限が過ぎておりますので、場合によってはすでに売却しているかもしれませんが……」
流質期限。
質屋の基本的な仕組みはこうだ。品物を質屋が預かり、預け主にそれに見合った金を貸す。この預け入れた品物は担保として機能していて、借りた金を利子と合わせて返すことができれば、品物は預け主の下に戻っていく。
しかし借りた金を返すにも、期限というものがある。
それが流質期限。それを過ぎれば預け入れた品物は質屋に『流れる』ことになり、以降、他の客に売却しようが質屋の勝手ということになる。
「ああ、わかっている」
しかし男は、頷いた。
「残っていればでいいんだ。特殊なものだから、売り手が付かなくてそのまま蔵に残していることもありうると思って今日は来た」
「あ、なるほど。はい、では出質というよりは新たにお買い求めということで――」
「いや、もし品物が残っていれば出質で処理してくれて構わない。その分の利息も払うつもりだ」
怪訝に思った。
「よろしいんですか? その場合、利息が随分付くことになりますが」
「構わない。そのつもりだ。ここにはもう一度……そうだな。十日後にもう一度来る。そのときまでに、もしまだ蔵に残っているようなら用意しておいてくれ」
「かしこまりました。店主の最見が戻りましたら、そのように伝えておきます。そちらの質札、伝言のために少々お借りして、詳細を書き留めてもよろしいですか?」
ああ、と男が質札を貸してくれるから、櫻子はさらさらとそれを覚え書きに転写していく。
正直なところ、初めて触れる業務だからわからないことだらけだ。これでいいのだろうか。もっと色々と訊くべきではないだろうか。そんな不安がないと言えば嘘になるけれど、しかし書き留め終えてしまえば、それ以上何をすればいいか思いつかない。
「はい。では確かにお伝えします。こちらの質札はお返ししますね。当日、品物があった場合には引き換えますので、ご持参ください」
「ああ。では、よろしく頼む」
男はさっと質札を袂にしまうと、振り向くこともなく去って行ってしまう。
しばらく櫻子は気を取り直して掃除に戻ることもできず、その伝言書きをじっと見つめていた。そこには確かに、こう書いてある。
流質期限、三十年前。
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